2.反省しましょう(ちょいとシリアス)
「メアリーちゃんをここに連れてきたのは私じゃなくてね。確か、褐色の大男で……ヘチマ売りとか言ったか?」
誰よヘチマ売り。
「イシュマウリです、多分。イシュマウリ=バグナウ、(私の)親友です」
「そうそう、そんな名前だった。だから私は詳しいことは知らないんだが……」
思案する先生の視線がしばらく宙を舞った後、私の顔に戻ってくる。
「……メアリーちゃんは、魔都を出たらしいね?」
穏やかな口調だった。でも声色でわかる。腹の底から絞り出すような息遣い。この人、ガチギレだ。
「……出ました」
声も出せないほどに委縮した体を奮い立たせ、何とか聞かれたことだけは答える。
「魔都を出てどこへ?」
「東に」
「東……というと、森のほうか?」
「いえ……もっと先に」
「もっと先ぃ? ……そうか、もっと先か!」
先生は頭を抱えた。
「……あれほど迂闊に外に行くなと言ったのに。しかも東か……」
フレデリカ先生は日頃から、訓練以外で森には行くな、森の外に行くなどもってのほか、特に東は絶対にダメだ、と口酸っぱく言っていた。他の奴らが出かけていても私たちはダメだ、私たちの学科だけは事情が違うのだ、と。
この先生の対応は幾分過保護というか、正直うざいと思ったし、学者気質の人間の多い『魔都』、その学術拠点たるここ『知恵の館』の先生としては不適切ではないかといつも思っていた。
でも、ここは『知恵の館』。合理主義を突き詰めたこの施設に、意味のないルールはきっと一つもないのだろう。それは今回、嫌というほど思い知ったことで。
しばらく頭を抱えた後、先生はまた顔を上げて、私の目を見つめる。
「……頭ごなしに怒ることはしないよ。メアリーちゃんも何か、考えがあったんだろう?」
存外に優しい声だった。でも今は、その優しさが怖かった。ピリついた空気は、いまにも爆発してしまいそうで。
「……ごめんなさい。深い考えはありませんでした。ただ……教会を見てみたくて」
正直に言えばなんと言われることかと怯える気持ちはある。それでも素直に謝った。こうして話をしてくれる先生を、裏切りたくなかったから。
「教会?」
先生が怪訝な顔をする。
「祈りを捧げるだけなら、
違うの、そうじゃないの。
「その……他学科の学生に聞いたんです。彼は東の方の実家に度々帰るそうなのですが、その道中にとても立派な教会があると言っていて。それで、一度でいいから見ておきたくて……」
私を見ていた先生の目が、段々と、うさん臭い物を見る目に変わっていく。
「立派な教会ねぇ……。清貧を唱える奴らが立派な拠点を持っているなんて、自分で『私たちは贅沢してますよ』って喧伝してるようなものじゃないか。どうしてそんな奴らの言うことを信じられるんだか」
やっぱそこ気になりますよねぇ……。でも一応、言い分はあるんですよ?
「多くの人間は日々の労働で疲れてしまって、古い言葉で書かれた聖典を自分で研究したり、自分の生活を省みる余裕がありません。それに、今日を食うにも困る人々はまずそれを救ってやらないことには、神の愛を信じることなんてできないんです。神の威容を示し、そして貧しい人々を救うためには、ある程度教会自体が財を持っていなきゃならないんです」
「そのために私の給料から10分の1持っていくわけか。ふぅん……」
先生は不満そうに、わざとらしく口を尖らせた。
「まぁ、教会組織の是非の議論は私の専門じゃないから置いておこう。そんなことより大事なことが、この世界にはたくさんあるからね。たとえば……教会を見に行っただけのはずのメアリーちゃんが、なんであんな大怪我をしたのか……とかね」
おっと、話が戻って来たぞ。
「まだ何か隠してることがあるね?」
いや、別に隠すつもりはないんだけど……言うタイミングが無かっただけで。
「教会を見に行った帰りに、クマに襲われて足を悪くした人がいたんです。それで……」
「……外で術を使ったのか? あれほど忠告したのに……」
先生が再び頭を抱える。
「『教会の事情に詳しい』メアリーちゃんなら、知らないわけじゃないだろう。私たちの術が、どれだけ聖書の教えに反しているか」
意地悪な言い方だった。でも、私も考え無しだったわけじゃない。
「私にはわからないよ、メアリーちゃん。聖書の教えと、私の教えと。明らかに相反する二つの教えを、どうして一緒に信じられるのか」
「私は、聖書の教えに反した覚えも、先生の教えに反した覚えもありません」
自然と語気が強まった。
「……続けて?」
「聖書には、困っている人がいればぜひ助けるべきだと何度も書かれていますし、先生は『死霊術は仁術だ』と何度も仰っていました。私は、人を救えという聖書の教えと先生の教えを守っています」
先生の紫の瞳が明るくなる。いかにも興味深そうに、私の話を聞いてくれている。
「なるほど、その通りだ。しかし聖書には『邪な』術を使う者は汚れていて死後の救いを失うと書かれているだろう? とりわけ、人間の血を触るような奴は汚れているのだと。その件についてはどう考えている?」
「そうです、きっと地獄に落ちるのです、私たちは。でも……それだけです。それで人が救えるのなら、私は喜んで地獄に落ちます」
嘘だ、本当は地獄になんて行きたくない。でも、少しだけ強がりをした。そのことについて深く考えると、私の決意が折れてしまいそうだったから。
そうだ、私の決意。8年前、口減らしで捨てられた私を先生が拾ってくれた時、心に誓ったこと。
「この命は、人のために使うのです。私の脳も、骨も、筋肉も、血の一滴も、魂のひとかけらも、余すことなく。全て、人を救うために使うのです。それが……」
緊張で声が上ずり、息が切れる。呼吸を整え、再び口を開く。
「それが……先生への恩を返すことになると、信じています。少なくとも、私は」
「……言いたいことはそれで全部かい?」
私がうなずくと、先生は手をゆっくりと叩く。しばらくそれを続けた後、やがてピタリと動きを止めた。
(………………)
気まずい沈黙。それから、先生がおもむろに口を開いた。
「いやぁ、大した演説じゃないか、素晴らしい! 自分が犠牲になっても人々を救いたい! たとえ跳ね除けられ、切り裂かれても施しをやめる気はない! いや全く、高潔な精神だと思うよ、いや、本当に!」
わざとらしい笑顔と、わざとらしい口調。私の『言い訳』が歓迎されていないことは明らかだった。
「それで、だ。『人を救いたい』メアリーちゃんに聞きたいのだが」
先生が真顔に戻る。
「……メアリーちゃんが死んで悲しむであろう、私のことは……救ってくれないのかい?」
穏やかな口調だった。
「なぁ、メアリーちゃん。メアリーちゃんの志は立派だと思うよ。でもねぇ……」
そこまで言って先生が立ち上がる。椅子を持って私の左隣にゆっくりと近づき、そこに椅子を置いて座る。呼吸が聞こえる距離。その距離で見る先生の瞳には、水気が宿っていた。
「メアリーちゃんが死んで悲しむ人たち。メアリーちゃんが生きて、元気にしているだけで幸せだという人間のことは、気にしてくれないのかい?」
ずるい、と思った。私の頭をなでながら、泣きながら、そんなことを言うなんて。教師のすることではない。そこにいるのは、私を大切にしてくれる、私の大切な、育ての親だった。
「気にしないわけではないです、けど……」
言葉に詰まる。再び、場を静寂が支配する。しばらくして、先に口を開いたのは先生だった。
「まあ百歩譲って、その自己犠牲精神は良いとしよう。私だって、危険を承知で出かけることもないわけではない。ただねぇ……なんの対策もしておかなかったのが良くないな」
そういうと先生は、右手を自身の首の後ろに回してちょっと首をすくめる。ちょうど首が凝った人が、その痛みの根元を労わっている感じのポーズだ。顔がいい人間がやると本当に映えるポーズだな、とちょっと不謹慎なことを考えてしまう。
「覚えておきなさいよ、メアリーちゃん。死んだら、それまで……だ。多くの人を救うためには、まず自身が生き残らなきゃならない。自己犠牲の精神だけでは、多くの人を救うことはできない」
普段の講義と比べて本当に平易な言葉しか使っていないのに、その言葉を飲み込むのには、普段の講義の何倍もの時間がかかった。先生の思いは、私の中でゆっくりと咀嚼され、腑に落ちていく。
「……それはそうですけど、さっきまで治療していた人を殴るわけにも」
「ばっかおめぇ、そういう時は殴っていいんだよ。左ほほを殴られたら、無防備な腹にフックをかましてやるくらいの気持ちで生きろ!」
そんな無茶苦茶な……
「まあ、まずは生きろってことよ。何もかもまずはそれから……ふぅ、ん……ン! いや、湿っぽい話になっちゃったなぁ!」
わざとらしく元気に喋ってから、先生は立ち上がり、私の前を通り過ぎる。向かうのは私の右前方、先生の薬棚だ。
「腹が減ったろう! お腹の中空っぽだったし、散々喋ったし。どうだ、何か食べないか。今なら湿気たビスケットと……」
先生はしばらく薬棚を探した後、黄色い液の入った小瓶を見つけ出した。
「メアリーちゃんの大好きな蜂蜜があるよ」
「蜂蜜!」
思わず声が出た。
「ほうら、湿気ったビスケットも、蜂蜜をつければこんなに美味しそうに……」
そう言って、ビスケットに蜂蜜をたっぷりとかけていく……あぁ、ビスケットから垂れる黄色い甘美の、その美しさと言ったら! 今すぐにかぶりつきたいくらい!
「ほれ、一枚どうぞ、って……おい、まだ終わってないのか!」
ひぇ、急に怒鳴らないで。終わってないって何が……と少し考えて思い出した。そういえば、左足を治療するところなんだった。
「いや、でも先生。今までずっと喋ってたじゃないですか! 治す暇なんてありませんでしたよ!」
「バカ、バカ、バカ! 喋りながらでも手を動かせば良かっただろうが! あぁ、もう、どうすんだよ。もう蜂蜜つけちゃったんだぞ。えぇい、仕方ない。かくなる上は……」
そういうと先生は、私の口にビスケットを突っ込んだ。
「うん、これでよし!」
そう言う先生の顔は、晴れやかな笑顔だった。それはもう、見ているほうも笑顔になっちゃうくらいの、とびっきりの笑顔。
「さてさて、次は私の分~♪」
先生は楽しそうにまた一枚包装からビスケットを取り出し、その上にたっぷりと蜂蜜を塗りたくって口にくわえる。
「うん、美味い!」
弾けるような笑顔でビスケットをかじる先生。それから、ゆっくりと口を動かし、ビスケットを飲み込んでいく先生。そうしていた先生の顔が、不意に曇った。
「良い時代だよな……いや、良い場所なのか? 昔はおがくずの入ったスープを飲んでいたのに、今じゃビスケットに蜂蜜がついてくる」
そう言いながら、先生は視線をビスケットから私に移動させる。
「なぁ……ここは良いところだよ。私は南にも、北にも行ったが、ここは本当に良いところだ。好きなことやっても怒られないし、少しばかりの贅沢もできる……。それなのに……」
先生の語気が強くなる。
「それなのに、メアリーちゃんは外に行きたいのかい?」
その顔は、とても悲しそうだった。
「なぁ、私はここを見つけるのに、とても苦労したんだよ。そうやって、ようやく……ようやく見つけた安息の地に、メアリーちゃんはいるんだよ? ここは確かに『悪霊の巣』かもしれないが、確かに良いところなんだよ」
『悪霊の巣』というのは、外の人が『知恵の館』を呼ぶ時の蔑称らしい。先生はこの蔑称を、どういうわけか自称することが多かった。
「なぜか、と言われると、困ってしまうのですが……」
しばらく逡巡する。答えを考えているうちに、左足の処置が終わった。
「私が……本当の意味で生きたいからだと思います。それがどういうことかは、一生をかけて考えるつもりですが……少なくとも、
うっへぇ……我ながらくっさい言い方。でも先生は、この答えに満足したらしい。
「なるほどねぇ……。よぉし、それじゃあ今日も生きなきゃな!」
先生は大きく伸びをした。
「……ン! あ、そうだ。服、服……」
そう言って、先生は私の左後ろにあるドアをくぐる。というか、言われて思い出した。私裸じゃん。
「ほれ!」
やがて奥の部屋から戻ってきた先生は、私に下着と黒いローブを放り投げた。
「それ着ながらこっちに来い。面白い物見せてやるから」
そう言って再び先生は奥の部屋に引っ込む。言われた通り、先生のセンスで選ばれたブラとパンツ(とてもダサい。詳細は……ちょっと言いたくない……)を着て、懐に簡易な道具(針やら糸やらナイフやら)が揃えられた黒いローブを被り、袖に手を通しながら寝台の下に置いてあった靴を履く。それから、先生が入っていった左後ろのドアに入った。
大小さまざまな道具がおかれた薬品臭い実験準備室。そこで目に入ったのは……台に乗せられた水槽の中に浮かぶ、茶色い塊だった。その水槽の、私から見て左隣で、先生が何やらパイプで水槽とつながった機械を弄っている。
「先生……これは?」
先生がこちらを向く。
「こんな不出来な物、他の奴に見せるのは恥ずかしくてな。でも、メアリーちゃんだけは特別だ」
言葉とは裏腹に、そういう先生の顔は誇らしげだった。
「これはな……私の持てる技術を詰め込んで作り上げた、人間の脳の複製だ」
「脳の……複製?」
今度は私がうさん臭そうな目で先生を見る番だ。
「でも先生。先生前に言ってたじゃないですか。死霊術は筋肉を操る学問であって、脳は筋肉ではないから専門外だって」
そういう私に、先生は「もっともだ」と言ってうなずく。
「だから言ったろ? これは研究段階の未完成品、たまに生命体らしき反応が計器から読み取れる以外には、何を考えているのかもよくわからん代物だ。本当は人に見せるのも恥ずかしいくらいなんだが、メアリーちゃんにだけは見せておこうと思ってね。なぜかと言えば……」
そう言って先生ははにかむ。
「私が死んだら、メアリーちゃんにこれを引き継いで欲しくてね」
――え、先生。死ぬんですか?
「まあ待て。今すぐ死ぬ予定があるわけじゃない。ただ、人生は長く、何が起こるか分からないものでね……」
先生の表情が陰る。
「今度、メアリーちゃんを私の隠れ家に連れていくよ。そこには、私のまだ未発表の研究成果がいくらか置いてある。メアリーちゃんには…それを引き継いで欲しい」
――え、そんなこと、急に言われても!
「無理ですよ先生、私には! そんな大任」
「無理じゃない! できるようになるんだ! 時間をかけてもいいから! いいか、メアリーちゃん」
先生の顔が再び、断固とした教育者のしかめっ面に変わる。
「私だけが知識を蓄えるのは簡単さ、私は頭の出来が違うからね。でもそれじゃあ、意味が無いんだ。私だけじゃなくて、皆ができるようにならなきゃあ」
先生の声が熱を帯びる。
「何も今すぐやれってわけじゃない。私が死ぬ前に理解してくれればいい。メアリーちゃんならできるはずだ、メアリーちゃんは私の……一番弟子なんだから」
先生は有無を言わさず言い切ると、こちらへゆっくりと歩いて来た。そして、私の右を通り過ぎながら、その手を私の肩にポンと乗せる。
「とにかく……メアリーちゃんには、そう易々と死なれちゃ困るわけだよ」
先生はそう耳打ちすると、私たちが入ってきたドアを通り、学生たちが出て行った引き戸を抜けて廊下へと出ていく。
「あ、そうだ……パオロ爺さんが心配してたぞ。あいつにも、メアリーちゃんの元気な姿、見せてやれよ!」
そう言うと、戸を閉めることなく(こういうところいつもガサツなのよね)、左に向かって歩き去って行った。
「私が、先生の研究を、引き継ぐ……。先生が、死んだら」
先ほどの先生の言葉が、頭の中で反芻される。
「そんなこと……急に言われても」
釈然としない思いを胸に秘めて、私自身も廊下に出ていく……きちんと戸を閉めて。
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