第3話

(なんの匂いだろう。

 ふたりから、全く同じ匂いがするぞ。

 …でも、香水でも整髪剤でもない…。

 …いや、待てよ。

 この匂いはどこかで嗅いだことがあるぞ。

 ええと、これは…)


 床屋さんが匂いの正体を思いつく前に、


「大将、急ぎでひとつ、頼みます。

 わたしらふたりとも、これからちょいと急ぎがありましてね」


 男のほうが声をかけて、髪を切る椅子に座りました。

 女のほうは、それまで床屋さんが座っていたソファに静かに腰を下ろしています。


「はい、どのようにいたしましょう」


「…大分伸びてしまったからね、短めに刈り込んでください。

 毛先が遊ばないくらいにね」


「かしこまりました」


 櫛で髪を持ち上げて鋏を入れると、いい匂いはますます強くなりました。

 床屋さんはさくさくと男の髪を切り揃えながら、やっぱりこの匂いには憶えがある、と思っていました。


(…一体、何の匂いだったろう、これは。

 なんだか、おいしそうな匂いだ。

 何か、とびきり美味しい食べ物に、どうしても必要な匂いだ。 

 これは、確か…)

 

 ところが、もう少しで答えを考えつきそうなところで、男の散髪は済んでしまいました。


「はい、こんなのでいかがですか」


 床屋さんが鏡をかざすと、男はそれを食い入るように見つめて、満足そうに、


「大変気に入りました。

 さすがですな。

 親方の言っていた通りだ」


「は? 親方?」

  

 今、確かにそう言ったようだな。

 誰か、お弟子を抱えているお客さんのお弟子さんかしら?

 床屋さんが思って、


「あの…」


と、尋ねようとすると、


「では、次はわたしが切っていただきますわ」


 女が口をはさんで、男を急き立てました。


「とにかく今日は忙しくなるんですから。

 床屋さん、わたしはショートカットにしてください」


 女は入れ違いに椅子に腰かけると、慌てて注文を出しました。


「はい、ショートカットですね。

 前髪は横へ流しますか、降ろしますか?

 段は入れますか、襟足の長さは、どのくらいにしましょうか?」


 床屋さんがあれこれ尋ねると、女はてきぱきと、


「前髪は額を出してまっすぐ揃えてください。

 すっきり見えるように段を入れて。

 それから、襟足はできるだけ短く」


「はい」


 床屋さんは鏡に映る女を見て、ふと妙な気がしました。

 さっきまで座っていた男と、なんだか似ているように見えたのです。


(…夫婦と思ったが、兄妹なんだろうか。

 でも、それなら、こんな年になって、一緒に床屋に来たりするかなあ…)


 女からはやはり男と同じかぐわしい匂いがします。

 髪を切るとき、よりいっそう、それが強く匂うのです。


(いい匂いだなあ…。

 でも、やっぱりどこかで嗅いだことがあるんだが…)

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