第86話 出逢
山を駆け上がりながら、俺は軽く自分の唇に触れる。
すごく緊張した。
なんだ、アレは? カサネのキスと何が違った?
相手が好きな人だからか? だとすれば、自分の事ながらピュア過ぎて少し気持ち悪い。
熱くなる頭を振って、意識を切り替える。
これから俺は、せんゆう様と話しに行くのだ。
実の所、俺は何を話すのか決めていない。
それでも、柚子の時のような……振られる為に告白させるような事には、したくなかった。
最後の瞬間には、きちんと向き合いたいのだ。
あれこれ思考を巡らせながら山道を進んでいると、遂にその大蛇は現れた。
ズルリ、ズルリと、巨躯を引きずるようにして移動している。
ところどころ血を流しているが、それでも大蛇は俺を見ると嬉しそうに声を上げる。
「ああ、愛しい人! 戻ってきてくれたのだね! 酷いじゃあないか、置いて行かれたかと思ったよ」
「…………せんゆう様、伝えたい事がある」
「なんだい? どこか行きたい所でもあるのかな? 確かにこんな土地では落ち着けないからね」
せんゆう様はニコニコと笑いながら、人の姿に変化する。
これから何を言われるのか察しがついているのだろう、その様子はどこか無理をしているようで、俺は少し胸が痛んだ。
「……別れを、伝えに来た」
せんゆう様の表情が、笑顔のまま凍り付く。
「せんゆう様は昨晩、いつか愛して欲しいと言ったよな?」
「あ、ああ……」
「それで俺、考えたんだ。時間があれば好きになれるだろうとか、せんゆう様の事は別に嫌いじゃないとか、そんな事を。でも、俺が好きなのはやっぱり———」
「聞きたくない」
俺が最後の言葉を発する前に、せんゆう様は静かにそう言った。
「……分かった」
聞きたくないと言われたら、俺は何も言えない。
言えないではないな、言わない。
言わなくて良いのだ……どれだけ言いたかったとしても。
俯いて肩を震わせているせんゆう様を、俺は黙って見つめている。
その小さな姿は、この夏の全ての元凶とは思えない程に弱々しく見えた。
「なあ、愛しい人……私は何が駄目だった? 落とし子を創った事か? 君の気持ちを無視して婚姻の儀を行おうとした事か? 駄目な所を全部なおしても、君は私を……愛してくれないか?」
せんゆう様は泣きそうな声で、祈るように言葉を発した。
「せんゆう様のどこが駄目だとか、ここは直した方が良いとか、俺は思った事が無いよ」
「そう、か……」
そう言って、せんゆう様はゆっくりと顔を上げた。
まだ言葉が続くのではないかと期待するように、俺を見つめる。
「……ごめん」
俺は、せんゆう様の期待する言葉を言えない。
そんな俺を見て、せんゆう様は寂しく笑う。
そして、そっと俺の手を取り、愛おしそうに頬を当てた。
その頬は、空色の瞳から零れた涙で濡れていた。
「それでも私は、君を待ちたい。待つことくらい、許しておくれ……」
悲しげなその目を前に、俺は何を言おうか必死で考えた。
思いついたどんな言葉も、傲慢に思えた。
それでも黙って別れるのは嫌だったから、俺は最後に口を開いた。
「……数日だったけど、楽しかったよ」
せんゆう様は、そっと俺の手に唇を添えた。
じんわりとした温かい感覚と共に、手から何かが抜けて行くのを感じる。
そして、酒の甘い香りが薄く周囲に漂った。
だんだんと、せんゆう様の瞼が下がっていく。
「……ずっと、ずっと、待ってる」
そう言って、せんゆう様は空色の瞳を閉じた。
ゆっくりと倒れ込んで来たせんゆう様の体を、俺はしっかりと受け止める。
静かに寝息を立てているその表情は悲しげで、しかしどこか納得したような様子だった。
+++++
「……あ、戻ってきたのね。言い残した事は言えた?」
道の端に腰掛けていた上梨は、俺を見ると優しく笑った。
俺を待っていてくれたのか……。
少し申し訳なさを感じつつ、俺は上梨に言葉を返す。
「言い残した事はあるし、後悔もあるけど、この結果に文句は無いってところだな」
「そう、それなら良かった」
それだけ言うと、上梨は様子を窺うように俺を見る。
お互い、話したい事があるのは何となく察している。
でも、どうにも切り出せない……そんな感じだ。
このままでは埒が明かないので、俺は当たり障りの無い感じで話を切り出す事にした。
「その……大丈夫だったか? あの後」
「えっと、あの後というのは、警察に撃たれた後の事よね?」
「ああ、そう、それの事だ」
「その……大丈夫だったわ。落ち込みはしたけれど、明日香ちゃんに励ましてもらったの」
「なるほど、明日香が……」
その言葉を最後に、俺達は再び無言になる。
しばらく上梨の出方を窺ってみるが、一向に話し始める気配は無い。
そうしているうちに、なんとなく話す雰囲気では無くなり、蝉の声が気になり始めた。
少し前まではアブラゼミが騒音を撒き散らしていたのに、今ではすっかりヒグラシの気取った声に移り変わっている。
そのうち夜になれば、コオロギが鳴き始めるのだろう。
蝉よりはマシな気がしていたが、大差ないかもしれないな……。
意味も無い、取り留めも無い思考。
そんなどうでも良い事をふと考えて、俺はようやく一区切りついたのだと実感した。
何とはなしに、地面に寝転ぶ。
視線は自然と天を仰いだ。
ゆっくりと流れる雲を見て、悪くないと、そう思った。
「……上梨って、もう人間なんだよな」
「ええ、お陰様でね」
「もうちょい夏休み残ってるけど、どっか行きたい所とかあるか?」
上梨は少し考える。
「えっと、久しぶりに明日香ちゃんとも遊びたいかも」
「確かに、三人でどっか行きたいな」
「……遊園地?」
「もう三回目だぞ」
流石の明日香でも、もう飽きが来ている頃だろう。
「それもそうね」
上梨が小さく笑う。
それに釣られて、俺も笑った。
こんな会話をできている、そんな事が嬉しくて仕方が無い。
上梨が、寝転がる俺の顔を覗き込んでくる。
「……どうした?」
「今、これが日常だって確信したから、言いたい事があるの」
「なんだ?」
「……私、ずっと貴方が誰かに盗られないか心配だった」
すっと、上梨は自然に語りだした。
「自分の気持ちを自覚してから、私はずっと貴方の事を考えてる。貴方の事が好きで、一緒に居たくて、いつまでも話していたかったの。でも、心のどこかでは常に自分が貴方に釣り合わないと思ってた」
上梨は優しく微笑むと、ゆっくりと確かめるように俺の髪を触り始める。
「今も、釣り合わないと思っているわ。私みたいな面倒くさくてズルい女より、明日香ちゃんやカサネさんの方がよほど良い。それでも貴方は優しいから、私に告白してくれた。でも……私も少しは成長したから、貴方と対等に向き合いたいの」
上梨は不安そうに俺の顔を覗いている。
上梨は、真剣だ。
俺は上体を起こし、なんとなく正座した。
上梨も正座をし、俺達は正面から向かい合う。
「私は、ずっと貴方に頼っていました」
「は、はい」
「でも、これからは私も貴方をささえたいなと思っています」
緊張したような表情で、上梨は俺を見ていた。
「鏡島貴志、私と恋人になってくれませんか?」
告白された。
柚子、カサネ、せんゆう様、そのどれとも違う告白。
二人の距離を縮める為の告白だ。
俺は今、初めて人と付き合おうとしている気がした。
俺は上梨が好きだ。
明日香も好きだし、カサネも好きだ。
柚子の事も、好きだった。
その中から一番を選べと言われても、俺は選べない。
皆、大切だと思っている。
でも、付き合いたいのは誰かと言われたら、それは間違いなく上梨だ。
だから俺は、上梨の告白に一言「はい」と返事をした。
上梨は、本当に嬉しそうに微笑んだ。
怪物とか、人を喰うとか、そういうのを抜きにした関係性がこれから築かれる。
それはきっと普通の恋愛で、もどかしいものになるのだろう。
ああ、今から楽しみだ。
……なんて、少し素直過ぎるかな?
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
俺はパッと立ち上がり、座っている上梨に手を差し出す。
「ええ、そうね」
上梨は手を取り、すんなりと立ち上がる。
そうして俺と上梨は、どうでも良い事を話しながら歩きだした。
蝉も青空も悪くないが、いつまでも外にいるのは柄じゃない。
俺は、ようやく夏休みが始まったような、そんな気がした。
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