第82話 羽化

 どれくらい、時間が経ったのだろう?

 カサネさんが鏡島貴志にキスをしたと聞き、私は半狂乱になって彼を喰おうとした。

 そして、気が付くと知らない洞窟に身を隠していたのだ。


 ボンヤリとしていた思考が、徐々に冴えてくる。

 ……そうだ、私は正真正銘の怪物になったんだった。


 しかし何故か、改めて自分の体を見ても、まるっきり人のものだった。

 うねる触手も、牙の並んだ顎も無い。


 あれは、夢だったのだろうか?

 なんて……そんな訳が無い。

 私は確かに鏡島貴志を喰おうとした。


 でも、今はただ彼に会いたい。

 食べたいとか、そういうのじゃなくて……彼の声が聞きたかった。

 ……でも、もう無理だ。


 私は自分が人間になったと思って、彼を誰にも盗られたくないと思って、恋人関係という鎖で彼を縛った。


 しかし私は怪物だった。

 異類婚姻譚に出てくるような、カサネさんのような、無害な怪物じゃない。

 正真正銘、人喰いの怪物。

 自分を人だと思い込んだ愚か者。


 鏡島貴志は優しいから、それでも私に夢を見せてくれたけど……やっぱりカサネさんのような人が良かったのだろう。

 当然だ、自分を喰おうとしている相手と一緒にいたい人なんていない。


 それでも今は、鏡島貴志を食べたいだなんて思ってない。

 だから、遠目に見る事くらいなら許されるんじゃないか?


 ……いや、怪物性に侵されて、食べる事と殺す事の違いすら分からなくなった私には、恋どころか見守る事すら許されない。


 好きな人を殺す事しかできない私は、もっと早くに死ぬべきだったのだ。


 小学生の頃からずっと無視していた希死念慮を、私は初めて受け入れた。

 私の中の怪物が眠っている今の内に、死んでしまおう。


 蹲って、自分の首に手を添える。

 目を瞑って、自分の手に力を込める。


 呼吸を止めて、考えるのは彼の事。


 初めて彼が話しかけてきた時、性格の悪さに目をむいた。

 本当に露悪的で、こんな人間が実在しても良いものかとさえ思った。

 でも、彼の明日香ちゃんへの態度を見るうちに、だんだんと考えが変わっていった。

 そして彼は、私に明日香ちゃんを好きになってくれと言った。

 私がどういう怪物なのかを知りながら。


 ……私が人を好きになる事を、肯定されたのだ。

 思えば、彼の事が気になり始めたのは、あの時からかもしれない。


 息が、苦しくなってきた。


 まだ、ぜんぜん思い出し足りない。

 彼が友達になろうと言ってくれた事も、ただ好きって言えば良いと言ってくれた事も、付き合おうと言ってくれた事も、もっとゆっくり思い出したい。


 でもやっぱり、私は首から手を離さなかった。

 ここで離したら、もう二度と死ねない気がするから。


 ……私、ずっと幸せだったな。


 意識がゆっくりと落ちていく感覚。

 心地よく息が詰まる感覚。

 まどろむような……彼に体を預けている時のような……。


「……さん……きて…………かみなしさん!」


 途切れそうな意識の中、首にかけた手を無理やり引っ張られる。


 私は咳き込みながら、涙の浮かんだ目で周囲を見わたした。

 洞窟の中、逆光で目の前の人物が誰か分からない。


「かみなしさん! 大丈夫?! 生きてる!?」


「明日香ちゃん? ええ……生きてるわ」


 そう返事をすると、明日香ちゃんが飛びつくように抱き着いてくる。

 そのまま、わんわんと胸の中で泣き出した。


「死なないでよぉ! 絶対っ死ぬのは、やだぁ!」


 明るさに目が慣れてくると、だんだんと周囲の状況が把握できる。

 明日香ちゃんの顔は、涙と鼻水でグチャグチャだ。


「……ふふ」


「なんで笑うの! 私は怒ってるんだよ!」


「ごめんなさい、ふふ、顔が……すごいから。ほら、拭いてあげるから顔見せて?」


「うぅ……?」


 ポケットからハンカチを取り出し、涙と鼻水を丁寧に拭ってあげる。

 しかし、拭いても拭いても一向に泣き止む気配は無い。


「ごめんね? 心配かけちゃって、今はたぶん大丈夫だから……」


 私の言葉に、明日香ちゃんは拗ねた様に唇を尖らせる。


「かみなしさんは、ずっと大丈夫だもん。たかしが、人に戻してくれたんだもん……だから、死なないでよぉ」


「え……?」


「たかしが、せんゆう様に連れてかれちゃったの……でも、そのおかげで呪いが無くなったんだって。だからもう、かみなしさんは死のうとしなくて大丈夫なの!」


 明日香ちゃんは、まるで説得でもするように私に訴えかけてくる。


 抗いがたい捕食衝動が消えたのは、それが理由か。

 たしかに、完全に異形化していた私が、突拍子もなく人の姿に戻るとは考えにくい。

 恐らく、明日香ちゃんの言葉は真実なのだろう。


 だが、だとすれば私は……。


「ねえ、かみなしさん。たかしを助けに行こう?」


 明日香ちゃんの、無垢な顔。


「…………だ、駄目、無理よ」


「なんでよ!」


 明日香ちゃんは怒ったように声を上げる。

 でも、無理なものは無理なのだ。


 私は今、あれだけ会いたかった彼に会いたくない。


「私が、人だから。人になるって、こういう事なんだ。今までは、心の中でずっと思ってたの。彼がどこかへ行きそうになっても、食べてしまえば全て自分のものにできるって……でも、今は違う」


 私の心は、もはやどうしようも無いほどに人だった。


「捕食衝動が無くなって、今はただ怖いだけ。付き合っても、抱き合っても、見つめ合っても、私では彼を引き留められないって分かってる……」


 溢れ出した、私の本音。

 今の私は、どこまでも弱かった。

 皮肉な事に、恋をできる程の傲慢さは、私の怪物性にこそ備わっていたのだ。


 人の私に備わっているのは、彼への激しい独占欲と、彼を独占できない弱さだけ。

 だからもう、彼と恋人になりたいなんて傲慢な事は望めない。


「私はただ、奇跡のように幸せな日々を反芻していたいだけなの……」


 私の酷く後ろ向きな披瀝に、明日香ちゃんは口を閉じる。

 とても、悲しそうな表情だ。

 とても、辛そうな表情だ。

 しかし、それでも明日香ちゃんは口を開いた。


「……私もね、そう思ってた」


 真剣な目で、明日香ちゃんは私を見つめる。


「無理だって、自分の力じゃ何もできないって、思ってたよ? そしたらもう、今持ってる幸せを繰り返すしかないって思っちゃうよね……」


 明日香ちゃんは本当に苦しそうで、思わず私は問いかける。

「……明日香ちゃんに、何があったの?」


「えっとね……最初の大切な人は、お父さんとお母さん。でも、私が大きくなってくと、二人はぜんぜん家に帰ってこなくなったの。本当に辛くて、ずっと昔のこと思い出してた。そんな時に、たかしと、かみなしさんに会った」


 明日香ちゃんは、大切そうに私達の名前を挙げる。


「私ね、二人がいて、すっごい楽しかった。二人がいたら家族がいなくても大丈夫だって思った……でも、死んじゃった」


「……え?」


「だから、頑張って過去に戻る方法を見つけたの。それで、何回も何回も繰り返したけどダメで……あきらめた。それからは、二人に会う前と同じ。残ってる幸せを何度も繰り返して、平気なフリをした。それでも、たかしは未来の方が楽しいよって言ったんだ」


 明日香ちゃんが、ぎゅっと私に抱き着いてくる。


「ねえ、かみなしさん? たかしと、私と、かみなしさんが一緒にいられる未来で、嫌なことなんてあるわけ無いよ」


「でも、私は……私なんかじゃ……」

 二人に、相応しくない。


 明日香ちゃんは、私をそっと離して優しく微笑む。


「かみなしさんは、不安なんだよね? でもね、不安な事があるなら……たかしと、ちゃんと話さなきゃ」


「……それが、怖いの」


 鏡島貴志が私を否定したら?

 鏡島貴志が私を見てくれなくなったら?

 鏡島貴志が私より良い人に好かれたら?

 ……不安で、怖くて、仕方が無い。


 明日香ちゃんは、私を見てふっと笑った。


「たかしは怖くないよ? かみなしさんが、一番よく知ってるはずでしょ?」


「あ……」


 その言葉に、はっとする。

 私は、彼を知っている。

 少なくとも、ノート七冊分は知っているのだ。


 鏡島貴志は、私を置いて行くような人間じゃない。

 優しくても、優柔不断では無い。

 そんな事、私が一番分かっているはずだった。


 私はただ、自分が嫌いなだけだ。

 相応しくないと自分で分かっているから、彼のせいにして逃げているだけだった。


 人と付き合うのなら、私はまず相手と向き合うべきだったのだ。

 悲劇に酔って、妄想に縋って、自分を慰めるのはもう止めよう。


 私はもう、好きな人を喰う怪物ではない。

 彼が私を見てくれたように、私もちゃんと彼を見て良いのだ。


 私は、ようやく覚悟を決めた。


「明日香ちゃん……私、鏡島貴志に会いに行く」

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