第32話

「おい、江柏ジアンボォ、起きろ」



 ぽかぽかと暖かい日差しの中、ジャンボは肩をゆらされ目を覚ました。

ハッと気がつくと気まずそうな先生が隣に座っていた。



「先生……!」



 あの頃と少しも変わらぬ不機嫌そうな顔に、ジャンボは込み上げるものがあったが、先生はあっさりと遮った。



「俺にしがみついて寝るのお前くらいだぞ」



 ジャンボは先生の腕にしがみついていることに今更気が付き、バッとよけた。



「すいません……」

「お前は本当に変わらないな。夜泣きはするし、おねしょはするし」

「それ6才の時だけですよ」

「もっと年のいった子しか受け入れたことなかったからな。

お前のせいで育児書なんて読んだんだぞ?この俺が」



 ジャンボは心底気まずそうに目を閉じ、とりあえず頭を下げた。



「すいません」

「別に。お前も色々大変だったみたいだな」



 木漏れ日がベンチに座る二人を優しく照らす。

ここはあの校舎の中庭だった。もちろん手入れされていた頃の中庭だ。



「俺はな、そこに埋められたんだ」



 ジャンボはギョッとして先生の指のさす方向を見た。

そこには大きな木が1本立っている。

荒れた中庭にも変らず残っていた、みんなでよく登った木だ。



「木の根元にってことですか?」

「いや、当時ここの土地の所有者が木を引っこ抜いて、ここには大穴があいてたんだ」



 先生はどこから取り出したのか、グラスの酒を飲んだ。



「あ、俺が供えたやつ」

「わりと届くんだよ。もっとちゃんと供えろ」



 先生はグラスをわきに置き話を続ける。



「でもあんな時代が来て木は宙ぶらりんで放置されて、穴も空いたままだった。

だからちょうどいいと思ったのか、俺が殺した紅衛兵と一緒くたに埋められて、木でフタされちまった」

「待って、待ってください」



 ジャンボは額をおさえる。



「先生は紅衛兵を殺したんですか?」



 先生は深くため息をつき、また酒に口をつけた。



「あのなぁ、俺が自殺するようなタマだと思うか?」



 ジャンボはキョトンとして先生の顔を見る。



「じゃあなんで……」

「アイツらが生徒の名簿を見せろってしつこく付きまとってきたんだ。

俺は別につるし上げられようと、あんなの屁でもない。

けど、お前らの名簿は全部燃やしたよ。写真も何もかもアイツらには渡さなかった」



 ジャンボは何も言えず先生の顔を見た。

よく見れば、先生は今の自分とそう変わらない歳だ。

なのに一人であの時代と渡り合っていたのかと、本当に今更、ジャンボは胸が苦しくなる。



「あとは口論から殴り合いになって、最後は殺し合いだ。なんとも呆気ない最期だったな」

「先生……俺は……」



 ジャンボは喉に詰まった空気を無理に飲み込む。



「俺は紅衛兵だったんです」

「知ってるよ。他の奴らもみんなそうだったろ?上手く生きのびてくれて大したもんだよ」



 先生は陽気に笑った。死んだからこそ肩の荷が降りたのかもしれない。

そして、先生はジャンボの頭を軽くなでた。



「お前は一番生きるのが下手だったみたいだけどな。最年少なのに真っ先にここに来やがって」



 先生はやれやれとため息をつく。

ジャンボは今にも泣きわめいてしまいそうだった。

この思い出の場所で恩師に会い、涙腺はかなり限界だった。



「俺も先生と一緒にみんなを待つことになるんですかね」

「ふざけんなバカ」



 先生はわりと強めにジャンボの頭を叩いた。

そのせいで出かかっていた涙は引っ込んでしまった。

頭をおさえるジャンボに、先生は真剣な声で言う。



「お前、自分の子を殺人犯にするつもりか?」



 ジャンボは目を見開いた。

先生は寂しそうに言葉を続けた。



「俺はお前が人を殺したの、悲しかったよ」



 生前では絶対にこんな声は聞けなかっただろう。ジャンボはうつむいた。



「失望しましたか」

「いや、立ち回りはなかなかいいフォームだった」



 先生は意味のわからないフォローを入れた。



「でも、お前にそんな咎を背負って欲しくなかった。ただそれだけだよ」



 あの鬼のようだった先生はどこに行ったのだろう。

結局ジャンボは泣いてしまった。

そんな背中をぽんぽんと先生はたたく。



「向こうに戻ってちゃんとチョコ君と話せ。このまま死のうなんてあまっちょろいぞ」



 先生はいつものぶっきらぼうな口調に戻り、ジャンボの背中を強く叩いた。



「俺、本当にまだ生きてるんですか?」

「まぁ、崖っぷちかな。だから俺がわざわざ出しゃばって引き留めてんだよ。感謝しろ」



 その後に先生は付け加えるようにごにょごにょと何か言った。



「なんですか?」

「……まぁ、お前たちにはいいもんも見せてもらったから。ほら、今日の」



 ジャンボが驚いていると、先生は誤魔化すように早口でつづけた。



「いや、指導したいことはいくらでもあったぞ。あんなんじゃ舞台には立たせられない!全くどいつもこいつもおっさんになって腑抜けたな!」



 ジャンボは力が抜けてしまい、自然と微笑んでいた。



「先生、そんなキャラでしたっけ?」

「死んでまでカッコつけてられるかよ」



 とても心地よい風が吹く庭だった。

ずっとここにいたい気もしなくもない。けれど。



「俺、そろそろ戻ります。今度会う時は一緒に飲みましょう」

「なら酒も棺に入れてもらえ。……ゆっくり来いよ。江柏」



 ジャンボは立ち上がり頭を下げた。

先生は「あ」となにかを言いかける。



「なんですか?」

「……これからの京劇のことをな。少し」



 先生は慎重な口調で言った。



「いいか、俺を殺したのは紅衛兵じゃない。チョコ君の母親を殺したのも紅衛兵じゃない。

言ってる意味がわかるか?」



 ジャンボは顔色を変えた。そして静かに頷いた。



「京劇についてはどうお考えですか?」

「きっと想像もつかない形で残り続けるよ。カンフー映画だってそのひとつだろ。それに様板戯も」



 先生は立ち上がり首の後ろをおさえた。

そういえば先生は困るといつもこのクセが出たな、なんてまたひとつ思い出す。



「京劇は生きている。少なくとも俺はそう思う。でもそれでも現状が不満なら……待つんだ。じっと。自分の代では変わらなくても、絶やさなければ形は変わっていく。国民もみな、本当はそれを分かっているはずだ。

意固地になるなよ、江柏。お前の悪いクセだ」



 先生は今度こそジャンボを送り出そうと、ジャンボの前に立ち、肩を叩いた。

気がつくとあんなにでかかったはずの先生の背を超えていた。

ジャンボは涙をぐっとこらえ、また頭を下げた。

先生はもう引き留めようとはせず、門まで歩いていくジャンボを見送る。


 門の外に一歩踏み出した。

瞬間、世界が回る。

あの庭は遠ざかり、闇の中に放り出された。


 どこに向かえばいいのだろう。

迷っていると、自分の名を呼ぶ声が前方から聞こえてきた。

近づくと、だんだん誰の声か分かるようになる。


 声は二人分、チョコとバニラの声だ。

電子音も聞こえる。

それに自分の呼吸音も──。


 ジャンボはゆっくり目を開けた。

するとベッド横のイスに座っていたチョコとバニラが立ち上がった。



「ジャンボ!!」



 二人はベッドに駆け寄り、ジャンボの顔をのぞき込む。

ジャンボはまだ声を出せず、返事をするようにまばたきをした。

チョコとバニラは心底ほっとしたように、イスに座り込む。


 なんとか話せるようになったのは、三日後のことだった。

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