第49話 乖離
母が、私を睨みつけている。
ずっと怖くて仕方が無かった、その狂気に満ちた目が私を睨みつけている。
母が、私を、見ているのだ。
思えば、母の瞳に狂気ではなく自分が映る事を何度も夢想していた時期もあった筈なのに、特段感慨といったものは湧いてこなかった。
それどころか、今の私には母の目を恐ろしく感じる事さえ無かったのだ。
……何故、私の心境はここまで変化したのだろう?
あの男が親を他人以下だとバッサリ切って捨てたからだろうか?
それとも、明日香ちゃんが私の友達になってくれたから?
まあ、どちらでも良いか。
既に、あの男には拘束の術を掛けているし、魂魄混合術の発動も済んでいる。
後は術の完成まで待つだけだ。
睨みつけても表情一つ変えない私を見て、母は口を開いた。
「お前! 妾の魂を混ぜて旦那様を神にするとは、どういう意味か分かっておるのか!」
母も、こんなに取り乱すのか。それが少々、意外だった。
「ええ、分かっていますよ。その男が大蜘蛛様と同じように、理想に執着し人間性の外れに位置した神という存在になる、それだけです」
私の言葉に、母は顔を真っ赤にしながら吼える。
「そうではない! 妾は旦那様の魂が変質する事を憂いておるのじゃ! 妾から二度も旦那様を奪うと言うのか? お、お前は! 数百年かけて追い求めたその先を、妾の存在を引き金にして終わらせると言うのか!?」
母の歪んだ瞳には、涙さえ浮かんでいる。
……ああ、魂の変質に怒っていたのか。
自分は、明日香ちゃんと私の魂を混ぜようとする事にまるで躊躇わなかった癖に、随分と勝手な事だ。
最早、私には母が癇癪を起した子供の様にすら見えていた。
「魂が変質すると言う事は、旦那様の魂に刻まれた妾との思い出すら歪み、崩れるのじゃぞ? これは妾に殺された復讐のつもりか? 何度も言うが、お前には殺された記憶があるだけじゃ! もし、お前が肉人形の分際で、妾に殺された娘を自称するのなら、片腹痛いわ! 妾は、お前なぞ要ら——————」
「違うでしょ!!」
母の言葉を遮ったのは、明日香ちゃんだった。
「ゆずちゃん! そんなこと言わないでよ! 悲しいでしょ!」
「か、か、悲しいじゃと……? 巫山戯るなよ小童! わ、妾は! 妾には! 旦那様しかおらんのじゃ! それを、全てぶち壊しにされそうになっておるのじゃぞ? 本物の娘どころか、生き物ですらないただの呪具に! 妾の気持ちが分かるか? 妾は一度、旦那様を失った。その恐怖が分かるか? 妾自らの魂で旦那様を汚される憤りが分かるのか!?」
母は、声を震わせながら捲し立てる。
「っ……なんで、なんでよ! たかしが、好きなんでしょ?! だったら、思い込んでるだけでも! 子供だって思っえなくても! ちょっとでも、たかしと自分の子どもの部分があるなら! ちょっとくらい優しくしてくれても良いじゃん! 気持ちとか! 考えてくれても良いじゃん!」
「知らぬわ! 妾には旦那様だけおれば良いのじゃ!」
「じゃあ! なんで子供産んだの!」
「旦那様が息子を欲したからじゃ」
「……っ! っ! う、うぅ、むすめ、は……いらないの?」
明日香ちゃんの瞳に、涙が浮かぶ。
「いらぬ」
果たして、母は当然と言った風に言い放った。
その言葉を、自分の境遇と重ねたのだろう。
明日香ちゃんは、完全に泣き崩れてしまった。
「……? 何故、お主が泣くのじゃ?」
困惑した様子で、母は明日香ちゃんを見る。
やはり、神と人は分かりあえない。
母は姿こそ人の様に整えているが、精神は完全に超常のソレなのだ。
母と衝突した時点で予想で来ていた事とはいえ、実際に母が明日香ちゃんを泣かせている様を見るのは気分が悪い。
しかし今はそれよりも、明日香ちゃんが私の境遇に自己投影して涙を流している事が、変に嬉しくて仕方が無かった。結局、私も怪物なのだ。
「……おい」
私が感慨に浸っていると、後ろから声をかけられる。
そこには、私が確かに拘束の術を掛けた筈の男が立っていた。
「お前、何故動けて……なるほど、計画より術の発動が先行したせいで、孔の修復が不十分だったのですか」
「あー、良く分からんけど、今は明日香と話したいんだ。お前とは後で良いか?」
「本当に良いのですか? ここで私を止めずに数分もすれば、お前は神とは名ばかりの理外の存在に成り果てるのですよ?」
「えぇ……怖い。お前が発動した術なんだから、停止させてくれよ」
男は、あまり怖がってはいない様子で、おどけて見せる。
「いやです。お前が人間のままでは、神のつがいには至れないので」
「へえ」
自分の精神や恋人に関わる話なのに、随分と気の抜けた返事だ。
「……お前は、自分が自分でなくなるのが怖くないのですか?」
「まあ、怖いっちゃ怖いけど実感湧かないし、今は明日香の方が優先かな」
この男は、そう事も無げに言い切った。
自分よりも明日香ちゃんを優先すると、言い切ったのだ。
本当は、私のお父さんなのに。
だって……母がこの男の妻ならば、きっと私は娘のはずだ。
少しだけ、術を発動した事を後悔した。
少しだけ、友達に父をあげると決めた事を後悔した。
少しだけ、母がこの男を旦那様と呼ぶまで、この男を父だと信じられなかった事を後悔した。
男は、泣き崩れた明日香ちゃんの隣に座り込んでいる。
……私に背を向けて。
私は口の中で、父から貰った価値観を小さく言葉にした。
「……親なんて、他人以下」
なんだか妙に泣きたくなったけれど、涙は出なかった。
+++++
「よう、明日香」
そういえば、泣いている姿は儀式の日以来見ていないな。
明日香は俺の声に反応せず、すすり泣き続けている。
……さて、来てみたは良いが、どうしようか?
カサネが俺に掛けたらしい術のせいで、少し動くだけで随分と疲れる。
「明日香、返事はしなくて良いから聞いてくれ」
そこでふと、数日前に自分が明日香に撫でて貰った事を思い出す。
重い手を上げ、明日香の頭に乗せる。
そうして俺は、明日香に向けた独白を始めた。
「なんかさ、俺ってずっと母親を特別視してたんだ」
明日香が、小さく震える。
「特別視って言っても、別に好意的な感情じゃないぞ? なんかこう、圧倒的な存在と言うか、呪いと言うか、俺の過去そのものみたいな。無意識に母親を、そういう妙に大きな存在みたいに思ってた」
頭を撫でていたからだろうか、少し明日香の呼吸が落ち着く。
明日香は俺の胸に頭を預けてきた。
「……でもさ、あたりまえだけど母親も人間なんだよ。母親って称号を持っているだけで、根本的には小学校の先生とか、近所のおばさんとか、そういうのと変わらない。世の中の通説では母親が無償の愛の象徴だったり、家族愛がとても素晴らしいものみたいに描かれたりするけど、結局は親子ってのも友達や幼馴染みたいな関係性の一つでしかないんだって、お前を見たり柚子を見たりして、俺はそう思った」
最後の上手い言葉を考えるが、思いつかない。
俺は諦めて、思ったままの言葉を口にする。
「だから、まあ、何と言うか……親も人だって割り切るしかないんじゃね?」
「……そんなの、大人の事情じゃん。私、やだもん。他の家族は仲良しなのに、私だけガマンしなきゃなの? 大人がもっと、がんばったら良いじゃん」
明日香が、少しムスッとした声で答える。
なんか、いつもより子供っぽいな。泣いた後だからか?
まあでも、大人が子供を巻き込むなってのは、俺もずっと感じていた事だ。
……ちゃんと答えたいな、大人として。
「明日香はさ、子供と大人の境目ってどこだと思う?」
「……二十才だと、思う」
「ああ、俺もそう思う。でもさ、子供の頃はずっと、大人に対してしっかりしろよって思ってたのに、二十歳になった瞬間に、今まで自分が向けてたしっかりしろよって思いが自分に圧し掛かってくるのってキツイと思わねえか? まあ、それでもなんとかなってるのが明日香の言う他の仲良しな家族だと思うんだけどさ。けど、あー、なんだろう……」
少し、考える。
「ちゃんと言ってやろうぜ、しっかりしろよって思ってるだけじゃなくてさ。自殺配信とか、職場に行って目の前に立つみたいな方法じゃなくて……もっとかまってくれって、正直に言うんだ」
どう関わって行けば良いか俺に教えてくれた明日香なら、きっとできると俺は思う。
こんな感じで、どうだろうか?
俺は結構ビクビクしながら、明日香の頭を手持ち無沙汰に撫で続ける。
「……全部、言わなくても分かってくれたら良いのにね」
「そうだな……」
「たかしは、けっこう分かってるよ」
「そうか」
静かに、ゆっくりと時間が流れる感覚に陥る。
なんとなく、初めて遊園地に行って明日香とベンチの上で過ごした時間を思い出した。
サラリと、明日香の髪に軽く触れる。
「……ねえ、たかし、がんばるから」
そう小さく呟く明日香の表情は、明日香が頭を俺の胸にグリグリと押し付けているせいで見えない。
「……でも、お母さんと、お父さんが、私に……きょうみないって、いらないって言ったら……たかしと、かみなしさんに、ぎゅーってされながら、いっしょに、おひるねしたい」
「おう、分かった。上梨にも頼まないとな」
「えへぇ、うん……」
明日香は顔を上げ、涙でべちゃべちゃの笑顔を俺に見せた。
……まあ、こいつなら大丈夫だろう。
「さて、そろそろか」
露骨に体の違和感が大きくなってきた。
随分と青い顔をした柚子が、俺に倒れ込んでくる。
柚子が触れた瞬間、一気に疲労感が大きくなる。
「……ふ…う……いんを、と、いて……」
耳元で、柚子が掠れた声を出した。
俺は返事代わりに軽く柚子の背を叩いてやり、明日香に向き直る。
「明日香、恐らく俺はこのあとヤバい事になる。封印を解けば良いっぽいが、どうやれば良いかは正直分からん。まあとりあえず……」
腹の底が裏返るような感覚に襲われる。
「……頑張れよ」
次の瞬間、俺の視界は黒く染まった。
俺は最後の瞬間、明日香にしっかり笑いかける事ができていただろうか?
このまま終わったら、明日香と親の関係を見届けられない事や、上梨の好意と向き合う時間がとれなかった事が心残りだな。
まあ、時間が無かった割には明日香に対してなかなか良い事を言えた気がするし、良しとしよう。
……はあ、死ぬのかな、俺?
そのまま全身を蜘蛛の巣に絡めとられるような感覚に襲われ、俺の意識は白く塗りつぶされた。
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