Swallowed love

 カチャカチャと物音が聞こえ始め、朝日が差し込んできた。

眩しそうに目を細めた彼女が微笑みかけてくる。

「おはよう。ナズナ!」

彼女の名前はいずみさん。僕の最愛の人。

「おはよう。いずみさん!」

僕はそう答えるが返事はない。いつものことだ。

こうして僕と彼女の1日は始まる。

 僕の名前はナズナ。この名前はいずみさんがつけてくれたものだ。ナズナという名前の、花にちなんでつけたらしい。彼女はこの花というものが好きで、その中でもナズナがお気に入りだと言っていた。つまり僕だ。好きなものの名前をつけてくれるなんて、やはり僕たちは両思いのようだ。声は届かないけれどきっと心は通じている。

彼女は僕のことをナズナと呼ぶけれど、いずみさん以外にはアオイムシと呼ばれている。

人間たちに必要な栄養素をたくさんもっている微生物で、その活用方法を研究するためにこの場所で培養している。と彼女に誰かが言っていた気がする。

「おはよう。かにすけ!」

いずみさんの声がする方向を見るとあいつがいた。答えないなんて無礼なやつだ。どうしても好きになれないあいつの名前はかにすけ。蟹というものらしい。いつも勝ち誇った顔で見てくるあいつには心底ムカつく。いずみさんは優しいから挨拶をするだけなんだぞと叫ぶが聞こえないふりをしてくる。本当にいけすかないやつだ。

 いずみさんがこちらに向かってきた。今日も素敵だ。だが、心なしか元気がない気がするのは気のせいだろうか。

「大丈夫?いずみさん。」

彼女は辛そうな顔をしてこう言った。


「私ね、この間の人間ドックで、胃がんの可能性が高いって言われたの。明日再検査をするんだけど、とても怖くて…。本当にがんだったらどうしよう。」

いずみさんを悲しませるなんて、がんって奴は最低だな。僕ならいずみさんを悲しませることなんて絶対にしないのに。なんて思っていると、彼女が僕に顔を近づけてきた。

「ち、近いよ!!いずみさん!そんなに見つめないで、照れてしまうよ!」

すると彼女は意を決したかのような顔つきになりこういった。

「ナズナ、ごめん!!」

「え?」

その瞬間、僕の視界はぐらぐらと揺れ、彼女の姿も、何も見えなくなっていった。

 僕は何が起こったのかすぐに察した。身体中に彼女の声が響いたからだ。

「アオイムシががんに効果があるかはわからないけど、できることはやったほうがいいよね。ごめんねナズナ…。」

僕はいずみさんに飲み込まれたのだ。

「今、いずみさんの中にいるんだな。」

いずみさんの中にいても僕の声は届かない。でも彼女とずっと一緒にいることには変わりないから、それでいいんだ。

それから間も無くして、ねばねばした狭いところに着いた。壁が波を打っているのでその反動でだんだんと移動していく。

これから僕はいずみさんの中に一生いることになるのか。常に一緒にいられるなんて、こんなに幸せなことが他にあるのだろうか。いやない、絶対にない、僕は今、ものすごく幸せ者だ!なんて考えていたら、ひらけた場所に出た。なんだか体がヒリヒリしてきたな。

 目も慣れてきたことだし、周りを偵察することにした。いずみさんの中は僕、いや、僕らの家になるのだから、きちんと把握しておかなければいけないよね。


浮かれながら周りを見渡していたら、膨らんでいるところを見つけた。僕の今の目的は、僕らの家を把握することなのでしっかりと見てやろうと思い近づいた。そしたら、あいつを見つけてしまったんだ。

かにすけだ、蟹のかにすけがいる。いつものようにムカつくあの顔で、ここは俺の場所だと言わんばかりの態度でそこにいる。

「いずみは、俺のものだぜ。」

そんな声が聞こえた気がした。絶対に許せない。いや、許さない。

かにすけよりも僕の方がずっとずっといずみさんを愛している。がんというやつもそうだ。僕ならあんなふうに彼女を悲しませたりなんてしない。自分を犠牲にしてでも、必ず幸せにするんだ。

僕は決意した。絶対にかにすけをこの場所から追い出すことを。

かにすけは、引き剥がそうとどれだけ頑張ってもどんどん増えていく。数で勝とうだなんてずるいぞ。でも僕は負けない。いずみさんのためなら僕はどんな手段だって使うのだ。

そして僕は思いついた。僕のお尻についている鞭毛を使おう。この鞭毛というのは、いずみさんに教えてもらった。普段は彼女を近くで見るために、これを使って頑張って移動している。とても体力を使うからゆっくりとしか動けないけれど。しかし今いずみさんはいない。もし何かあったら彼女のためにこの鞭毛で戦うと決めていた。今は、その時だ。

鞭毛でかにすけを鞭毛で全力で殴る。効果があったようで、かにすけが一匹、また一匹と消えていく。何時間たっただろうか、もう僕の鞭毛は限界だ。普段移動することにしか使っていなかったからだろうか。こんなことになるならもっとトレーニングをしておけばよかった。

とうとう動けなくなってしまった。最後のかにすけがこちらを見て笑っている。もう勝負が決まったと思っているのか、増えることはせずただただこちらを見てくる。意識を失いかけたその時、いずみさんの声がした。


「もしがんだったとしても、私頑張る。絶対負けない。諦めない!!」


僕はハッとした。そうだ、諦めちゃダメだ。僕はいずみさんを守るんだ、絶対に、絶対に!!


最後の力でかにすけを引き剥がす。逃がさないようにしっかりと捕まえる。

「いずみさん!僕、勝ったよ!!いずみさんは、絶対に、幸せにするから…」

そこで僕は意識を失った。

 それから何時間たっただろうか。体が大きく揺れて目が覚めた。周りに圧迫されてとても苦しい。すると、いずみさんじゃない声が聞こえた。

「あれ?がん細胞が見当たりませんね。まさか、そんなことが…」

そしていずみさんの嬉しそうな声が聞こえてきた。

「本当ですか!?よかった、本当によかった。」

がんがいなくなったのか。かにすけにも勝ったことだし、やっと二人で幸せになれる。早くこの狭い場所から抜け出して、いずみさんに報告しなければ!!

すると、周りがどくんと動いた。

「すみません。お手洗いに行ってきます。安心したら緊張が解けたみたい。」

お手洗いってどこだろうか?そこにいけば僕はいずみさんの姿をもう一度見れるのかな。ずっと一緒にいられるのは嬉しいけれど、もういずみさんを見ることができないなんて寂しいよ。

ーーガチャン

悲しみに暮れていると、キラキラと光が差し込んできた。

1日の始まりだ。これからまた、いずみさんとの幸せな1日が始まるのだ。

僕は早く彼女の微笑む顔を見たくて光の差し込む方へ飛び込んだ。

「いずみさん!!おは…」


ーージャー


お手洗いには、水の流れる音だけが響いていた。

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