猫は無慈悲な夢の月姫

snowdrop

Prologue:反復夢

Recollection

https://kakuyomu.jp/works/16816452220702201526/episodes/16816700426220172181


「一番はじめにみた夢だけを、おぼえてるかな」


 あの日、彼がつぶやいた。

 それはどういう意味なのかと問いかけると、

「おぼえている夢は、遠く懐かしい記憶みたいだね」

 彼は笑って顔を上げた。

 空が少しずつ赤っぽく染まり、色づいた細長い雲が風に流れている。


「いま時分、なんていうか知ってる?」


 夕方、と答えると「違う」と笑われる。

 だったらわからない、と口にして彼の答えを待った。

 そんなことも知らないの、とでもぼやきそうなあきれ顔の彼。

 でもすぐに笑みを浮かべて、

「逢魔が時」

 と答えた。


「夕暮れのちょっと不思議な時間、現実世界に不思議な世界の扉が開く時間。この時間を迎えると、呼ばれる声が聞こえる。ここに来れば、しあわせになれるって」


 忘れたの? といぶかしげな顔を彼はみせる。

 忘れてないよと答えながら、思い出せなかった。


「思い出せないことは信じられないし、忘れたのなら認めたくない事実だってこと」


 現実を拒否し続けると、人と関わりを持とうとしなくなる。

 人の性格や個性は記憶の積み重ねで作られるものだ。


「ゆるやかに吹く風とともに穏やかな時間が流れて、果てなくすぎる場所ではどんな夢もかなうから。早くここに来いって」

「それって、ヤバくない? 即行、あの世行きみたい」

「どうかな。ここにいても、ちっともしあわせじゃない。しあわせになりたいから、ぼくは行こうと思う」


 不可解な言動はトラウマに由来する。カードの裏表のように、トラウマとは適応する心の働きが一つに合わさった関係だ。普通は学習していくことで回避することをおぼえ、適応していく。けど適応する力が乏しいと、トラウマを抱えがちになる。そういう人はたくさんいる。彼だけではない。

 ただ少し、不安になる。

 会えない人に会いたい気持ちは、胸のうちに秘めていてもいい。けれど、会うことなどできない。この世の扉をくぐり、死への旅立ちをしなくてはいけないから。

 とくに男は、空想世界を求めたがる。現実の生活に関係ないことを信じてしまう。UFOとか超能力とか、超常現象を信じようとするのはどうしてだろう。体験から一つだけ学び、決めつけてしまうからなのか。あるいは、体験していないことへの想像力が働かないせいなのか。


「しあわせは、死者の世界にはない」


 わたしは強くいった。

 それなのに彼は聞き入れず、しずかに笑う。


「入り口には迷路の文様が書かれているんだ。それこそ異界の扉の証。ぼくは、その扉をくぐってみたい」


 目を輝かせて語る彼が怖かった。

 彼が目の前からいなくなってしまう。そんな気持ちが、胸の下で重たくたまっていく。同時に、そんな彼を助ける術を自分は持ち合わせていないという無力感。思いとどまらせることはできないのだろうか。


 幸い、彼を止める言葉を口にできた。

 その声は誰かに甘えたい気持ちが作り出した幻だよ、といえる。

 死の答えは一つしかないけど生の答えは無限にある、といえる。

 君の夢をかなえることができるのはあなた自身だけ、といえる。

 しあわせはここではないどこかにあるものではない、といえる。

 けれど、口から出た言葉はそのどれでもなかった。


「わたしと一緒だと、しあわせじゃないの?」


 自分でもおどろいた。でもすぐに、これが本当の気持ちなのだと納得した。いつも胸の奥にしまったまま、隠していた自分がいま姿を現した。不安の正体は、本当の気持ちを隠していられないと気づいたからだ。


 彼の答えを待った。

 彼は黙ったまま伏せがちにこちらをみて、「わからない」と答えた。


 男の子は面倒だな、と開いた口から息が漏れる。こういうとき鈍感なのが男だ。きっと男の立場だと、こんなときにそんなことを聞くなと機嫌を悪くするだろう。けど女はこういうときだからこそ聞きたい。どうしてかと問われたら、迷わずこう答えるだろう――わたしは女だから。


「キョウは……しあわせなの?」


 彼の問いかけに答えようとして、――わたしは目を閉じた。

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