第3話 幼い弟がやってくる
泣き止んだわたしの肩を、メイドのアリスはぽんと叩いた。
「もう、怖くないですか?」
「ええ」
わたしがうなずくと、アリスは嬉しそうに笑った。
「さて、と。今日は大事なご用事があるんです。覚えていますか?」
そう言われても、わたしは五年前に戻ったばかりで、状況が把握できていない。
アリスに説明を求めると、今日は十二月十日であり、ある人物を屋敷に迎える日なのだという。
わたしが12歳のときの、十二月十日。それは……。
「
アリスは楽しげだった。
反対に、わたしは
今日はフィルが公爵家に引き取られて、初めて屋敷にやってくる日のようだった。
わたしの弟、フィルは養子だった。
両親には一人娘のわたし以外、子どもがいなかった。けれど、わたしは生まれたときから王太子の婚約者に選ばれている。
だから、公爵家の跡取りは別に必要だ。ところが、両親にはいつまでたっても、子どもが生まれない。
そこで用意されたのが、フィルだった。フルネームで、フィル・エル・アストゥリアス。
わたしの父カルル・ロス・リアレス公爵はフィルを養子として迎え、後継者とした。
王家からしてみれば、多すぎる王族の一人を厄介払いできた上に、公爵領を一族のものとできる。
一方で、公爵である父や重臣たちにとっても悪い話じゃなかった。
王家とのつながりを強めることは政治的に有利に働く。それに、質の悪い成人済みの公爵一族が後継者となるぐらいであれば、養子を迎えたほうがましだ。
そうして、わたしには血のつながらない弟ができた。
けれど、前回の人生では、わたしと弟の仲は良くなかった。突然、弟ができると言われて、十二歳の少女がそれを自然に受け入れることはできない。
逆にフィルにしても、わたしのことを姉とは思えなかっただろう。
それに、わたしはフィルが来るまで、自分が公爵家の後継者になれると信じていた。王妃でありながら、公爵家の女当主となることだって、ありえなくはなかったのだ。
けれど、わたしが当主になれば、公爵の地位はやがて、わたしと王太子の子、つまり未来の国王へと継承される。
それは公爵領が王家へ完全に併合されることを意味する。独立不羈の伝統のある公爵家にとっても、重臣たちにとっても、それは受け入れられなかった。
だから、わたしの父は、わたしを後継者として選んではくれなかった。
そのことが、前回のわたしには不満だった。
だから、かつてのわたしはフィルのことを冷たく扱った。挨拶されても返事もしなかった。
それに……。
わたしはアリスの顔をまじまじと見つめた。
アリスが首をかしげる。
「どうされたんですか、クレアお嬢様?」
アリスは前回の人生では、わたしが十二歳のときに事故で命を落としている。その理由は、フィルとアリスが一緒に公爵領の洞窟に出かけたからだった。
二人は冒険のつもりで洞窟に出かけ、事故にあう。そしてアリスはフィルをかばって死んだ。
わたしは姉代わりのメイドだったアリスを失った。その悲しみと怒りは、フィルへと向かった。
フィルがアリスを連れ出さなければ、アリスは生きていたのに!
わたしはそう思ったわけだ。だから、ますますわたしはフィルを憎んだ。
そんなふうになってしまえば、わたしとフィルは疎遠になって当然だ。
そして、その五年後、フィルは聖女シアと出会い、彼女に魅了された。そして、シアを殺そうとしたわたしを許さなかった。
フィルがわたしを殺した。
そんなフィルにこれから会わなければならない。
「ねえ、アリス。わたし……弟に会うのが怖いの」
「あたしだったら嬉しいですけどね。かわいい弟があたしにもいたらいいなあって思ってるんです」
「かわいかったらいいのだけれど。……ねえ、会わないってことは……できない?」
アリスはきっぱりと首を横に振った。
「公爵様からの言いつけですよ? 姉弟仲良くするように、と」
それはそうだろう。
屋敷にやってきた弟と、まったく会わないわけにもいかない。
たとえ、五年後に自分を殺すことになる相手だとしても。
けど……まだ、未来は確定しているわけじゃない。
これは、わたしの人生を変える最初の試練かもしれない。
前回のわたしはフィルに嫌われていて、聖女シアに嫌がらせをしたから殺された。
なら、今回は真逆でいけばいい。
最も重要なのは、聖女シアに嫌がらせはしないこと。前回は友人となったのに、シアにひどいことをしてしまった。
だから、今度は関わり合いにならないのがベストだ。
彼女の選択次第では、王太子だろうと、フィルだろうと、好きな男とくっつけばいい。
わたしはそれを邪魔しない。
今度は王太子の完璧な婚約者なんて目指さない。地味で堅実に生きていければそれでいい。
といっても、それだけで破滅の運命を回避できるのかはわからない。
念には念を入れておく必要がある。
だから、フィルと仲良くしておくことが必要だ。少なくとも嫌われない程度には。
聖女のことを抜きにしても、フィルにはわたしを殺す動機がある。
公爵家の莫大な財産を独り占めするには、フィルはわたしを亡き者にする必要があるからだ。
もちろん死ぬぐらいなら、そんな財産は相続を放棄してもよいけれど。フィルがわたしのことを信用してくれなければ、相続放棄の宣言も信じてはくれないだろう。
フィルとは姉弟として親交を温めておく必要がある。
その前提として、アリスの命を救う。アリスのことを助けたいし、アリスの死がなければわたしと弟の仲は険悪にならずにすむはずだ。
気分は重い。
けれど、これからが肝心だ。わたしやアリスの運命を変えなければならない。
わたしはため息をついた。
「わかったわ。……弟に会うから」
「ではさっそくお召し物をご用意しましょう!」
わたしはアリスに服の選択をすべて任せた。
で、アリスがわたしに着せたのは、やたら可愛らしいドレスだった。
ピンクと白の布地に、ふりふりの装飾がたくさんついている。
わたしは、姿見の鏡を見てうなる。
「これ……わたしに似合ってる?」
「とってもよく似合ってると思いますよ!」
「わたしにはそうは思えないのだけれど……」
客観的に見ても、わたしはそれなりに優れた容姿をしていると思うけど、地味だし目つきはきつめだ。
なのに……。
「こんなお姫様みたいな服装、わたしが着ても……」
「あら、お嬢様は正真正銘のお姫様ですよ。リアレス公爵家のご令嬢で、王太子殿下の婚約者ではありませんか」
まあ、身分はそうなのだけれど、前回の人生ではすべてを失って罪人に身を落とした。本質的に、わたしはお姫様というタイプではない気がする。
アリスに案内され、わたしは屋敷の玄関へと移動した。
豪華で無駄に広い玄関は大理石で作られている。
そして、そこにはわたしの両親や家臣、そして屋敷の使用人たち数十人が出迎えの準備をしていた。
相手は次代の公爵であり、王族でもある。扱いは粗略にできない。
お父様もお母様も、わたしの方には目もくれなかった。前回の人生では、最後まで、二人はわたしに冷たかった。
王太子との政略結婚の駒程度にしか思っていなかったんだろう。悲しくなるが、今はそれを気にしても仕方ない。
やがて玄関の黒くて巨大な扉が、重々しく開かれた。
わたしはびくびくしながら、扉の向こうを見つめた。わたしを殺した弟が来るんだ。
そして、そこに現れたのは、黒髪黒目の、とても小柄で、とても気弱そうで……そして可愛らしくて幼い少年だった。
彼がフィル……のはずだ。
わたしは息を飲んだ。
フィルって……こんなに可愛かったっけ?
前回のわたしは12歳の幼い少女で、フィルに敵意を持っていた。
けど、今のわたしの中身は17歳だし、当主の座を奪われたことも根にもっていない。
だからかもしれないけど、フィルは……控えめに言っても……天使に見えた。
大勢の大人に出迎えられ、フィルはびっくりしたように、黒い瞳をぱちぱちとしていた。どういうわけか、フィルの従者の姿がない。
一人きりのフィルは怯えた様子であたりを見回すと、とてとてと走り出した。
そして、なぜかわたしのところに来た。使用人たちは慌てていたが、相手は王族だし、制止はしなかった。
フィルがわたしのドレスの裾をつまみ、上目遣いに見つめる。頭ひとつ分、フィルはわたしより背が低い。
どくんと胸が跳ねるのを感じる。
白く透き通るような肌も、女の子みたいなほっそりとした手足も、人形のように整った顔立ちも。
何もかも、今のわたしの好みだった。
か、可愛い……。
わたしは身をかがめ、怯えるフィルの頭をそっとなでた。わたしの指が黒い髪に触れる。
「安心して。わたしはクレア・ロス・リアレス。あなたの味方だから」
「……クレア、様?」
「そう。あなたは?」
「ぼくは……フィル・エル・アストゥリアスです」
「今日からあなたはフィル・ロス・リアレス、ね。あなたはわたしの弟だもの」
「あなたがぼくの姉上……?」
わたしは柔らかく微笑んだ。
そのとおり。
わたしはクレア。あなたはフィル。五年後の世界では、あなたがわたしを殺した。
けれど、今度は、そうならないはずだ。
わたしは満面の笑みを浮かべ、嘘を言う。
「わたし、ずっと弟がほしかったの」
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