第84話 朧月
……眠れない。
俺は布団の中でごろごろ転がりながら、冴えた目を瞑っていた。
せんゆう様は明日の夜から祭りだと言っていた。
祭りが始まってしまえば、いよいよ後戻りはできなくなるだろう。
神は、警察でもどうしようもないと笹原さんが言っていた。
であれば、本当にどうしようもないのだろう。
あー、眠れん。
俺は諦めて布団から出る。
そして、なんとなく湖の周辺を歩く事にした。
せんゆう様がいれば、明日の事について聞いてみても良かったのだが、生憎と夜の間せんゆう様がどこへ行っているのかを俺は知らない。
歩きながら、なんとなく空を見上げる。
夜空もやはり、快晴である。
雲一つない空に星は無く、月だけが白い穴の様にぽっかりと浮かんでいた。
波打たない湖、ざわめかない木々、そよがない草、調和のとれた世界だ。
こんな世界で、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし、なんて……ゾッとしないな。
視線を落として、鏡のような湖を眺め歩く。
今回の神隠しが柚子の時と大きく違うのは、やはり明日香の有無だろう。
明日香や上梨のいないこの世界では、どうにも上手く強がれない。
せんゆう様との会話が楽しくない訳ではないのだ。
ただどうしても、明日香や上梨を守る為にご機嫌取りをしているような現状に、俺は決まりの悪さを感じていた。
……はあ。
俺は、せんゆう様を好きになれるのだろうか?
いや、きっと数カ月もすればそれなりに仲良くなれるだろう。
明日香や上梨とだって、まだ出会ってから二カ月ほどしか経っていない。
ただ、今はどうにも駄目なのだ。
寝るとか、寝ないとか、そういう事がどうでもよくなり、俺は靴を脱いでジャブジャブと湖に入っていった。
独りで水遊びなんて虚しい事この上ないが、今は虚しくなりたい気分だったので問題ない。
バシャリ、高く水を舞い上げる。
水滴は月明りを反射して輝き、鏡の様だった水面に波紋を描いた。
綺麗だ。
……虚しいけど。
「うおっ……!」
俺は盛大に転んだ。
湖の底が深くなっている事に、気が付かなかったのだ。
唐突な状況変化に頭が追いつかず、無我夢中で手足を動かすも、焦るばかりでどうにもならない。
すぐに肺から酸素も無くなり、俺は我慢できずに水を飲んだ。
……苦しくない。
どういう原理か知らないが、どうやら俺は水中で息が出来ているらしかった。
まあ、神域だ。こんな事もあるだろう。
酸素があるのなら、当然のように思考も落ち着いてくる。
さっきまで溺れかけていた癖に、俺は幻のように揺らめく月を美しいとさえ思っていた……呑気な事だ。
でもまあ、水中から月を見上げた事なんて無かったのだから仕方が無い。
ボンヤリと姿を取り戻していく月を眺めながら、俺はゆっくりと沈んでいく。
……暇だな。月なんか、今まで何度も見てる。
一人で見たって、どうしようもない。
……ずっと、一人でやって来たのにな。
思えば、たった数ヶ月で変わったものだ。
明日香や上梨と会う前、俺はどんな奴だったっけ?
どうせ幻のような世界なんだ、悪夢のような過去でも思い返してみるとしよう。
中学に上がるころ、諸々の処理が済んで俺は叔父さんに引き取られた。
そして、中学生になれば全てが解決すると思っていた俺は愕然とした。
母の目が視界から消えた時、俺の前には無数の目が並んでいたのだ。
そのどれもが、俺を監視しているように思えた。
良い子であろうとしていた俺は、人前で何も話せなかったのだ。
あの日々は胸糞が悪かった。
何も考えていないような馬鹿共が幸せそうで、俺だけが不幸だった。
俺は誰より良い子な筈なのに、まるで報われる兆しが無いのだ。
それでもいつかは……そんな事を考えて生きていたら、いつの間にか中学三年間が終わっていた。
結果としてできあがったのは、外面は良いのに友達はいない。真面目なのに学力は平凡。見かけ通りに運動が出来ない。そんなパッとしない青春モドキの残骸だ。
そんな俺に止めを刺したのは、卒業式の帰り道……楽し気に友達とハンバーガーを食っている馬鹿共だった。
いや、違うな。
その頃、その瞬間までは馬鹿共だなんて思っていなかった。
必死に良い所を探して、あいつは運動ができるとか、人を笑わせられるとか、そんな事を自分に言い聞かせて……俺は嫌いな人なんか一人もいないふりをしていた。
その馬鹿共は店の中、大声で馬鹿笑いしていたのだ。
今でこそどうでも良い事この上ないが、良い子であろうと日々を生きていた俺にとって、そんな小さなモラルの欠如さえ許せなかった。
そして俺は、馬鹿共の中に教師が混じっている事に気が付く。
その瞬間、全てがどうでも良くなった。
道徳の大切を解いてきた奴等なんて、世の中の有象無象なんて、ただの馬鹿だと理解したのだ。
それから俺は、母の元を離れたのに母の教えを守り続ける矛盾に気が付き、無気力かつ嘲笑的になっていった。
……今思い返すと随分と幼稚で、しょうもない人生だったな。
でも、その人生が無ければ、あれだけ真剣に生きている明日香や上梨に惹かれる事も無かった。
であれば、しょうも無くとも必要な過程ではあったのだろう。
俺は自嘲気味に唇を歪め、わずかながら泡を吐いた。
背が、水底に触れる。
随分と深く沈んだものだ。
俺は緩慢な動きで立ち上がり、周囲を見渡す。
暗いな……。
月明りがあっても、せいぜい三メートルほど先しか見えない。
俺は闇の中をゆっくりと歩き始める。
少し怖いが、ここは神域だ。
呼吸も出来るし特に危険は無いだろう。
……自分の考え無しさを後悔し始めるまで、五分とかからなかった。
最悪だ、こんな視界が悪い中で素人が真っ直ぐに歩ける訳が無い。
俺は一生、このまま水底を彷徨い続けるんだ……いや、そこまでの緊急事態では無いな。
俺はその後も十分ほど歩き続け、怖かった暗がりにも次第に慣れ、飽き始めていた。
あー、諦めて上の方に泳いで行こうかな?
でも体力が持たないと思うんだよな……。
せんゆう様が、さっさと助けに来てくれないものだろうか?
「……おっ」
そんな気の抜けた反応だったが、俺はそこそこ驚いていた。
急に、巨大な蛇の顔が現れたのだ。俺の目の前に。
気が付くと、右にも、左にも、上にも後ろにも蛇の顔がある。
……いったい、いくつあるんだ?
まあ、そんな事はどうでも良い。
こんなところにいる大蛇の正体なんて一つしか無いのだから。
「なあ、せんゆう様だろ? 上の方に連れていってくれないか?」
蛇が水底に頭を伏せる。
乗れという事だろうか?
俺は大人しく頭に跨ると、蛇はゆっくりと水面を目指して泳ぎ始めた。
「おお、凄いな……」
そういうアトラクションみたいで、なかなか楽しい。
水面に近づくにつれて再び視界が開けてくる。
沈んでいる時は何とも思わなかったが、この湖には魚が一匹もいない。
やはりここは、普通の場所ではないという事なのだろう。
俺は水底がどれだけ遠くなったのか気になり、ふと後ろを振り返る。
そこには、長い長い蛇の体と、隠れるように縮こまる七本の首があった。
怯えるような様子に罪悪感を覚え、俺は静かに前を向く。
せんゆう様は、八つ首の大蛇だったのか。
大きな蜘蛛と比べると、まっとうな神らしい姿だな。
そのまま近づいてくる水面を眺めていると、せんゆう様が話しかけてくる。
「君はやはり……この姿を見ても怯えないのだな?」
「いやまあ、知り合いだし。それに今までも、デカい蜘蛛とか、肉紐怪人とか、色々と見て来てるから」
「……そうか」
せんゆう様の声音は複雑で、何を思ったのか俺には分からなかったけれど、どことなく寂しげに聞こえた。
だからという訳では無いが、俺は足元にある大きな頭を軽く撫でてやった。
……そして遂に、俺達は水面に辿り着く。
俺はそのまま、優しく陸地に降ろされた。
目の前で滝のように水を流しながら首を伸ばす大蛇は、確かに神様らしかった。
「……愛しい人、急な事で君が困惑しているのは分かっているよ」
暗い湖に目を落とし、せんゆう様は呟く。
「今すぐにとは言わない、それでもいつか……私を愛してくれないか?」
せんゆう様が、その十六の瞳で俺を見る。
酷く寂しげで縋るようなその目を前にしても、俺は何も言う事ができなかった……。
せんゆう様は諦めたように、月を見上げる。
俺も、それに倣うように空を見上げた。
ボンヤリ浮かぶ月は、やはりポッカリと開いた穴のようだった。
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