錬金術師になれなかったので占星術師を目指すことにしました

八ツ尾

【序章】絶望と起点

第1話

 広大な平野に円を描くように築かれた大国、『ヴァルトエーベル』。その南側に建てられたレンガ造りの家。そこには優しい両親と可愛らしい一人娘の幸せな家庭があった。

 娘の名は『リヒト』。今や世界一の人気を誇る職業、錬金術師の卵である。

 リヒトは軽くステップを踏みながら玄関を開けた。つい先刻まで、父親のアデルと街へ買い物に出掛けていたのだ。

 カラコロとドアベルが鳴る。

「おかえりなさいませ、リヒト様、旦那様」

その音で二人の帰宅に気付いたハウスメイドが出迎える。後から母親のカミラもやって来た。

「あらリヒト、あなた。おかえりなさい」

「お母さんただいま!アニーさんもただいま!」

 アニーというのがハウスメイドの名前だ。ヴァルトエーベルより西の国からやって来たらしい。褐色の肌に亜麻色の髪が良く映える。エメラルドの瞳もとても綺麗だった。

 アニーは一礼するとまたキッチンへと戻って行った。

「ただいまカミラ。……お、今夜はご馳走だね」

「ふふ。いやだわ、いつも通りよ。でも、もう少し時間が掛かるわ。ゆっくり待っていて」

二人仲睦まじく笑い合う両親の姿を見るのがリヒトは好きだった。にこにことその様子を眺めていると、カミラがこちらを向いた。

「あらリヒト、それお父さんに買ってもらったの?」

「うん。杖を買ってもらったの!お父さん、ありがとう。大事にするね!」

「気に入ったみたいで良かったよ。随分悩んでいた様だったからね」

 肩まで伸びたバターブロンドの髪をふわりと揺らし、リヒトは微笑む。レモンイエローの瞳は嬉しさを湛えている。その両手には、ナナカマドの木で作られた身の丈程の杖が握られていた。

 両先端が平根のやじりのような形に削られているそれは所謂初心者用の杖で、これからリヒトが通う隣国の錬金術師育成学校、『グォルトクリスタ学院』への入学準備で用意した物だ。

 余談だが、リヒトはこの杖を購入するまでに一時間程吟味を重ねていた。


 グォルトクリスタ学院を初めとした錬金術師育成学校は、厳しい試験と、学費とは別にを納める事で入学することが出来る。

そうなると、必然的に中流階級以上の人間が入学する事になるが、リヒトの場合は父親が開業医をやっていたおかげで、生活には余裕があった。故に叶った受験である。

「今夜は杖を抱いて眠るの」

「ふふ、寝相で折らないといいわね」

「ボクはそんなに寝相悪くないよっ!」

 カミラのからかいに頬を膨らませていると、それを宥めるようにアデルが言った。

「杖もいいけど、一週間後には試験があるんだ。気を抜かずにしっかり勉強しておくんだよ」

「はい、お父さん。ねえお母さん、まだ夕食まで時間あるよね?」

 先の会話は聞こえていたが、確認の為にリヒトが訊ねると、カミラは一瞬キッチンに目をやり、それから答えた。

「ええ。そうね。もうしばらく掛かるわ」

「じゃあそれまで勉強してくるね」

「分かったわ。出来たら呼ぶわね」

「はーい」

 リヒトは階段を駆け上がると、廊下を曲がって三つ目の扉を開けた。ここがリヒトの部屋だ。

 部屋の本棚には錬金術に関する書籍や物語が幾つも並べられている。錬金術師になることはリヒトの幼い頃からの夢だった。とはいえ、浮ついてばかりではいられない。受験に奇跡は無いのだ。

「―よし、まずは四元素の組み合わせから復習しよう」

 机に座り、参考書を開く。昨年小遣いを貯めて買った羽根ペンを手に取り、演習問題を解いていく。


 一度集中してしまえば時間はあっという間だった。しばらく経っただろうか。

 ふと顔を上げたリヒトは、下の階が妙に騒がしいのに気付いた。

「……あれ?どうしたんだろう」

 何だか不穏な気配を感じて、リヒトは自然と足音を消すようにして部屋を出た。

 その瞬間。

「キャアアアアアアアアッ!!」

「ッ……!?」

 突然の悲鳴。

 思わず出そうになった声を飲み込む。廊下の角に身を隠し、階下を覗き込んだ。

 そこには、見知らぬ男がナイフを持ってカミラとアニーに迫っている、まるで悪夢のような光景が広がっていた。

 傍にアデルの姿は見当たらない。

「お、奥様……お逃げ下さいッ」

「アニー!」

 カミラを庇うように立ち塞がるアニー。その瞳からは大粒の涙が零れ落ちていた。

 男は無情にもアニーの髪を掴んで乱暴に引き寄せると、彼女の腹部目掛けてナイフを突き立てた。

 何が起きているのか分からなかった。

「―あッ、が……」

「アニーッ!そんな!嫌ァア!」

 すぐさまナイフは引き抜かれ、辺りには真っ赤な血が飛び散った。

 血の海の上にアニーが倒れ込む。メイド服に、彼女のものだった血が染み込んでいく。

「お、ぐ、さま……逃げ……」

 アニーは最期に消え入るような声でそう言うと、それきり動かなくなった。男がアニーを跨いでカミラに近づいていく。

「ひッ、い、嫌……こ、来ないでぇえ!」

 助けなければ。そう思ったのに、リヒトの足は動かなかった。

「いやッ、あ……がはッ……!」

 男はアニーと同じようにカミラの腹部にナイフを沈めると、キョロキョロと部屋を見渡した。

「お、母さ……」

 部屋を徘徊しながら、手当り次第に棚をひっくり返しては何かを懐にしまい込んでいた。

 男のカミラはぴくりとも動かない。

 そこで漸く、リヒトの思考が追いついた。

 ―強盗がやって来て、お母さんとアニーを殺して、家の物を盗んでいるんだ。

 理解した途端、さっきよりも恐ろしくなった。歯がガチガチと鳴る。

 一階は粗方漁ったのだろう。男はとうとう階段に近づいてきた。

 ―こっちに来る……!

 リヒトは男に気付かれないように部屋に戻り、ベッドの下に潜り込んだ。

 何故。自分の家が。ベッドの下で震えながらリヒトは思う。つい先刻まで、自分達はなんの憂いも無い幸せな家族だった筈だ。

 それが、見ず知らずの人間の手によって壊された。まだ幼いリヒトが知るには、あまりにも深い絶望だった。

「次はこの部屋か」

 ドアの向こうで男の声がした。瞬間的にリヒトは息を潜め、身を固くした。

 ドアが開く。

 机が。

 本棚が。

 クローゼットが。

 順に暴かれ、荒らされていく。

 もうリヒトには目を閉じて耐えることしか出来なかった。立ち向かう術を持たない無力な子供には、それが精一杯だった。


 気付けば、男の気配は消えていた。ただ時折、何かが爆ぜるような音がしていた。

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