【BL】薔薇に至る扉

けい

プロローグ「愛の心に哀の身体を」


 視線を彼女に向けた時には、既に命を奪わんとする殺意の爪先はエイトの目前に迫っていた。その血に汚された爪先は、微かに甘い香りを孕んでいる。

「デミ……っ!!」

 エイトは思わず、愛しい女の名前を声に出していた。愛しかった彼女。愛しかった。十五年生きてきた自分の人生の中で、それまでは一番大切な女性だった。それまでは……

 この声が彼女の耳に入ってさえくれれば、心優しい彼女はその殺意を振りかざすことはしなくなるかもしれない。そう淡い期待と吐き出したいまでの罪悪感が、エイトにその名前を呼ばせていた。

「このままでは殺されてしまうのは、エイトさんの方ですなぁ」

 およそこの状況には不釣り合いな、のほほんとした老人の声がエイトの神経を逆撫でする。エイトは苛立ちをぶつけるために声のした方を睨み付ける。

 高い天井に煌びやかな装飾が光輝くこの大広間は、この館の主人であるフリン・スペンサーのご自慢の空間らしく、使用人の汗と涙の結晶――涙は主にエイトだけかもしれないが――の磨き抜かれた床と調度品が、所々でエイトとそれに対峙する彼女の姿を映し込んでいる。

 そんな輝きに紛れ込むように、老人は部屋を支える大柱の一本に背を預けるようにしてエイトをただ、見詰めている。白髪ばかりの頭髪だが、そこに老いという言葉は感じられない。その年齢にしては鋭すぎる視線には、確かに軍人としての冷徹さと、そして確かな愛情を感じることが出来た。

「っ!」

 彼女の爪先が鼻先を掠める。仰け反るようにしてその一撃を避けたエイトを、彼女は執拗に追い詰める。彼女は獣の動きにより近付けるために、その小麦色の健康的な愛らしい手に、鋭いカギ爪を装着していた。

 草花を愛で、掃除も洗濯もテキパキこなす、そんな彼女にその凶器だけは似合わなかった。彼女のその細く繊細な手には、血に汚れた武器ではなく、幸せを掴んで欲しかったのに。

 エイトはまだ、判断が出来なかった。彼女を『どうするか』。それはきっと、その瞬間になった時に自然と答えが出るものなのだと、そう漠然と考えていたからだ。

『私ね……エイトが軍人になったら、お嫁さんにしてもらうのが夢なんだよ』

 その答えに曖昧に頷いただけのエイトは、漠然とその時は考えていたのだ。その『軍人になった』時に、彼女と結婚するのだろうと。その『時』のためにも、親のためにも、自分は軍人にならなければならなかった。それがまず、先決だったから。

 後ろに倒れ込む寸前で、身体を捻り、そのまま腕も使って右に避ける。正確に打ち抜かれた彼女の一撃で、一瞬前までエイトがいた場所の床がひしゃげる。いくら爪と『合成』の影響により打撃力が上がっているといっても、その破壊力は想像以上だった。

――こりゃ、本部の特務部隊が動くわけだぜ。こんなもんが家の近所で行われていたなんて……

 目標を捉えられなかった彼女は、しかしすぐにエイトの動きに反応して追ってくる。赤に近い短い茶髪が、その驚異的な動きに呼応して揺れている。さらさらとまるで風と戯れるかのように穏やかに、無感情に揺れる。

 頭を狙って放たれた右の突きを首の動きだけで躱し、エイトは仕方なく彼女の身体に向かって身を屈ませてタックルを仕掛ける。いくら身体能力が強化されていようと、純粋なる力比べに持っていけば、男女の体格の差に加え、ここ最近の鍛え方も相まってエイトに勝機が見えてくるという算段だ。

 細い腰をがっちりと抱え込んで、そのまま床に押し倒す。彼女の爪先が背中を浅く傷付けるが、致命傷にはならないので我慢。マウントの姿勢に持っていったところで、なんとか彼女を抑える方法を思案していると、彼女から『無感情』な反撃を喰らった。

 なんの躊躇もなく振り上げられた足にエイトが気を取られた隙に、彼女の爪が怪しく閃く。エイトの目を射抜くように放たれた突きを、搔い潜るようにして避ける。そのまま彼女の腕ごと背中に手を回し、胸に顔を埋めるようにしてがっちりとホールドする。

「……っ」

 自然と涙が出た。まるで癇癪を抑える子供のように、母親の胸元で泣き叫ぶようにして、エイトは彼女の胸で泣いた。彼女からの『無感情』な抵抗は続いており、それを防ぐためにエイトも力を抜くことはしない。腕をがっちりと押さえているので、爪先をエイトの身体に深々と刺すことは出来ないのだろう。しかし、浅く浅くなら皮膚を引き裂く程度には動かせてしまう。

 それはもう、どうでも良かった。エイトが『迷った』ばっかりに、きっと彼女には、今エイトが受けている傷なんかよりも、もっと酷い仕打ちを与えてしまったのだから。

「っ……ごめん、ごめんな」

 ぐしゃぐしゃになった声で謝罪する。その言葉はもう、彼女には届いていないのだ。人間のカタチを留めたまま、人の心を引き抜かれて、そしてゴミ箱のようにしてその容器に獣を詰め込まれた。彼女にはもう、人としての耳も心もない。

「早く彼女の身体を『止めて』おあげなさい。長引かせるのは辛いだけですとも。お互いに、ね」

「うるせえ、ジジイ……」

 いくら傷が付こうとも、この時は二人にとっての『最期』の時だった。大切な、愛おしかった彼女の最期。最期、なのだ。誰にも邪魔はさせない。それが例え軍人のジジイでも、この地への潜入を手伝ってくれたジジイでも、この身に男を教えてくれたジジイでもだ。

「……人間は、いったい何を指して『人間』と言うのでしょうね」

 まるで公園で空を見ながらする世間話のように、老人は言った。その言葉に奇妙な魅力を感じたエイトは、抱き締める強さはそのままに、老人に鋭い視線を向ける。

「……何が言いたい?」

「いえ、エイトさんが抱いているその身体も彼女ですが……『彼女』という存在は、果たしてその身体のことを言うのか、引き抜かれた心を言うのか、少々考えておりまして」

 老人の口調はそのままだ。だがエイトにはその続けられた言葉がやけに艶めかしく感じられた。背に刻まれていく傷が気にならない程に、意識がその言葉に支配される。老人の口元には、酷く歪な笑みが浮かんで見えた気がした。

「……」

 止まってしまった涙も忘れ、エイトは目の前の彼女を見詰める。これは、『最期』ではないのではないか?

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