獣の死闘
お前には血には山を支配する、誇り高い狼の血が流れているんだ。
父さんはそう言って、ぼくの頭を撫でてくれた。
大きくなって立派な狩人になりなさい。
母さんはそう言って、ぼくに沢山の料理を作ってくれた。
でも2人の手はもうこの世に存在しない。
肉片1つ残さずに、あの暴君の腹の中に収まってしまった。
今日は復讐の日。
あいつの腹を掻っ捌いて、父さん達の遺骨を取り戻してやる。
数日前、この村に来たヒトゥリさんは、村を救う使命を背負って走った。
ぼくがヒトゥリさんから貰ったアミュレット首から下げて、そしてお互いの使命を果たしに行ったそのすぐ後。
あいつは僕の体についた獲物の匂いを、嗅ぎつけてやってきた。
山の中に差し込む陽を遮る背の高い木々の半分程度の大きさの巨体を、木々の間の狭い隙間に無理に通しながら、やってきた。
ぼくは振り返る事もせずに走った。
あいつは速い。
ぼくが木を避けて、盛り上がっている石や木の根を飛び越え交わす間、あいつはそれら全てを薙ぎ倒すだけで前に進める。
圧倒的な身体能力差がそこにはある。
ぼく達、狼の獣人は他の人達よりも素早く、とりわけぼくの一族は山の中で育ったから、飛んだり跳ねたりが得意なのだと、父さんから聞いた。
体が小さいぼくがあいつに追いつかれずにここまで走れるのも、この体に流れる一族の血のおかげだと思うと、誇らしい気持ちと、絶対にこの復讐を成し遂げなければならない責任感で背中が重くなる。
山頂を目掛けて、ぼく達はチェイスを続けた。
時にあいつの鋭い爪の先が、ぼくの背中の皮1枚をぺろりと剥がしたが、それでも止まるわけにはいかなかった。
根でできた自然のトラップに、あいつを引っ掛けながら走っていると、見えてきた。
巨大なバリスタだ。
それは一つ目の化け物みたいに、こちらを見下ろしていたが、ぼくにはまるで神の慈愛の目みたいに見えた。
あの憎い熊を殺して、ぼくを明日に導いてくれる神の目だ。
「ほら、取ってこい。ボールだぞ」
後ろを振り向いて、狩猟道具の中からボールを1つ選んで投げる。
ぼくとあいつの間の空中で弧を描いて、ボールはあいつの鼻面に向け飛んでいく。
「グラウぅゥッフ」
ボールは鼻面にぶつかる前に、口の中に収まった。
あいつには知らない物を、まず口で噛んで確かめる癖がある。
ぼくがこの数年であいつを観察して理解した、あいつの個性の1つだ。
忌々しい事に、ぼくがあいつの事を憎む程に、ぼくはあいつについて誰よりも詳しくなっていく。
きっとぼくはあいつの親よりも、あいつについてよく知っている。
憎めば憎む程に近づいていくなんて、まるで友達になっていくみたいで奇妙だ。
――でも、それも全部お前を殺す為に使うんだよ。
「グウッ」
パパパパパパ……。
ボールを噛み潰したタイタンベアの口の中で、抑え付けられた鳥が無理やり羽ばたこうとした時のような音が鳴る。
自分の口の中から、異様な音が聞こえたタイタンベアはのけぞり、速度を落とし切れずに転がる。
鳴球だ。
衝撃が加わると破裂して、中の小さな魔石の粉と特殊な鉱石が混ざって弾ける。
殺す程の威力はなくて、もっと幼い頃のぼくが遊びで投げるくらいしか日常での使い道はない。
だけど狩りに使うのなら、こうやって相手の動きを止めるくらいはできる。
そして。
「タイタンベア! こっちを見ろ! ぼくはここに来たぞ! よく見ておけ、これはお前を仕留める、お前が最後に見る事になるぼく達の怒りだ!」
ぼくはもう、あのバリスタの上に乗っている。
手元にはヒトゥリさんが装填してくれた矢が、放たれる時を待っている。
距離も角度もタイタンベアに定まっている。
バリスタの上から飛び降りて、弦を押さえていたレバーの上に着地する。
レバーが後ろに倒れて、張り詰められていた弦が勢いよく元に戻る。
ぼくが普段使う弩とは比べ物にならない、鈍い音を鳴らしながら弦が矢を押し飛ばす。
押し飛ばされた矢――というよりも大きな槍は一直線に空を切って、横たわるタイタンベアの毛皮を突き破った。
「グウアアアアア!!」
「よし! 行ける! 次の矢を……」
苦しみのたうつ宿敵を見たぼくは、意気揚々と次の矢を装填する。
重い弦を矢で引き戻して、再度弦を止める。
顔を上げてのたうつタイタンベアにトドメをかけようとしたぼくは、しかし相手を甘く見ていたらしい。
「ウヴヴオオオオォォォォ!」
タイタンベアの巨体は、もうぼくの鼻の先まで近付いていた。
手を伸ばせば届いてしまいそうな距離。
しかしそれは、ぼくの手ではなく相手の鋭い爪付きの、ぼくの体をバラバラにできる手の方だ。
死。
目の前に死がある。
頂点に登った陽光を反射する、真っ黒な無機質な瞳がぼくを写している。
恐怖に歪んで固まったぼくが、ぼくを見ている。
恐れて死を受け入れてしまいそうな、情けない顔だ。
そうだ、失敗したんだ。
逃げよう。
今すぐ。
タイタンベアの注意はぼくじゃなくて、より大きいバリスタに向いている。
走って逃げれば、このバリスタが壊されている間に、村まで逃げられる。
大怪我を負ったこいつは、村までは追ってこないはずだ。
よし、逃げられる!
「ヴルアアアア!」
タイタンベアが腕を振り上げる。
まるで世界がゆっくりになったみたいに、ぼくの頭の中だけがぐるぐる働く。
今すぐこのレバーから手を離して後ろを向けば、かわせる。
そうすればもう逃げられたような物だ。
村に逃げれば、村に逃げたら。
逃げたら……逃げたらどうするんだ?
どうやってあいつを殺すつもりなんだ?
バリスタが壊されるから、同じ物を作る。
いや、こいつだって馬鹿じゃない。
1度でも自分に痛手を加えたバリスタに近付くなんて、もうありえない。
この機会を逃したら、2度とこいつを殺せなくなる。
ぼくは馬鹿か?
逃げてヒトゥリさんやクリエに、どんな顔をして会うつもりだったんだ?
ヒトゥリさんはきっと自分の役目を果たす。
無事に助けを呼んでくれるはずだ。
何の関係もないこの村の人を守ろうとしてくれてる。
クリエは後数年すれば、冒険に出るんだぞ。
ついて行ったぼくはピンチになった時も、クリエを置いて逃げるのか?
そんなので本当にぼくは胸を張って、クリエの旅についていけるのか?
「う、うわああああああ!」
引けそうになる体を、気合で押し出して、レバーにしがみつく。
もう時間がない。
ぼくの体はこのレバーを引いた瞬間に吹き飛ばされる。
そうなれば、ぼくは死ぬかもしれない。
「行くぞタイタンベア。ぼくをこの山に縛り付けるお前を、殺してやる」
父さん、母さん。
どうか見ていてください。
ぼくはレバーを倒した。
執念と復讐のバリスタの1矢が、仁王立ちするタイタンベアへと解き放たれる。
バリスタの矢はタイタンベアの眼孔から後頭部へかけて貫通した。
山の主の血が飛び散り、鳥達が暴君からの解放を喜ぶように木々から羽ばたく。
それでもタイタンベアは止まらない。
1度振られたサイコロが止まらない様に、勝負の場に立ったぼくには当然のリスクが降り掛かった。
けれどぼくは、もう殺したんだ。
後は勝ちか引き分け。
今、タイタンベアの剛腕がバリスタごとぼくの体を弾いた。
どれくらい時間が経っただろう。
ぼくは木の根元に抱かれるように眠っていた。
起き上がってみると、不思議な事に体に傷はなかった。
ちゃりんと、脚に何かが当たった気がした。
「これ……ヒトゥリさんから貰ったアミュレット」
拾い上げてみると、所々にヒビが入っていた。
ああ、これのおかげでぼくは死ななかったんだ。
「結局、ヒトゥリさんの力を借りちゃった」
手助けはいらないと言ってしまったのに、貰ったアミュレットに助けられた。
でもぼくはそれが不思議と嫌な気分ではなかった。
本当は分かっていた。
父さんや母さんはぼくが仇討ちのために死んで、向こうに行ったって喜ばない。
お前には血には山を支配する、誇り高い狼の血が流れているんだ。
大きくなって立派な狩人になりなさい。
父さんも母さんも、ぼくに仇を取れなんて言ってなかった。
誇り高い狼の子として、生きて欲しかったんだ。
「父さん、母さん。ぼくもこれから、2人みたいに立派に生きるよ。これからも見ていてね」
山頂の木々の狭間から遠くを眺めて、そう呟いた。
そして、おかしな事に気付いた。
「え……あれ、村の方。なんであんなに煙が……嘘だ!」
タイタンベアの毛皮を剥ぐことも忘れて、ぼくは村に向けて走った。
木の枝や尖った岩で、体中を切るのもお構いなしに、ぼくは走った。
それはむしろ山から飛び降りていたと言う方が、正しいかもしれなかった。
なんにせよ、ぼくにはそんな事を気にしている暇はなかった。
体中から血が滲み出した頃、ようやくぼくは村に着いた。
「なんで……なんで、村が燃えてるんだよ!」
そしてぼくはこの日、世界を呪った。
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