第4話

 木々が程よく色付いた頃、一通の手紙がリヒトの元へ届いた。今日はパブの定休日で、二人で散歩にでも行こうと話していた。

「お母さん、手紙が届いたよ」

「んー?どこからだい?」

 もうすっかりギーゼラを母と呼ぶことにも慣れ、リヒトは以前にも増して心穏やかに日々を過ごしていた。―手紙の送り主を見るまでは。

「えっと……ユ、ユース学園からだ!」

 よく見れば宛名もリヒトである。ユース学園からリヒトに送られてくる内容など一つしか思い浮かばない。

「しかも、こ、これボク宛だ……試験の結果だよきっと!」

「ああ、もうそんな時期かい。だったら、それはリヒトが開けな」

「どうしよう、なんかボク怖くなってきちゃった……」

 試験前と同様、緊張と不安から狼狽えるリヒトの頭をギーゼラがぽんと撫でる。

「どんな結果だって、リヒトならその次を考えられるだろ?」

「うっ……うん!」

 ギーゼラの言う通り、リヒトは多少打たれ弱くはあるが冷静に物事を考える力がある。

 ―受かったらまずは思い切り喜んで、それから入学の準備をしよう。……もしダメだったら―その時はまた挑戦すればいい。

 リヒトは決心し、手紙の封を切った。


『リヒト殿 

 先日は当校を受験頂き、ありがとうございました。厳正なる採点の結果、貴殿は本試験に合格致しました。―』


「―よって、ここにユース学園への入学を認めます……!」

 最後は喜びで声が上ずりながら、リヒトは手紙を読み上げた。

「お母さん、受かった!試験、合格したよ!」

 ぴょんぴょんと飛び跳ね、体全体で喜びを表すリヒト。それを見つめるギーゼラの目には薄らと涙が浮かんでいた。

「ああ、ああ……!おめでとうリヒト!」

「ボク、占星術士になれるんだね!」

「そうさ!本当に良くやったよ!」

 お互いを抱き締め合いながら二人は喜びを分かち合う。

「今日はご馳走を用意しよう。今から準備するよ」

「本当?ボクも手伝うね」

 二人は軽やかな足取りでキッチンへ向かう。祝い料理のシュニッツェルを作るとギーゼラは言った。

 ギーゼラが貯蔵庫から豚肉の塊を取り出し、調理台に置く。どっしりと質感のある音がした。

「よいしょ。リヒトはこの肩肉を食べやすい厚さに切って、叩いておいてくれるかい」

 そう言って、ギーゼラは付け合せの野菜を用意していく。

「うん。分かった」

「―あ、無理しなくていいんだよ」

 ギーゼラの気遣う声色にリヒトはぎこちなく笑う。

「大丈夫。ボク、出来るよ」

 包丁を持ち、豚肉に刃を当てる。一瞬、脳裏に何かが過ぎった。刃の先にある肉の塊がアニーと母の顔と重なって見える。

「ッ、う……」

 ―しかし、それは一瞬だった。

 嫌な記憶は薄まることはあっても、完全に消えることは無いのだろう。

 あの日の記憶は水面に浮かんでは沈むのを繰り返し、リヒトを苦しませる。いつの日か、痛みが鈍くなるまでそれは続くのだ。

「―ふう。よしっ」

 包丁を握り直し、今度はしっかりと豚肉に刃を入れていく。普段キッチンには立たないリヒトが切った肉は少々まばらな厚さになってしまった。

「うーん、まあいっか。えっと次は―」

 肉を叩くように言われたが何のためにそうするのだろう。

 一つ返事で了承したものの、そもそもその工程の意図を理解していなかった。とりあえずぺちぺちと肉たたきで豚肉を伸ばしつつギーゼラに訊ねる。

「ねえ、お母さん、どうしてお肉を叩く必要があるの?」

「そうするとね、肉が柔らかくなってもっと美味しくなるんだ」

「へえ、そうなんだ!よーし」

「そうそう、上手だね。もっと強く叩いていいよ」

「うん!」

 力強く、かつ小気味よく肉を叩く音と、野菜を刻む音が何だか心地よくなってきた。


 下拵えは終わり、後は揚げるだけなのだが、ギーゼラは油の煮えたぎる鍋の前にリヒトを立たせることはなかった。

 マッチに火を付けた時、リヒトが酷く怯えた表情を見せたからだ。火事を思い出させる火が怖いのだろう。

「リヒト、油が撥ねると危ないからね。離れていていいよ」

「あ―……ありがとう」

 ギーゼラの気遣いに気付いたリヒトはほっとしたのか、顔の強張りを解いた。

「……無理をすることはないんだよ。ゆっくりでいいんだ」

「うん……」

 リヒトが暗い記憶に引きずられない様、ギーゼラは努めて明るく言った。

「さあ、もうすぐ出来るからリヒトはテーブルに食器を並べておくれ」

「分かった、任せて」

 ギーゼラの言う通り、リヒトはカトラリーやグラスを並べていく。その間にギーゼラがテンポ良く肉を揚げていく。


 料理を迎える準備の整ったテーブルに、ギーゼラのご馳走が載せられる。

 スープやサラダ、ブロート(パン)に―メインのシュニッツェル。熱々の湯気がリヒトの食欲を誘い、今にも手が伸びてしまいそうだ。

「とっても美味しそう!」

「ふふ、そうかい。何だか照れ臭いね。さあ、冷めないうちに食べよう」

 ギーゼラが椅子を引きながらリヒトも座るよう促す。慌てて席に着くと、リヒトは先程とは違ってわくわくした表情を浮かべた。

「うん!いただきます!」

 さくりとした食感に舌鼓を打つリヒト。この表情を眺めて過ごせるのも後数日だと思うと、ギーゼラは堪らなく寂しかった。

 彼女がこれから通うユース学園は全寮制。

 つまり、入学と共にこの家を出なければならないのだ。2年間というとても短い時間だったが、リヒトと暮らした日々はギーゼラにとってかけがえのないもので、リヒトにとってもそうであって欲しいと願っている。

 それがもうすぐ終わってしまう。笑顔で送り出してやれるよう、ギーゼラはなるべくその事を考えないことにした。


 そして、その日はやってきた。

「リヒト、忘れ物は無いかい?」

「うん、大丈夫」

「良かった。じゃあリヒト、これはお守り」

「なに?わっ……」

 この2年でリヒトの髪は随分伸びていた。道中邪魔にならないよう、ギーゼラがあるもので髪を結んでやった。

「これ……」

「リボン。あたしとお揃いさ」

「ありがとう、お母さん」

 リヒトが腕を伸ばす。

 ギーゼラもそれに応える。

 別れの抱擁。お互いの温度を確かめるようなそれは、とても短いものだった。

「―あの時、お母さんがボクを引き取ってくれていなかったら、きっとボクはあのまま絶望の中にいたと思う。ボクを光の中に連れ戻してくれて……本当に、本当にありがとう」

 リヒトがそう言うと、ギーゼラは堪えきれず大粒の涙を流していた。震える唇で一生懸命に言葉を紡ぐ。

「礼を言うのは、あたしの方さ……!あたしの所に来てくれてありがとうリヒト。短い時間だったけど、あたしは……幸せだったよ」

「やだなあ、今生の別れみたいに。在学中は手紙を出すよ。卒業したらまたここに帰ってくる」

「ほ、本当かい?」

 顔を上げたギーゼラの目は真っ赤で、リヒトもつられて泣きそうになったが、それをぐっと堪える。胸を張ってここを去らなければ、いつまでもギーゼラが安心出来ないと思ったのだ。

「もちろん。ボクはそんなに親不孝者じゃないよ」

「ふふ、そうだね……手紙、待ってるよ」

 漸く笑ったギーゼラを見て、リヒトは遂にその時を迎えた。

「うん!それじゃあ――またね、お母さん」

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