Sweet taste 案ずるより産むがやすし(佐々木編)
彼女の体調が少し回復したある日、俺たちは改めて結婚のことや子どものことについて話をした。なんでも話し合って決める。それが俺たちのルールだからな。
「子育てに関しては、俺もできる限りのサポートをするつもりだ。でも、そもそも出産の間、会社を休まないといけなくなるよな。鈴香はそれが辛いだろう。本当はまだ出産のつもりなんて無かっただろうし、すまない」
でも、俺の心配は杞憂に終わる。鈴香はむしろワクワクしたような顔でこう言ってきた。
「一成、私の本音を残さず言うね」
「ああ」
「最初はね、ものすごく焦った。自分のライフプランこれでパアだなって。ひどいよね。生まれてくる子に申し訳ない。でも、中絶なんて選択肢は微塵もなかったよ。たとえ一成に結婚してもらえなくても、ちゃんと生んで育てようって思ったの。だって、子どもは奇跡なんだよ。私の友達にも授からなくて不妊治療を頑張っている人が何人かいるのよ。欲しくて欲しくて頑張っていても授からない人がいる一方で、私のように望まなくても授かる人がいる。世の中不平等だなって思うけれど、これも全て運命なんだって思ったら、受け入れようって思ったの」
「やっぱり鈴香はいつでも前向きだ」
鈴香のこの前向きな気持ちが、俺の心にも温かくて力強いものを運んでくれる。
「それにね、出産、子育ては女性のライフスタイルの中でとても大切な一ページなのよ。それを体験できる機会を得たのに、放棄するなんてできないわ。神様ありがとうって気持ちよ」
「前向きで貪欲」
「いいでしょ。それに、子どもを育てるってすっごく難しいことだよね」
「そうだな。きっと色々起こるだろうな」
「チャレンジしがいがあるよ」
「鈴香と一緒なら楽しそうだけどな」
俺の言葉に彼女がグーの手を突きだす。俺もその手にコツンとグーをぶつけた。
これからはいつでも二人で向き合う。その決意表明。
「私があの会社に入ったのは、自己実現もあるけど、ライフスタイルを支える仕事だからって言うのが一番の理由なの。子どもを育てながら仕事する、それもライフスタイルでしょ。それを支えられる保険とか制度、もっとあっていいと思うんだよね。考えたいこといっぱいだよ」
「あ、直ぐ仕事の話になる」
キラキラと嬉しそうに仕事のことを話す鈴香を見て、俺はわざと拗ねてみたくなった。
おかしいな。今までならプライドが許さなかったはず。でも、鈴香にはこんな俺を見せても掌の上でコロコロされて終わりだということが分かっている。
だからこそ、こんなじゃれ合いも愛情表現だ。
「当たりまえ、仕事大好き」
「俺のことは?」
「……完璧君が、本当はこんなに甘えん坊って知っているのは私だけかな」
「そうだよ。だから君は特別」
俺はそう言って笑いながら彼女の口を塞いだ。俺の秘密を彼女以外には知られたくないからな。
俺の弱みを握るのは、彼女だけ。
今までも、これからも。
しょうがないなと呆れたような顔をした後、彼女も嬉しそうに微笑んだ。
結局、彼女は俺の海外赴任についてきてくれた。
というか、俺の海外赴時期をこの時期にしてくれたのは、もしかしたら会社の配慮が働いているのかとも思ってしまう。彼女は今育児休業を取得中だから。まあ、人によっては乳飲み子を抱えての海外に尻込みする人もいると思うけれど、鈴香の場合は反対だからね。
そんな個々人の事情に配慮しているかどうかわからないけれど、俺にとっても彼女にとってもタイミングの良い転勤だった。もし、会社が配慮してくれているとしたら……うちの会社、いい会社だなと胸を張って言えるな。
仕事大好き人間の彼女が育児休業をしっかりとるのは、福利厚生担当として自らがこの制度をちゃんと生かしたいという思いもあるようだ。
そして子どもが一歳になった後は、会社独自の制度である育児休暇に切り替えて、子どもが三歳になるまで休暇を取り続ける申請もした。
育児休業は、雇用保険から育児給付金が支給される(会社が保障している場合もある)ので、実質無給ではない。だが、会社の制度に切り替えると無給になる。
我が家の場合はそれでもいいと思っているけれど、家計的に厳しい人もいるはずだ。
それでも彼女は冷静に分析している。
会社に子育て中の給与を保証させるのは難しい。なぜなら、会社の給与は労働に対する対価だから。だから自分はこれからも模索するのだと。
子どもを育てながら対価をもらえる方法は、どんな働き方なのか。リモートワーク、時短勤務、職種によってもできることとできないことは違ってくる。
だから、まずは自分自身が、リモートワークが可能かどうか実験するのだそうだ。
海外から? セキュリティの安全性とか、色々難しそうだぜ。あまり無茶しないでくれよ。まったく、相変わらずの仕事の鬼だ。
でも授乳中の彼女の笑顔は、まさに聖母マリアの微笑だ。
母になるって凄いなと思う。強さと優しさがパワーアップしたような気がする。
おっと、話を戻すが、育休中も会社と繋がっていく姿勢は、制度を本当の意味で生かすために必要なことなのだろうなと思う。
一方の会社にとって育児休暇はメリットとデメリットがある。
大切に育てた人材を失わないで済む代わりに、その人が抜けている間の穴埋めをどうするのかという問題が発生する。残っている人たちにしわ寄せがいかないようにしないといけないとなると、代わりの人材を確保する問題が発生する。外注するのか、社内で回すのか。
退職した場合は、その後を考える必要が無いが、育休後に職場復帰することを考えると、その後を見据えた対応が必要になるからな。難しいんだよな。
しかも、出産、育児は計画的にいかないのが一番難しいところ。
子どもは授かり物。欲しいと思って授かるとは限らないからな。二人目、三人目が思わぬタイミングで授かる人もいるだろう。
会社の人材計画と人件費。社員一人一人の事情。難しい問題だなとつくづく思う。
でも、そもそも人生なんて、想定外の出来事の連続だよな。
俺だって、鈴香と結婚することになるなんて、思ってもみなかったことだしな。
そう考えたら……考え方が少しおおらかになる。
先のことも考えないといけないが、まずは目の前の幸せを大切にしなければと思った。
そうそう、会社の育児休暇制度を三歳まで延長したのは、現在の福利厚生担当の井田さんが係長だった時に発案したもの。五年の歳月をかけて実現させたらしい。ご自身の奥さんが結局仕事を続けられなかった様子を見て、選択肢を増やすことが必要だと思ったのだそうだ。
より良い明日に向かって、戦っているのは、鈴香や俺だけじゃない。
みんな頑張っているんだよな。
井田課長、年頃の娘さんが話してくれないとしょんぼりしていたと聞いた。
本当は愛妻家で仕事のできるカッコいいお父さんなのだということに、娘さんが一日も早く気づいてくれることを願わずにはいられない。
俺も将来、娘に口をきいてもらえなくなったら嫌だからな。今から気を付けておこう。
最近ハイハイが始まって追いかけるのが大変なんだ。鈴香と似たらしく好奇心旺盛。ケガだけはしないように見守らなければ。ああ、なんてうちの娘は可愛いんだ!
え? 親ばかだって?
その通りだよ。完璧男の真の姿は、愛妻家で親ばかで甘えん坊な男なのさ。
【育休について】
育休と一言で言うことが多いのですが、実は二通りありました。
ご存じの方は、ここから先はスルーしてください。
①育児休業
こちらは法律に基づいて保障されている権利です。基本的には子どもが一歳になるまで取得可能で、保育所の空きが無いなどの一定の理由がある場合に限り、二歳まで延長できます。
給与は『育児休業給付金』という形で、雇用保険のほうから支払われます。
これは企業が給与を保障してくれている場合には二重にもらえるわけではありません。企業が保障している場合は、企業の支払い基準になります。
海外に転勤になって住民票が無くなった場合、この給付金がそのまま受け取れるかは、すみません。調べていないのでわかりませんm(__)m
②育児休暇
こちらは企業に努力義務はあるようですが、決まった形や権利ではないので、企業ごとの制度となります。
基本的には給与を払う義務は企業側に無いので、無給になる場合が多いです。
最近は色々なパターンがあるようです。
取得可能な子どもの年齢も就学前までだったり、長い期間では無くて、個別の事情ごとに取得ができたり、だんだん選択肢が増えてきているようです。もちろん無給でないタイプの休暇もあるようです。
上記の話の中では、シンプルに三歳までの連続での育児休暇を取得した形で描いておりますが、実際には色々なパターンがあると思いますので、ご自身の企業のケースを確認してみてください。
それではお付き合いいただきましてありがとうございました。
本編はもどかしい恋を描いておりますので、少しだけ違う雰囲気の恋も挟み込んでみました。この後は、本編に戻りたいと思います。
いつも読んでくださいまして、ありがとうございます! 作者より
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