第2話 与作と忍者達との出合い

 狼犬鉄との出合い

 与作は何時もの様に奉公先の浅田屋に、夜も明けきらぬうちから間道を駆け抜け、鳥のさえずりを聞きながら、心地よく三次の町を目指していた。ここ十日程前より、街道筋から通うのを辞めて、一里も近い奥屋の山の中にある炭焼き小屋を住まいとしている。

 段々と此の道を通うのにも慣れて来た。然し、日中、此の道を利用する人は殆ど無い。与作が歩く様になるまでは、自分の持ち山が有る地主が、時たま木こりに来る程度で全く獣道であった。

 其れと、比叡尾山城と志和地八幡山城とを結ぶ最短距離になり、街道筋が万一の事を考えて秘密裡ほどではないが、一応は藩の戦略道としておかれていたのだ。  

 毎日、細い道に草木や笹が覆い被さっているのを、鎌を持って一寸づつ刈り払いながら通い、がたがた道の場所には鍬を置いておき、帰りがけに、その都度削り直していた。そのお陰で見違える様に綺麗な道になり走り易くなってきた。

 今朝も薄暗い夜明け前に、小屋から出て間もなくの処で、二、三日前に刈り払った先の笹薮の中で、かすかに小さくクンクン鳴く何かを感じたが、さして気にもせず通り過ぎて行った。

 今日も、何時もと変わらず浅田屋での丁稚奉公が始まった。

 店の前で、箒を持ち軽く体操をしながら独り言を呟いている。

「然し、ええなぁ、一里も近いとこんなに楽だとは。親父もええ事に気付いてくれて、ほんま有り難いわ」

 この当時、四方八方から片道一里半を歩いて、三次の町に仕事に通う人は幾らでもいたからだ。

 当然、田舎暮らしの人達にとっては百姓仕事以外に所得を得る方法が無い。手に職を持つ大工や左官であればまだいいほうだ。だが、一所帯に多くの家族であれば生活に難渋することになる。その為に与作の様に、何の職業でもよく出稼ぎに三次の町へ通う事となるのだ。

 そもそも三次という町の名の由来であるが、住んでいる住人さえも、はっきりとは分からなかった。何故、此の字を「みよし」と読むのか。

 次とは元来、東海道五拾三次と言われる様に宿場町の宿を意味していた。また、高い中国山脈の奥深くの山の麓へ、四方から流れ込む河川が合流する変わった地形をしている。其の盆地の上に三次の町が有り、陰陽交通の要衝の地で有る。

 川が巴の様に流れ込み、其れが一本になり江の川となって日本海に流れて行く。

 其の様が清き「水良し」と言われ、何時の間にか「みよし」になったとか諸説有 ったが定かではない。

 とに角、その時代時代ごとに人々はこの呼称の云われをこじ付けて言い合っていた。其れ程迄に三次(みよし)の名の謂れが古かったのである。

 三次の側には八次という地名が有り此れは(やつぎ)と読む。因みに出雲國には「木次」がある。此れは(きすき)本当に地名はややこしい。

 今朝方、何かの動物の鳴き声がした場所迄に仕事を終えて帰って来た時、又、小さな声がした。はてなんだろう、と立ち止まり辺りを見回してもよく分からない。与作は、どうも気になり、低い草木の中に一歩踏み込んで探してみた。

 すると、小さな子犬がいるではないか。辺りに親犬がいるのではと目を凝らし、暫くその場に立ちつくし、様子を窺っていた。

 だがどうも一匹だけ置いて逃げられた様だ。底冷えのする寒空の下、小さく震えており腹も空いているのか、目が半開きでよく耐えられたものだ、死ぬる一歩手前であった。

 与作は抱き上げて、懐に入れて温めてやりながら、暫くその場で頭を撫でながら様子を見ていた。他にも親兄弟が居ないかと思ったからである。

 然し、いくら耳を澄ませども山中に何の気配も感じられない。よしゃ、其れならワシが面倒を見てやるかと心に決めた。

「よしよし、寒かったじゃろう。これからはワシが世話をしちゃるからな、一緒に暮そう」

 何とか、生かしてやりたいと真剣に考えていた。

 幸いにも我が家はすぐ其処で、暖かくし、お粥も食わせてやる事が出来るのだ。

 考えてみれば、犬が居た此処の場所は二、三日前に草木を刈っている。

 何せ今迄は獣道で有った。其れを自分が歩き易いように刈り取った為に、住みかを奪われた母犬が、他の子犬の兄弟を連れて逃げたのではないかと思われた。

「悪い事をしたな鉄ちゃん。ごめんよ、これからワシが親代わりでずっと一緒だぞ」

 与作は、いきなりその場で鉄の名前が出て来た。子供の頃、父親が小さな野良犬を拾って来て飼っていたのが鉄と云う名だったのだ。

 小屋に帰り着くと、浅田屋の女中さんから貰って来た、むすびを柔らかくする為、鍋に水を加えて煮込んでお粥を作っていた。其の間に薪を囲炉裏に焚べて部屋を暖かくしてやっている。

 すると気持ちがいいので有ろうか、段々と生気を取り戻して来た。頭を優しく撫でてやるとクンクン鳴きだし、大きくて可愛い目を見開いたではないか。

「オゥ、鉄ちゃん、腹が減っとったんか今お粥をやるからな」

 与作はフウフウ息を掛けながら少しづつ口の中に入れてやると、あっという間に飲み込んだ。母犬の乳のつもりで有ろう。

 クンクン鳴きながら美味しそう食べている。

「旨いか、もっとお食べ」

 そしてすぐに、むすび一個分を平らげてしまった。

「鉄ちゃん、凄いな。よしよし此れで元気になれるぞ」

「クンクン」と首を振りながら鳴くのだが、見つけて来た時とは全然、覇気が違ってきた。

「今夜から一緒に寝てやるからな」

「おっと、ワシが飯を食うのを忘れるとこじゃった」

 其の間、鉄は囲炉裏の側で気持ち良さそうに横になって、もごもご体を動かしているではないか。

 食事を済ませ、後片付けをしてから、何時もの様にお経を唱え写経をしていると、膝の上に上がり嬉しそうな顔をしている。其れが終わり床に付くと、安心したのか与作の懐の中であっという間に眠りに着いている。

 何という可愛い寝顔で有ろうか。

 今夜は鉄が家族となった初めての記念すべき日で、与作は中々寝付かれなかった。昔、飼っていた鉄と姿、形はまるで違っているが、何か生まれ変わってこの世に現れた様で懐かしさが込み上げてきた。

 一寝入りするとやがて夜が明けてきた。寝不足ながら何処と無く爽やかであった。懐を見るとまだ眠っているではないか。

 だが何時もの様に浅田屋へ通わなければならない。

 今朝も昨夜と同様に、お粥を作り多めに皿に盛って水を側に置いといてやった。

 囲炉裏には炭を焚べて、一日中温ったかくなる様にしておいた。

「鉄ちゃん、行ってくるからな、寂しいだろうが待っとれよ」

 と声を掛けて与作は出て行った。

 今日は山道を駆けて行くのが嬉しくて堪らない。鉄と云う家族が増え仕事をするのにも張りが出て来たからだ。

「よしゃ、今日も頑張るぞ!」

 店に到着すると早速、ちりとりと箒を持ち出し店先から掃除を始め出した。

 すると毎朝の様に隣近所の丁稚仲間が集まってくる。

「与作どんは毎朝早いけど遠くから通うとるんじゃろう。志和地からか、寝る間がなかろうがや」

「うん、言われりゃそうじゃけどさして気にしとらんよ」

「十日毎に非番が有るから楽をさしてもろうとるよ」

「なに!与作どんは丁稚じゃないんか」

「おう、丁稚も丁稚、一番下じゃ」

「然し、なんでじゃ。ワシ等みてみ、年から年中休み無しで」

「そういゃ、与作どんは丁稚の割にゃ年を食っとるもんな」

 今朝も子供みたいな丁稚等が、自分の奉公先の待遇に愚痴をこぼし、主人の悪口を互いに言い合っている。

「オイオイ、大声で言ようると店に聞こえるで」

「どうちゅう事たぁ有りゃせんよ」

 そうしているところへ浅田屋の主人が定時の様に玄関の戸を開け出した。すると、蜘蛛の子を散らすが如く各店に駆けりこんだ。

 物言わぬ主人に挨拶を済ますと、其れから通いの奉公人達が続々と出勤しだした。

「おう、与作!お前ぇ何を力んどるんじゃ。今日はまともにやれえよ」

「すみません。何時もドジで」

「分かっとるなら、しっかりせえ」

 自分より直ぐ上の手代に怒られれば世話はない。

 何せ与作は一番下っ端なのだから。まぁ怒られ役に徹するか。

 でも一日中、何度も怒られ乍らも嬉しくて仕方なかった。

 何時も、帰りがけにむすびやおかずを包んでくれる女中さんが

「与作さん、今日はえらいご機嫌じゃね。何かあったんね」

「へへへ」

「ご主人さんに褒められたんね。そうでしょう」

「其れじゃ、おかずをもうちょい増やしとくね」

「有難うございます」

 与作は益々嬉しくなつた。

 今日はちっとは美味しい物を鉄に食べさせてやれると、何時もの道筋を全速力で小屋目指して駆けて行った。

「鉄ちゃん、ただいま!」

 と声を掛けると今迄、寝ていたのか声を聞いてヨチヨチ歩きながら玄関の戸の前に来た。そして尻尾を振り振り手や顔を舐めてくる。

「鉄ちゃん、帰って来たよ。寂しかったか、今晩も温ったかい飯を作ってやるからな」

 炊事をしている間も足元にまとわりついて離れない。 

 小さい割には意外に力が有り、鉄の足を見ていると子犬なのに異様に足が大きいのだ。はてさて、こいつは何犬かなという事が頭をもたげて来た。

 唯の雑種の野良犬では無さそうだ。耳は大きく立ち尻尾は太く長い。日に日に成長するに従い顔立ちに精悍さが増してくる。

 それにしても可愛いい。与作を母親の様に思っているのか、優しさと温もりを感じ必ず膝の上や懐の中に入って来るのだ。

 其れを何日か繰り返すうちに、与作が帰り着くと本当に嬉しそうに鉄が迎えてくれる様になり、そして足腰がしっかりしだすと行動範囲が広がってきだした。

 帰るとすぐに外へ飛び出して、其処ら中を走り回っている。そして、しっこもうんちも外でする様になり、躾けをする迄もなかった。

 今朝も出掛けに与作の裾を噛んで離さない。一日中、自分だけで留守番をするのが寂しく辛いのだ。

「ごめんな、鉄ちゃん、お前を店に連れて行く事が出来んからな。我慢してうちを守っとってくれるか」

 と頭を何度も撫でながら言い聞かせていた。出掛けに別れる時の鉄の顔を見ると、悲しそうで辛かったがどうしようもない。

 時には履いて出掛ける草鞋を隠す事もあった。

「コラッ、鉄、何処へやった。持って来い」

 と怒られると、しょんぼりしながら外から咥えて帰って来る。メソメソ小声で鳴きながら小屋の中に入って行くのだ。

「でも本当に可愛いい奴だなぁ」

 与作は、間道を何時もの様に走りながら鉄の事で頭が一杯であった。店に連れて行く訳には行かないし、さりとて、小屋に繋いでおくのも可哀想だ。それか、もう一匹飼ってやり、寂しさを紛らわせてやるか。其れに鉄は段々と大きくなるにつれて狼犬の様相を呈して来たのだ。生まれながらの習性からしたら、群れをなし連れの仲間がいなければならないのか。とに角、何とかしなければと先行きの事を考えていた。

 何時もの様に店に朝一番に顔を出し、店頭から前の道を箒を持って掃除を始め出した。

「お早うございます」

 店の前に主人が出て来て玄関戸を開け出した。此れが毎朝始める主人の役目である。

 相変わらず、何の返答も無い。

 与作はよくもまあ、此れで商売が出来るもんだと変な感心をしていた。

「まぁ、しょうがないか、こっちは 最低の丁稚だし、庄屋の山田屋さんが決めてくれた与作の採用条件が気にくわないので有ろうからなぁ」

 何やかが有った浅田屋での仕事を終えると、

「鉄が待っとるぞ、早よ帰ろう」

 と口ずさみ乍ら炭焼き小屋に一目散に駆けていた。今では、少々離れていても与作の足音と臭いにすぐ反応するのだ。

 玄関先に近づくと、何時もならキャンキャン鳴くのだが今日はしない。

「あれ、おかしいな」

 しかも戸が半分開いている。今頃は鉄も賢くなって、自分で口を使って開け閉めをする様になっており、変だなぁと思いながら

「鉄ちゃん、ただ今、帰ったよ」

 と声を掛けてみた。然し、何の反応も無い。

「あれ、どしたんかいな、何処へ行ったのかなぁ」

 と鉄が何時も座っていた座布団を触っると冷たいでは無いか。

「こりゃ大変じゃ!」

 水の流れる沢に下りて見たがやはり居ない。辺り一面を「鉄!鉄!」と大声で叫びながら山々に木霊して相当遠く迄声が達している筈だ。辺りにいれば反応があってもよさそうなものだ。

 与作は、其れこそ一晩中、捜し回ったが何処にも居ない。泣きながら山中を当てもなく彷徨った。

「鉄、どうした、何処へ行ったんじゃ。ワシを置いて逃げるんか」

 とうとう一睡もする事も無く、外で夜を明かしてしまった。

 然し、どんな事が有っても勤めを休む事は出来ない。

 与作は、朝飯も食べず着の身着のままで駆け出した。涙が止まらない。

 まだ小さいから他の動物にやられたか、沢から転げ落ちて死んだか、とに角、いろんな事が頭の中を駆け巡った。

 そんな状態で仕事に臨んでいい訳が無い。

「与作!ワレ何をボケッとしとるんじゃ、梱包物が違うとろうが。はよう字が読める様に勉強せんかい。性根を入れてやれ!」

「すみません」

 その日、丁稚としての仕事はドジの踏みどうしで有った。本当は読めない字など有りもしないのだが、全く集中力を欠いていた。

 何はともあれ寂しいのだ。

 今日も仕事を終えて暗い間道を帰る道すがら、与作は鉄の事で頭が一杯で有った。

 町を出てから山道に差し掛かって来ると、いきなり『鉄!鉄!」と叫び出していた。

 朝出掛ける時にすぐ後を追って来て、道に迷ってはぐれてしまったのではと、四方八方に声を掛けながら山道を走って帰っていた。

 やはり小屋に辿り着いても一切応答が無い。

「鉄ちゃん、どしたんや。何でおらん様になったんや」

 小屋の中に入ってもシィーンとしている。与作はウヮン、ウヮン泣きながら小屋の外に出て、沢に降りてみた。冷たい水の中に素足で入り、溺れて流され引っ掛かってはいないかと捜したが、やはり何処にも居ない。

 其れこそ毎日毎日、もう捜す処が無い程に声を出して泣きながら歩き回った。

 小屋に帰って、何時もやっている写経にしても、棒振りにしても、全く身が入らずやる気も起きない。

 とに角、鉄が無事に帰って来ます様にと必死にお経をを唱えていた。

 一、二ヶ月経った、たまの休みの日には、実家に帰って百姓仕事の手伝いをする事もあったが、家族には犬を飼っているとか、鉄が行方不明とか一切知らせなかった。

 だが仲のいいハナにだけはこの事を伝えていた。

 与作が町から買ってきた大好きな饅頭を食べながら、写経をしているか、算盤はどうじゃとか話は尽きなかった。

「お兄ちゃんのお陰で、今は庄屋さんや村から計算事は任されて給金を貰っているよ」

 と嬉しそうに喋っている。

「ほうか、其れは良かったな」

「上手い事やっとるか。仕事の量もぎょうさん有ろうが」

「うん、結構疲れるよ。でも、奥様が優しくて助けてくれるよ」

「そんな時はな、絶対に暗算だけに頼るなよ。基本はやはり算盤じゃからな」

「浅田屋の主人もな、一日中に相当伝票に目を通して算盤を弾いておられるよ。ワシから見たら鈍臭いようなが正確じゃで」

「分かったよ。間違えん様に絶対頑張るから」

「でもね、兄ちゃん、鉄ちゃんが心配じゃね」

「そうよ、ワシも寂しゅうてやれんのじゃ」

「大丈夫だよ、絶対に帰って来るよ。鉄ちゃんは狼犬ゆうたよね」

「おお、そうじゃ」

「其れじゃったら、いっとき狼の習性が出たか、親、兄弟が連れ去ったか、何れにしても兄ちゃんの愛情には勝てんよ。絶対にひょっこり現れるよ」

「有難う、有難う。待っとるよ」

 与作は帰りがけに、おいこ一杯の稲藁を背負いながら山道を駆け上がって行った。此れは帰宅し夜なべに縄をなったり、浅田屋の皆んなや、お客様の為に使ってもらう草鞋を作る為の物であった。毎度の事ながら無料奉仕である。

 毎日毎日探し続けそんな生活が何ヶ月も続いたが、何時迄も引っ張り続ける訳にもいかない。

 忘れ様、忘れ様と涙をこらえながら努力し、やがて半年近くが経とうとしていた。

 何時もの様に浅田屋からの帰り、風呂敷包みを小脇に抱えながら家路に急いで駆けていた。今日は、店の創業記念日のおめでたが有り、祝い膳を頂戴したので持ち帰っていたのだ。

 峠を越えて間もなくで小屋に到着する辺りでの事である、今夜は曇り空で月明かりも無く真っ暗闇で有った。

 だが夜道に走り慣れている与作にとって、差して関係は無く提灯など要らなかった。

 処が与作は前方に何かしら気配を感じた。

 突然、十間ぐらい先に目の光る何かがこちらを見ているではないか。

 与作は一瞬ギョッとし立ち止まった。

 さては、重箱を包んだ風呂敷の中の臭いに反応して襲って来るかと、身構えながら睨み有っていた。

 其れもかなりでかい。猪か月の輪熊、或いは狼か。此れは本気で防御しなければと与作は、咄嗟に相手目掛けて包みを放り投げた。

 普通、大抵の動物ならば、此れで尻尾を巻いて逃げるものなのだが此奴は違った。

 その瞬間だ!急に突っ込んで来た。

「オウ~、来やがったな!」

 通常、獲物を襲う時は地を這うように迫って来る。 だが、こいつは凄い突進の仕方だが何故か跳ねている様に感じられるではないか。

 瞬間、与作には分かった。

 仔犬の時とはまるで、姿、形は違っていたが、走り寄り出した時に互いの心が一気に通じたのだ。

「鉄!鉄!」

「ウオーン、ウオ〜ン!」

 と一目散に駆け寄るや、いきなり飛び付いて来た。図体が大きくて暗闇で尻もちをつかされた。

 紛れも無く鉄なのだ。ひっくり返った与作の顔を舐めまくり、尻尾をちぎれんばかりに振っている。

「どうした、鉄ちゃん、何処へ行っとったんじゃ!」

「ウヮ〜ン、ウワ〜ン」

 お互いがグチャグチャに泣き合いながら、二本足で立ち上がり抱き付いてきた。

 子犬の時の様に優しく甘えん坊はそのままなのだ。

 与作の周りを何度も走りながら大喜びをしている。

「鉄ちゃん、ワシを外で待っとったんか。何で小屋に入っとらんかったんじゃ」

「さあ、鉄ちゃんうちへ入ろう」

 木戸を開けてやると小屋の中に飛び込んで来た。囲炉裏の周りを走り回っては、クンクン臭いを嗅いでいる。余程、懐かしいので有ろうか。

 鉄が居なくなってからも何時帰ってもいい様に、座布団は同じ場所にそのまま置いて有る。何度も表、裏にひっくり返しながら鉄は其の上に座ると、炊事の用意をしている与作が

「やっぱりハナちゃんが言うた通りじゃったな。有難う、有難う」

 と言う其の後ろ姿を嬉しそうに見つめている。

 与作は、嬉しくて帰って来た祝いに美味しい物と思ったがあいにくと何もない。今朝、出掛けの時少し残していた焼き魚と漬け物しかない。

「鉄ちゃん、出来たぞ、でもええ物が無くてごめんな」

 鉄が今迄に食べていた茶碗に盛って冷や飯を出してやると、お粗末な物にも関わらずペロリと平らげてしまった。鉄にとっては嬉しい嬉しい何よりのご馳走だったのだ。

「おう、鉄ちゃん。ワシは興奮して忘れとったよ、さっき投げ付けた風呂敷包の物を」

 と言いながら身振りで示すと、鉄は一気に外に飛び出すと、即ぐに口に咥えて持って帰って来た。

「やっぱり、鉄ちゃんは頭ええなぁ」

 鉄は、早速、褒められ頭を撫でられて嬉しくて堪らない。

「よかったよ、さあ、鉄ちゃん。祝い飯をお食べ」

「もう何処へも行くなよ、一緒に暮らそう」

「ウ〜ワン、ワン」

 半年前にどうして突然、出て行き、又、急に帰って来たのか与作には全く分からなかった。鉄の親兄弟達が連れ戻しに来たのか、其れから群れの習性に馴染めず、与作の優しさが忘れられずに再度、戻って来たのか頭の中で葛藤していた。何れにしても鉄本人しか分からない事で有った。

 今夜も以前の様に懐に入って寝ようとしたが、大きくなり過ぎて並んで横になった。何処までも甘えている。本当に可愛い鉄なのだ。

 与作が翌朝、昨夜のご馳走の残り物を鉄と分けて食べてから、出発の準備をしていると鉄は外で待っていた。一緒に行くつもりの様だ。

 子犬の時、与作が出掛けている間、余程、辛く寂しい思いをしたので有ろう。

 案の定、思った様に与作が走り出すとすぐに横に付いた。

 並んで走っている間、さあ、此れからどうするかだと思案しながら思い悩んでいた。

 道中に繋いでおくか、其れとも無理を承知で主人に頼んで見るか、色々考えてもいい方法が浮かばない。

 一緒に走るのは嬉しいのだが足取りは重かった。

 間も無くで人家が見える辺りに来た時である。

 処が、三次の町に入る手前の山中で、鉄は歩を止めた。其れ以上は行こうとしないのだ。

「鉄ちゃん、分かってくれるか」

 そして、そこに座り込んだ。鉄の目を見つめると

「オトウサン、イッテラッシャイ」

 と言っている様なのだ。

 此れも狼犬の習性で有ろう。人家に近かずこうとしないのだ。

「よし、此れなら絶対に逃げる事が無く、待っているで有ろう。繋いで置く必要はないな」

 と確信したので有る。

「鉄ちゃん行って来るからな。帰って来るまで待っとってくれるか」

 だが与作はその日、朝から夕方迄仕事をしながら常に鉄の事を考えていた。一時、立ち寄っただけで、又、姿を消すのではないかと不安に駆られていた。

 何せ、空白の間が半年近くもあるのだから予測もつかなかった。

 だが、与作が仕事を終え暗くなって帰って来た頃、朝、別れた辺りに来ると、クンクンと声を出しながら笹薮の中から足元に寄って来た。

「鉄ちゃん!ただいま。やっぱり待っていてくれたか」

「有難うな、一緒に帰ろう」

 と思わず抱きしめると顔を舐めてきた。

 そして頭を撫でてやると、嬉しそうに飛び跳ねて喜んでいるではないか。

 今朝方からの心配は、全く杞憂に終わってしまったので有る。

「よし!、鉄ちゃん、競争じゃ」

 そう言われた鉄の速いこと、速い事。あっと言う間に見えなくなった。

 然し、すぐに引き返して来る。

「鉄ちゃんにはかなわんわ。でも優しいな」

 暗い山道を鉄は与作にぴったりくっ付く様に駆けていく。

 其れからは何日間、幸いにも 晴れの天気が続いており、鉄の雨宿りの心配をする事も無かった。だが何とかしてやらねば、此れから毎日の道行きとなると必ず雨や雪に濡れて寒い日が来る。

 与作はそんな事を気にしながら、適当な場所がないかと辺りを見回しながら走っていた。

 そして三日目の朝の事だ。

 何時も毎朝、別れる場所の処で立ち止まり、与作の裾を噛んでこっちへ来いと引っ張るではないか。

「どした、鉄ちゃん」

 何事かと付いて行くと、間道を少し入った処に小さな洞穴が有るではないか。

 そして中に入ったのだ。

「おう、鉄ちゃん、ええ処を見付けたな。此処なら雪や雨にも濡れんし寒うないな」

「ワシも一寸、入らせてくれるか」

 と言って洞穴を覗いて見ると、入り口は低く屈んで入った。中に入ると与作が横になって寝られる程の広さが有る。其れに天井も高い、此れなら荷物が隠して置けそうだ。

「よしゃ、鉄ちゃん、帰りに毛布を持って来ちゃるからな」

 それにしても鉄は頭がいい。与作の思った事を事前に察知しているのだ。

 其れ以降は、此の洞穴を別荘と名付けて与作の荷物を置いていたり仮眠場所にしていた。無論、鉄の後からやって来た玉、ラー助にとっては何時でも休める別荘であった。

 一度だけ此の別荘が襲われ掛けた事がある。

 鉄、玉、ラー助が一緒に生活をする様になった時の事である。

 其れは天気のいい朝であった。今日は玉もご機嫌で全く気紛れな、猫独特の性格が出て与作に付いて来る気である。

 皆んなが一緒に、いっぺんに出掛けるなど珍しい事で、鉄も玉もラー助も大喜びをしている。間道を駆け抜け出すと、玉は早くも鉄の背中に乗って掴まっている。

 然し、鉄は嫌な顔一つしない。ラー助は上空を旋回しながら様子を見てくれている。やがて別荘に近づいて来ると、何時もの様に間道から少し入った方に玉は別れて歩いて行った。ラー助もそちらの方向に飛んでいる。

 其の時、鉄はまだ与作と並んで歩いていた。

 玉が別荘に近づいた時である。見ると野犬の群れがいるではないか。其れも中から毛布を引っ張り出し、食べ物を漁っているようだ。何時も魚の干物やむすび程度の物は置いてやっているのだ。

 其れを見て、玉は自分の身体が小さいのも考えず、近づいて威嚇している。気性が激しいのだ。

 然し、中型犬が三匹出て来ると玉は一瞬、ビビって後すざりをしだした。

 其れを上空から見ていたラー助は「此れは危ない」と察して鉄を呼びに飛び立つと

「ギャー、タマチャン!」と頭の上で叫んだ。

 鉄は、あっという間に駆けだした。

 洞穴の前で玉が睨み合っているではないか。其れを見ると

「ガォーン!」

 と大声で唸ったのである。

 三匹は鉄の大きな図体と迫力に圧倒され、尻尾を巻いて一目散に逃げて行った。

「鉄ちゃん、助かったよ、有難うさん」と急に怖さから解放され安堵感一杯でへなへなとその場にへたり込んでしまった。鉄は優しく側に寄り添い、玉の頭を舐めてやっている。

 後はラーちゃんと一緒になって大喜びして戯れあっている。

 其れからは、動物の本能で二度と此の別荘が襲われない様に、ぐるりと周りに臭い付けをし、其れ以降は再び襲われる事は無かった。でも此れはやはり鉄のお陰であった。

 与作は次の日に朝遅くまでぐっすり寝ていた。昨夜のうちに明日は休みと鉄に告げている。

 主人様が非番の日で有る事を知っており、与作が目覚めて飯の用意が出来るのを待って外で遊んでいる。

 何とか一緒に山の中に行きたくて堪らないのだ。

「鉄ちゃん、飯は道場の方で食べるか」

「ウォーン」

「ワシは久し振りに棒振りをするからな。其れから吹き矢を作るで、鉄ちゃんとは宝探しをやるか。今日も忙しいのう」

 山道を上がって行くと竹藪が有る。春先には筍を掘ったりして、何時も内緒で弁当を作ってくれる女中さん達に配っていた。今日は真竹を切って枯らし乾燥させておいたのを、適当な長さに切って吹き矢を作るのだ。

 其の前に、ほぼ毎日欠かさずにやっている、居合いと立ち回りの稽古を何時ものように繰り返している。

 特に居合いは集中的に打ち込んだ。立ち合い稽古はやろうにも何せ相手がいない。

 親からはきつく剣術は止められており、おっちゃんからの教えは受ける事は出来ない。せいぜい出来たのは吹き矢程度である。

 山の中の小さな広場に着くと、藁で作った人形らしき物や紐で吊るした棒切れを相手に見立てて、何度も何度も間合いや呼吸を計りながら打ち込みの練習をしていた。   

 やはり与作一人が鍛錬するには居合いが向いていたのかもしれない。

 時には瞑想する様に目を閉じ又、大きく眼を見開いての瞬間的な抜き打ち抜刀術だ。与作が何時も手にしているのは樫の棒の小刀だ。その点、武士が腰に差している大刀と比べ構えが自由なのだ。有りとあらゆる角度から居合い法を鍛錬していた。間合いの計り方などは、おっちゃんのを見よう見真似で頭の中に叩き込み、倍以上の棒振りを繰り返していた。

 一汗かくと今度は竹藪に入り吹き矢の製作だ。

 今迄に切って乾燥させておいた竹を、何十本も集めて短かく切り揃えだした。綺麗な飴色の様な色合いになっており、真ん丸な筒を確認するのだが此れが結構大変なのだ。

 其れに、与作は副業を兼ねて非番の日に竹笛も作っていた。子供が祭りの時に買ったり、大人達が鳥寄せに使ったりと色々用途が有り、町の問屋さんに納めていたのだ。

 与作の作る笛はお客さんに評判がよかった。筒の外側には藤の蔓を撚って巻き付けて有り、更に、竹の表面を囲炉裏で軽く焼いて装飾を施し、音色も非常に良くてかなり立派な物で有る。子供用には鳥の形の物を付けたりして人気が有った。

 与作が作った笛が売れるきっかけとなったのは、専正寺で年一、二度行われる模擬売店を檀家の皆さんが協力して出店するのだ。その時に与作も笛を並べて置いたので有る。大勢の村人達が楽しみに家族連れで出掛けて来て祭りみたいな催しであった。与作が作った物が程度が良くて安いときている。其れをたまたま三次の町の業者が見つけて以降、製作を依頼してきた。

 今日も、竹の長さ太さは大小様々で其れを丁寧に切り揃えていた。そうした作業中に何本か試し吹きで口に当てて吹いていた。

 細くて短かい竹を手にしながら音色を確かめて吹いていた時の事だ。

 与作が作業している間、鉄が何処かに遊びに行っており暫く周りに居なかった。

 処が、急に山の上からバタバタ足音を立てながら駆け下りて来たのだ。

 そして、目の前に座ってジロジロ見ている。此れには与作も何事か分からなかった。

「どした、鉄ちゃん」

 逆に鉄に聞きたかった。すると「呼んだよ」と云う顔をしている。

「あれぇ、もしや此れは」

 と疑問に思った。

 試し吹きをした時、何も音がしなかったが確かビィーンと手に響き渡る高音を発していた筈と。

 そこでう与作は鉄が見える範囲の近くにいるので再度おもいっきり吹いてみた。なんと耳がピンと立つではないか。この高音が鉄には聞き取れるのだ。

「ウ~ン、此れは何かに使えるぞ」

 以降、夫々に何度も距離を離れて吹く試験をしてみた。

 鉄を小屋の側にお座りをさせておき、与作が東西南北ありとあらゆる方向に駆けて行き、行った先で笛を吹くのである。すると小屋から全く見えない山、川、峠越えからでも反応し、更に距離を伸ばして、一里近く離れていても、笛の音が聞こえ駆け寄って来るのだ。何という聴覚で有ろう。

 こうした新発見により、鉄の為の犬笛が完成したのである。

 そして一度は、小屋がよく見える山のてっぺん辺りから吹いてみた。すると与作が歩いて上がった道筋を寸分違わず追いかけて来るのだ。

 物凄い聴覚と合わせ、狼犬の嗅覚による追跡能力に感嘆せざるを得なかった。

 又、徐々に笛の吹き方に寄り、

「待て!」は短く一回、「行け!」は二回等と何種類もの変化を付けて覚えさせ、鉄の反応を寄り一層進化させていったのである。

 其れからは、与作が仕事を終えて浅田屋から帰る時、洞穴に近づいた辺りで此の犬笛を吹くと、即ぐに足元に駆け付ける様になっていた。

 

 玉との出合い


 与作が浅田屋に仕事に出掛けている間、鉄が洞穴に昼間休んで、何処で何をしているのか全く分からなかった。ただ民家に近づいて農民や家畜に迷惑だけは掛けない様にと願っていた。その為に、空きっ腹にならない様に昼飯用におやつを持たせて別荘の中に入れていたのである。

 与作と鉄が一緒に通いだして何日かした時の事だ。

 一緒に帰る時、どこと無く様子がおかしいのだ。与作には何の事か分からなかったが、何故かソワソワしている。

 小屋に帰って来てからも与作が飯の支度をしている時、外の方に気が向いているのだ。

「鉄ちゃん、晩飯が出来たぞ。さあ食うぞ」

 何時もなら大喜びして飛び付くのだが今夜に限って少ししか食べていない。

「どした。鉄ちゃん具合でも悪いんか」

 聞かれても何処となくうわの空だ。与作が食べ終わっても殆ど口にしないのだ。

 其れどころか、しょっちゅう外を気にしている。そして一度ならず二度迄も出て行くではないか。

「鉄ちゃん、腹具合でも悪いか、薬でもやろうか」

 と聞いてみても返事がない。

 だが与作が見ても、どうにも不具合とは思えない。

 与作は寝るにはまだ早く、藁で草履を作っていた。浅田屋で皆んなに使ってもらったり、遠来のお客様の為に、軒下にぶら下げて何時も無料で提供していたのだ。縄をなっている時、 三度目も与作の仕事をチラチラ横目で見ながら出て行った。

「鉄ちゃん、どうしたんかいな。やっぱり具合がようないんかのう」

 どうにも心配になり鉄が出た後をこっそり付けてみた。

 真っ暗闇の中、近くにある横穴の古い炭焼き窯が有りその中に入って行くではないか。奥が深くて雨露をしのげて暖かい。

 其の中で「ニャァ、ニャァ」鳴く声が聞こえるではないか。

 釜の縁からこっそりと覗いて見た。

 敷き藁の上に産まれてまだそう日が経っていない真っ黒い猫らしきものがいる。其れを鉄が舐めているのだ。

 洞穴の近くの山の中に、村人の誰かが子猫を捨てに来たのだろうか。

 心優しい鉄が其れを見付け、わざわざ咥えて遠い道のりを窯の中に連れて来たので有ろう。

 ご丁寧にも、子猫のそばに置いて有った、竹の皮に包んだむすびまでも持って帰って来ている。だが子猫にとってはとても食べる訳にはいかなかった。米粒ではなくて硬い麦飯なのだ。

「鉄ちゃん、どしたんじゃ、其の猫は」

 びっくりした鉄は慌てて子猫を隠す様に覆い被さった。

「鉄ちゃん、怒っとるじゃないよ心配すな、大丈夫だよ」

 と優しく声を掛けると

 いっぺんに鉄に安堵の表情が浮んだのだ。

「鉄ちゃん、小屋へ連れて入っちゃれ、一緒に面倒見ちゃるよ」

 すると鉄は嬉しそうに子猫を咥えて与作の後を付いて来る。

 囲炉裏の側で見ると、産まれてまだそう日も経っていない様だ。可愛い瞳をして与作をじっと見つめている。

「可愛い顔をしとるなぁ」

 鉄も嬉しそうにペロペロ舐めてやっている。

「それにしてもまだこまいな、鉄ちゃん。麦飯のむすびはまだ食えんぞ」

「此れならまだ柔らかいお粥にしてやらんといけんなぁ」

 と呟き、米粒をしゃもじで潰しながら煮込んでやった。

 暫く冷ましてから少しづつやると、チュウチュウ音を立てて食べるではないか。

「鉄ちゃん、お前の時と同じ様によく食べるぞ。よかったな」

「それにしてもおまえは優しいのう」

 鉄は余程嬉しかったので有ろう「オトウサン、アリガトウ」という表情をして何度も何度もお手をするではないか。

「分かったよ。鉄ちゃん、さあお食べ」

 そして自分の食べ残しの飯をペロリと平らげてしまった。

「鉄ちゃん今夜はお前が抱いて寝てやれよ」

 当然だよ、と云う顔をしながら、懐に抱え込むと仔猫はスヤスヤと寝込んでしまった。

 翌朝、早くに起きて炊事をし飯を済ませると鉄に言い聞かせた。

「鉄ちゃん、暫くは付いて来んでもええから、猫の面倒を見てやれよ。飯だけはちゃんと作くちゃっとくからな」

 鉄は嬉しそうに戸の外迄見送りに出て来た。

「行って来るからな、宜しく頼むよ」

 今日も天気は良さそうだ。朝から与作は気分か爽快で有った。

 鉄の為に、寂しくない様に何か犬か猫を飼ってやらなければと思っていた。そんな処に連れて帰って来たので、こちらも嬉しかったのだ。其れに

「子猫に名前をつけにゃいけんのう。何にするかな」

 間道をキョロキョロしながら足速に駆けて行きながら

「やっぱり、玉にするか。何処にでもおって平凡じゃが此れがいい、今日から玉じゃ」

 嬉しくて山中に響き渡る程の大声を発しながら

「よし、今日から皆んなの為に頑張るぞ!」

 与作も家族が増えて一段と張りが出て来た。浅田屋に丁稚奉公に入ってまだ一年にはなってはいなかったが、吸収は猛烈に早かった。

 入店する時に、庄屋さんが与作は無学文盲だと嘘をついて採用されたが、実際は読めない字は殆ど無く書く字にしても解からない文字は無かった。

 今更、其れを自慢しても詮無いことであり、ミミズ文字の書体で押し通していた。薬の効能書きも使用済みで捨ててあるのは拾って持ち帰り、集めて常に何度も読み直し勉強していた。其れに浅田屋で失敗して使い古した紙も写経用に貰って帰っていた。

 其れから三日して非番の日がやって来た。

「鉄ちゃん、今日はお休みじゃ、もう時期が遅いかも知れんが松茸でも採りに行って見るか」

 鉄は、行くという言葉を聞くとすぐに大喜びで反応して来る。

「イコイコ」と戸をガリガリやりだした

 玉はまだ小さいし其れに今は寝ている。

「弁当を作って有るから山で食べるぞ」

 早速、柳行李を風呂敷に包んで、鉄の背中に括り付けると頂上目指して走り出した。

 与作は山道を走るのが早いのだが、とてもじゃないが鉄の速さには到底かなわない。走っては止まり、走っては止まるを繰り返す。本当に優しいのだ。

「鉄ちゃん、一寸、待ってくれ息が切れるわ」

 すると、側に寄り添ってくれる。

 此処は自分の家の持ち山で子供の頃から親兄弟で競ってキノコ狩りをしていたのだ。だから松茸の生えるシロという場所を覚えている。

「鉄ちゃん此処らから上へ上がって行くぞ」

 早速始め出した。流石に小祭りと云われるこの時期になると、寒さも増してもう駄目かなと思いながら探していた。

 そろりそろりと辺りを掻き回さない様、腰を屈めて下から覗き込む様に見ながら探していくのだ。すると目の前に傘の開いた大きな松茸が有るではないか。

「おう、鉄ちゃん有ったぞ」

 旬の時期であれば、一本有ると大体続いて何本も生えているものだが、誰かの採り残したもので有ろうか。

 すると鉄が近付いて来て臭いを嗅ぎだした。自分も探すつもりなのだ。

 与作も「まあいいか、好きな様にせい」ぐらいのつもりでいた。

 上の離れた場所に駆けて行くとガサゴソ音がする。其れも素早く何箇所でもだ。

 其のうちに松茸を咥えて来た。

「鉄ちゃんもう見つけたか。えらい早いのう」

 ポトリと落としてから又、駆け出した。そして与作の見える処で又やり出したのだ。

 其れも、四本足で地面を引っ掻き回し出したのだ。其れを見た与作は、たまげまくり

「鉄ちゃん、やめえや!駄目!駄目!」

 鉄は驚いて与作の元に駆け寄った。

「あんまり、無茶苦茶するとシロが駄目になるじゃないか、来年、松茸が採れんようになるんだぞ」

 叱られた鉄はしょんぼりしている。そして道の有る処に出て行き、そして其処に座って暫く待っていた。

 多くは無かったがシメジ、クロッコウと傘の開いた松茸が十本採る事が出来た。

「鉄ちゃん、怒ってごめんな。此れから昼飯を食べような」

 途端に与作の声を聞いて大喜びをしている。

「まぁええか、少ないが今年最後の収穫じゃ。女中さんに持って行こう」

 そしてすぐ近くの空き地の芝草の上で弁当を広げて食べだした。鉄は与作と一緒に居られるのが嬉しくて嬉しくて堪らないのだ。

「玉ちゃんは今日はまだ無理じゃたが、今度の休みぐらいから連れて来れるかな」

 此れも与作が言った言葉を有る程度理解出来た。何時も寝食を共にしていると、あっという間に互いが以心伝心理解し得るのだ。

「鉄ちゃん、飯を食うたら眠とうなったな、天気もえ えし一寝入りするか」

 と其の場に横になり昼寝をしだした。鉄は図体が大きくなったにも拘らず、相変わらず甘えて与作の懐にくっ付く様にして寝ている。小春日和のポカポカ陽気で気持ちよく寝ていた。

 どれくらい経ったであろうか。

 与作は足の向う脛を毛虫か何かにチクリと刺された様だ。

「痛た!」

 此れに目を覚まされた。

「オイ!鉄ちゃん起きいや。玉ちゃんが待っとるで」

 ガバッと起きると鉄も同時に立ち上がった。

「鉄ちゃん、玉が誰もおらんと捜すで、早う帰ろうか」

 急ぎ松茸を採ったビクを背負いながら、急な坂道を競争する様に駆け下り出した。

 そして小屋が目の前に近付いた時に与作はハッと思い出した。

「鉄ちゃん!」

 と言った途端、鉄は、もと来た急な坂道を駆け上がり出した。

 すると間も無くして風呂敷包みを咥えて下りて来た。

「ごめんなさい」と申し訳け無さそうな顔をしている。

 行く時に鉄が背負っていたので自分が悪いと気付いたので有る。

「鉄ちゃんが悪いんじゃないよ、ワシが気が付かんかったからな、ごめん、ごめん」

 と優しく頭を撫でてやった。

 与作が寝ぼけて居て忘れていたのだ。何処へ置いたか落としたか、全然、気が付かなかった。

 だが鉄は臭いだけで風呂敷包みを簡単に見つけ持って帰って来た。

 此の時に始めて、鉄にはあらゆる物に対して、嗅ぎ分け追跡する物凄い嗅覚が有る事に気付いたので有った。

 広い山中で、何処に有るか分からないのを捜すなど、人間には到底出来ない事である。

「鉄ちゃん、凄いな。何であんなに簡単に見つけて来れるんじゃ」

 そんなのは簡単よ、鼻がいいからだよ、と云う顔をして自分の鼻を近づけてクンクンしているではないか。

 其れ以降この習性を利用して、鉄と玉に宝探しと称して山中で遊びに興じていた。玉も嗅覚が優れており近場での遊びには負けないものが有った。

 小屋に帰り着くと玉は起きていて寂しかったのか「ニャァ、ニャーァ」鳴きながら、足にまとわり付いて来た。鉄も優しく舐めてやっている。玉の嬉しそうな顔、鉄は雄なのだがまるでお母さんの様だ。

「鉄ちゃん、もう暫く子守をしてやってくれるか」

 そうして十日ぐらい小屋で鉄が玉の面倒を見ていた。

 犬と猫の違った動物が、与作の留守の間、何をしているのかは分からなかったが、山中を駆け回りながら色々な事を教えていたのであろう。

 とに角、仲がいいのだ。

 そうした時、与作が仕事を終えて何時もの様に駆けて帰っていた。すると鉄が見つけた洞穴の近くの山道で待っているではないか。

「鉄ちゃんどしたんじゃ、玉は放ったらかして来たんか」

 すると裾を咥えて何時もの様に洞穴の方に来いと引っ張るではないか。

 そして中を覗いていると玉が飛び出して来た。「ニャーン、ニャーン」と鳴きながら与作に飛び付き懐に入った。

「びっくりした!玉ちゃんも来とったんか。どうして連れて来たんじゃ」

 玉はまだ小さく、長い道のりを歩き通せる訳がない。どうも背中に乗せて来た様だ。鉄は体毛がフサフサしており滑り落ちない様に玉の手で握っておられるのだろう。

 其れは帰りに見る事が出来た。

「よしゃ、今日から此処は別荘じゃ」

「 鉄ちゃん、よかったな。今度から寂しゅうないぞ」

 別荘の中で戯れあいながら非常に楽しくて堪らない。

「ボチボチ皆んなで一緒に帰ろうか」

 早速、玉は鉄の背中に飛び乗った。嬉しそうに「ニャーン」と鳴いている。

 鉄にとっては、玉の目方など物の数ではないわい、という表情だ。

 帰る道中も背中から降りて少し歩いたり、与作の懐に入ったりと全く自由気ままで有った。

 今夜も曇り空で真っ暗であったが此の一家にとっては一切関係なかった。皆んな夜目が効くのだ。

 与作は庄屋さんのお陰で恵まれていた。浅田屋の主人と掛け合ってくれて十日に一度の休みを貰っていてくれたからだ。本来ならば丁稚奉公の身で有ればこんな条件など有り得るはずが無いからだ。

 身体を動かす事が好きな与作は休日を目一杯活用していた。

 幸いにも百姓仕事は手伝わなくていいと父親が言ってくれていたからだ。

「おい、鉄ちゃん、今日は宝探しをするぞ。玉ちゃんにも教えてやってくれるか」

 与作は玉に嗅覚がどれくらいあるのか試してみた。玉の好きな、小さなむすび、いりこを見える範囲に置いて取りに行かせる事から始めたのだ。

 すると鉄と競争する様に喜んで駆けて行くではないか。

 此れもあっという間に覚えてしまった。とても初めてする事とは考えられない。

 段々と距離が離れても見つけて来る様になって来ると

「よしゃ、玉ちゃん、ようやったぞ。凄い凄い!」

 玉は与作に褒められ頭を撫でられ嬉しくて堪らない。

 こうして、日頃の遊びを通じて鉄も玉も研ぎ澄まされた嗅覚に発展していったのであった。

 従順で優しく且つ、又、勇敢な鉄も一度だけ与作にこっぴどく怒られた事が有る。此れは後にも先にもこれ一度だけで有った。

 其れは玉を拾って来てから暫くしてからの事である。与作が浅田屋での仕事を終えてから鉄と一緒に小屋に帰って来た。

「玉ちゃん、今、帰ったよ」

 今朝、出掛ける時に、昨夜からの雨が止まず気まぐれな玉は嫌そうだったので連れて行くのをやめていた。長い時間留守番をしていて寂しかったのか、大いに甘えて来て大喜びをしている。

「一寸、待っとれよ。飯を作るからな」

 其れから晩飯の支度をしていると、何処へ出掛けたのか鉄が暫くいなかった。

「玉ちゃん飯ど、鉄ちゃんは何処へ行ったんじゃ」

 すると戸が開く音がして鉄が入って来た。

 与作が振り向くと、鶏を咥えて嬉しそうに中に入って来るではないか。其れを見ると烈火の如く

「コラー!鉄、そりゃ何じゃ!ワリャ何処から鶏を捕って来たんなら」

 鉄は急に怒鳴られ口からポトリと下に落とした。

 そして尻をおもいきり蹴っ飛ばされたので有る。

「どして、農家で大切に飼っとるのを殺したんじゃ、あれだけ人家に近づくな言うとろうが!」

「外へ出とれ!」

 と再度叩かれ追い出された。

 外はしとしと雨が降る寒い夜空で有った。戸を閉められて何刻、放置されていたであろうか。

 其の怒られる様子を見ていた玉は、飯を食べるどころではない。

 自分も叱られた様て角で小さくなっている。だが気になるので有ろう。しょっちゅう戸の隙間から覗いている。何せ玉にとって鉄は父親、母親がわりで有り心配で堪らない。

 雨に濡れて泥だらけになりながら、ジッとお座りをして向こうからこちらを見つめている。

 そして玉はそんな鉄がどうにも心配になり外に飛び出した。

 与作は、暫くしても玉が帰って来ないので気になり隙間から覗いて見た。すると、鉄と一緒に雨の中に並んで座っているではないか。

 この様子を見て与作は、ほろっと来た。

 戸を押し開けて

「玉ちゃん、鉄ちゃんを連れて帰っておいで。玉に免じて堪えてやるから」

 と手招きをしてやった。

 すると、玉は嬉しそうに鉄を横眼で見ながら帰ろうと促している。鉄は遠慮そうに後から付いて来る。

「さあ、お入り。鉄ちゃん二度とするなよ」

 優しく声を掛けてやると、鉄は頭がいいから与作の言う事がすぐに理解出来るのだ。

「ごめんなさい、二度としません」と心の中で叫んでいるのが顔に現れていた。

 雨に濡れた体を拭いてやると、鉄と玉は与作に甘えて何度もお手を繰り返し小屋の中を走り回っている。余程嬉しかったので有ろう。

 こうして人間と動物の心の絆がこの事件により、より深まったので有る。

 一日の終わりの締めは必ずお経と写経で有った。専正寺の時の押し掛け小僧から続いており、此の日も

「無事過ごさせて頂き有難う御座いました」

 と感謝の気持ちを込めてお祈りをしていたので有る。鉄も玉も愁傷なもので与作の後ろで、ちょこんと座りじっとしている。


  

  空飛ぶ忍者のラー助


 玉が来てから半年くらい経ったで有ろうか、段々と猫独特の自由気ままな性格が丸出しになり出した。普段は雨の朝であれば、絶対に与作と鉄に付いて来ない。だが今日に限って与作の懐に入って別荘に行く腹積もりの様だ。

「玉ちゃん、今日はどう云う風の吹きまわしじゃ」

 与作と鉄は蓑を着ており玉も懐の中で雨に濡れないのだ。

 玉は何故か素晴らしい予知能力を持ち合わせていた。

 何か事有る度に勘がよく当たるのだ。

「今日も、出て来ると云う事は、何かは分からないが絶対に有るぞ」

 与作が浅田屋に出向いてから昼過ぎには雨も上がって来た。此れで鉄も玉も、別荘の外に出て遊べるであろうと仕事をしながら喜んでいた。

 可もなく不可も無い、何時もの浅田屋での丁稚奉公仕事を終えると、今夜は皆んなと一緒に帰れるぞと仕事疲れを忘れ浮き浮きしながら走っていた。

 何時もの場所にやって来ると、犬笛を取り出し一吹きした。すると鉄と玉は既に道の脇に座って待っている。

 与作を見つけると「ワンワン、二ヤンニャン」鳴きながら駆けて来た。

 後は何時もの賑やかな戯れあいである。

「よしゃ、今から競争して帰るぞ」

 処が、玉がその場を動かない。

「どした、玉ちゃん。又、何かしでかしたんか」

 例によって、「ニャ~ン、ニャ~ン」と鳴きながら別荘へ来いと引っ張るのだ。

 仕方なく付いて行くと、玉が中に入って行き与作も屈んで入った。

 真っ暗な中に何かこっちを見ている黒い物がいるではないか。

 目が慣れるまで、よく分からなかったが大きな目玉でこちらを見ている。どうやらカラスの様だ。 まだ飛べる状態ではないのか、もごもご身体を動かしている。

「玉ちゃんか。何処で見つけて来たんじゃ」

 どうやら雨上がりの後、外に出ていて、木の上の巣から落ちて来たカラスを玉が見つけた様だ。暫くその場に居たが親カラスが一向に現れず、其処で鉄を呼んだので有ろう。

 心の優しい鉄は、玉の時と同様に口に咥えて別荘の中に連れて来た。

 まだ完全に毛が生え揃っておらず飛ぶ事が出来ないようだ。

「しょうもない奴じゃな、でもな、おまえさんらの優しい気持ちに免じて許してやるよ」

「さあ、帰ろう此奴に餌を作ってやらんとな」

 与作はカラスを懐に入れてやり、鉄は玉を背中に乗っけている。何とも変わった組み合わせで有ったが、本当に幸せな一家の道行きで有る。

「然し、鉄ちゃん、玉ちゃん、其れに此奴といい皆んな真っ黒でまるで忍者一家じゃないか」

 与作は帰り道を早駆けしながら、此奴の名前を何にするか考えていた。 懐のカラスの目を見ると何と可愛いことか。大きくて真ん丸で瞼をパチパチしながらジッとこっちを見つめている。思わず頭を撫でてやった。

「鉄ちゃん、何ちゅう名にするかなぁ」

 だが、鉄は知らんぷりで前だけ向いてる。

「カラスのカーちゃんか、ラーちゃんか、それともスーちゃんか」

 暫く口の中でブツブツ言いながら思案して歩いていたがラーちゃんの響きがいい。

「よしゃ、ラー助にしよう、ラーちゃんだ。此れに決めた!」

「ラーちゃん、帰ったら粟のすり餌を食べような」

「玉ちゃん、明日から暫くはラー助の子守りだぞ」

 考えてみれば、玉がラー助を拾って来た理由が分かった様な気がした。

 お侍様が山道でマムシに噛まれた時にずっと寄り添って看病していたが以来あれだけ懐いていたお師匠さんと時たまにしか会えなくなり、何時も小屋に自分だけいるのが辛くて寂しいのだ。

 其れに何時も鉄の様に与作について、別荘に行ける程の体力がある訳では無し、猫は猫なりに寂しさを紛らわせる方法を考えたのであろう。

 何れにしても、其れから立派に成長するまでは、玉が我が子の面倒を見る様に可愛いがっていた。

 与作が鉄にしてやった事を今度は、鉄が玉にしてやり又ラー助にして やっている。一つ屋根の下で人間と犬と猫とカラスが暮らしていると、共通の言葉が発生し、心が通じ、一段と意思疎通が出来る様になるので有った。

 何時も、和尚様が教えてくれた仏教によると、輪廻の世界では小さな魂が人間や動物、其れに全ての物へ、良い事、悪い事が巡り巡って帰って来ると和尚様に教わった。

 ラー助がやって来て成長してからは、小屋の中の賑やかな事、此の上なしで有った。

 とに角、ラー助は雛から羽が生え揃いだし飛べる様になりだすと全くやんちゃぶりを発揮しだした。

 其れに自分の事をカラスと思っておらず、人間の与作の子供と勘違いをしガキ大将そのままで有りだした。

 そんなラー助を鉄は大らかな気持ちで見守り、ましてや玉は優しい母親代わりで、お互いの共通語でもあるので有ろうか。

 とに角、じっとしている事が無い。

 此の時期は温かく寝る時は小屋のすぐ横に有る松の木を寝ぐらにしていた。

 ラー助は夕方に、日が陰り出すと自分が作った巣の中に入り、朝は早い時間から動きだし「カァー、カァー」と鳴きながら飛び回す。

 そしてまだ皆んな眠たいのには御構い無しで、入り口の戸をキツツキの様にコンコンやりだすのだ。

 その度に優しい鉄は戸を押し開けて中に入れてやる。 

 そんなある朝、与作が仕事に出掛けようとした時の事である。

 外で「ガアガア」「ギャーギャー」異様な声がするではないか。

 此れは何事かと鉄が飛び出した。

 するとラー助が三羽のカラスに攻撃されている様なのだ。

 其れに気付いた鉄が自分の可愛いラー助がやられていると気付いて

「ワウーン、ガゥーン」と大声で吠えたてた。

 まだそんなに大きくないラー助はビビリまくって遠くに飛んで行ってしまっている。

 ラー助の巣の中に侵入していた他のカラスは、鉄の大声に慌てて飛んで逃げた。

 玉はといえば其の松の木をよじ登っているではないか。

 その仲間も恐れをなして退散してしまった。

 其の様子を離れた遠くから見ていたラー助が暫くして鉄の足元に降りて来た。

「鉄ちゃん、有難う」と云う態度で身体を擦り寄せているではないか。

 鉄もラー助の頭を優しく舐めている。そして玉も心配し近付いて来て戯れあっており、本当に仲良しな忍者一家なのである。

 ラー助も玉に育てられ、何時も与作と鉄に優しく見守られているので、自分をカラスと思っておらず他のカラスは全部敵なのだ。

 出掛けに与作は考えた。ラー助が寝ぐらを襲われ無いように、今夜から皆んなと一緒に小屋の中に住ましてやろうと軒下にカラス専用の出入り口を作ってやるか。

 その日に浅田屋での仕事を終えると、道具一式を買い揃え鉄と一緒に帰って来た。皆んなに晩飯を食わせてやると工事に取り掛かった。

 屋根の下の軒下に真四角に壁を切り取り何時でも出入り出来る様にしてやった。

 出来上がったのが真夜中であったが皆んな起きていて与作の仕事ぶりを見つめている。

 特にラー助は、自分の為に与作がやっている事に気付いており、嬉しくて鉄とはしゃぎ回り早速、出来上がると枠の上に飛び上がり確かめている。そして外に飛び出しては中に入って来る。

「ラーちゃん、此れでええか」

「クェクェ、カァー」

 翌朝から早速、何度も出入りを繰り返している。

 此れで鉄の毎朝の戸を開けてやる役目も解消されそうだ。

 ラー助は此れが出来てからは、嬉しくて堪らない。

 .処が、数日してから厄介な事が生じだしたのだ。

 大体、カラスの習性であろうか、自分が気に入った物を外から咥えて来る。

「ラーちゃん、やめぇや、ゴミ屋敷になるじゃないか」

 与作がいくら叱っても同じ繰り返しをするのだ。時には鉄、玉にも怒られるのだが一向に辞めようとはしない。此れには与作もほとほと懲りて、其の都度まとめて外に置いてやる様に場所を確保していた。

 何と言ってもラーちゃんにとっては宝物なのだから。

「此れも徐々に癖を直しちゃらにゃいけんかのう」

 其れから暫く経ったある日、何時もの様に朝早くから小屋を抜け出したラーちゃんが松の木の上にいる。

 其処で一家に重大事件が発生したのである。

 今朝は何時もの様に大声で「カァー、カァー」と目覚ましの鳴く声がしない。

 突然、朝の静けさを破って

「テッチャン、タマチャン」

 と呼ぶ声がする。

 此の声に、鉄と玉がびっくりして戸を押し開けて外に出た。

 だが誰もいない。

 与作が呼んだと思ったのだ。

「アレ、おかしいな」と小屋の中に又、戻って来た。

 其の時、与作はまだ夢見心地で此の声に気付いていなかった。

 すると又、暫くして「テッチャン、タマチャン、ヨサク」と人間の声が聞こえるではないか。

 此れには与作もガバッと起きて皆んなと一緒に飛び出した。

「誰がワシの名を呼んだんじゃ、誰もおらんぞ」

「親父が呼びに来たんかいな」

 鉄も玉も辺りを駆けり回している。与作も辺りを見回しながら小走りにすぐ近くの間道へ駆け出そうとした時

「へへへ、ラーチャン、ココ」

 其の声がする方を振り返ると、松の木の上からラー助がこちらを見ているではないか。

「ワオゥ!ラーちゃんが喋っとるぞ」

「ワン、ウワーン」「ニャ〜ン、ニャ〜ン」と皆んで大合唱をしだした。

 其処へすぐに地面に飛び下りて来た。互いに顔を合わせるなり

「テッチャン、タマチャン、ヨサク」と呼びだすと皆んな大喜びである。

 皆んなして一緒に寝る様になると、人間と動物の関係だけでなく完全に互いの心が打ち解けていくものなのであろうか。

 元来、昔から、カラスが知能が高い上に喋る事が出来る言われていたが、現実にラー助がやってくれるとは与作は嬉しくて堪らなかった。

「ラーちゃん、たまげたよ」

「メシヲタべ・・」

「よしよし、そうするか」

 今度はめしと聞いて皆んなで大騒ぎである。

 其れ以降もどんどん進歩していき、人間でいえば六、七歳並みの考える能力を有し、会話をする事が出来る様になって来た。

 与作は、ラー助と向き合いながら、色々な言葉を教え、更に発言をはっきり出来る様に、何度も繰り返して叩き込んだ。其れを側で見ている鉄と玉は楽しそうに眺めている。とに角、与作は動物達の潜在能力を引き出すのが上手なのだ。

 此の為、与作と忍者一家との心の繋がりドンドン増すばかりであった。

 此のラー助と目を合わせていて小さな疑問が湧いて来た。今は和尚様のお陰で殆ど読めない字が無いほどになっていたが、烏という漢字で何故、横棒が抜けているのがカラスと読むのか理解出来なかったのだ。

 元来、此の文字は象形文字と言われ鳥の形から生まれたものである。 

 然し、その時は分からなかったが後年、色々な書物に触れるにあたり知る事が出来た。其れによると鳥という字の中の棒線は目に当たりカラスは全く真っ黒で、更に目も黒い。回りから見て目が何処にあるか分からず其れで抜いたらしいのだ。

 漢字の言われなど、そんなものであろう。

 何時もラー助は鉄、玉と一緒に遊ぶ宝探しが大好きであった。夫々が好きな物を与作が山中に隠して来る。競争しながら見つけ出して持って来させるのだ。

 其れをやる度に、場所を変えてやるのだが皆本当に勘が良く鉄、玉、ラー助もいい勝負をしていた。唯、距離が一寸離れると鉄がダントツの能力を発揮する。此れが以降に三次藩の為に大いに貢献したのである。

 又、今迄、与作は鉄と玉で隠れんぼや鬼ごっこ遊びをしていたのであったが、ラー助が来てからは完全にぶち壊しで辞めてしまった。

 ある時、山中で鬼ごっこ遊びをやっている時、与作が鬼になり「もういいかい」と言いながら隠れている皆んなを探すのである、処がラー助は山中に隠れず上空を旋回している。与作が捜しに行き出すと、上から声を出して

「テッチャン、ココ」「タマチャンココ」

 全部バラしてしまうのだ。

「コラッー!」「ワンワン!」「ニャーニャーン!」

 と怒りまくり鉄と玉は追いかけ回すのだが何せ、近ずくと飛び立ってしまい

「ココマデ、コイ」

 幾ら怒っても効き目がない。いたずらが嬉しくて、ラー助も一緒に遊んでいるつもりなのだ。

 以来、此の遊びは辞めてしまった。

 ラー助が成長し言葉が達者になるに従って、世にも珍しい凄い活躍をする様になり出した。これから後にラー助はお師匠さん、三次藩の為に大活躍をする事となる。

 そして何んと日本国中何処にもいない、第一号の三次藩お召し抱えの忍者カラスとなったのである。



 ここまで★★★




 \\\\\ 「 2 」

 其れから間もなくしてある朝、城から家老が浅田屋にやってきた。蹄の音を響かせ二頭の馬が店先に到着すると、家老が家来に

「お前は此処でええ、先に代官所へ行っといてくれ、馬は連れて行ってくれるか」

「その後は如何されますか」

「後は近いから歩いて行くから。荷物だけ下ろせ」

「承知致しました」

 町中の商店街へ家老が馬で駆け付けるなど、異様な雰囲気の思わぬ来客に店先は慌てふためいた。日頃、まず有り得ない事で、他の商店も一様に驚きの眼差しで店先に出て来て浅田屋の様子を伺っている。

「主人はおるか。おったら即ぐに此処へ呼んで来てくれ」

 応対した番頭は其れこそ以前の闕所の事を鮮明に覚えており顔が一気に青ざめて

「一寸、お待ち下さい。今、呼んで参りますから」

 と奥に主人を呼びに駆け込んだ。

「旦那さん!大変です!城からご家老様が来ておられます」

「うん?何事じゃ。即ぐに出るから」

 取り急ぎ身繕いを整えて店先に出て来た。

「此れは此れはご家老様、わざわざ朝早くからのお越し何用で御座いましょうか」

「こちらからお伺い致しますものを」

「おう、浅田屋か。実は重要な話しがあってな」

「ご家老様、此処では何ですから奥にお入り下さいませ」

「うん、そうしてくれるか」

 浅田屋は以前の闕所の事が有り、ドキドキして足を震わせながら客間に案内した。其処へ奥様が顔を出し挨拶がてらお茶を持って来た。

「おう、気にすな、気にすな。ワシャ即ぐに帰るから」

 ご家老様の顔色を伺うようにしながら不安そうに座敷を出て行くと、主人は聞いてみた。

「又、前の闕所の時の様に覚悟していなければならないのでしょうか」

「いやいやそうじゃないよ。その点は安心してええよ」

「実はな、与作殿の事じゃがな」

「エッ、今、何と申されました。うちにおる与作はただの丁稚で御座います。何か人違いをされていませんか」

「うんにゃ、間違うてはおらんよ。其れがな、我が藩で召し抱える事になってな」

「其れも殿様、直々のご依頼じゃ」

「そんな馬鹿な!ご家老様、与作はほんま浅田屋の丁稚ですよ。其れも百姓の倅で全くの無学文盲ときております。何かのお間違いではないでしょうか」

「其れはワシもよう知らなんだわ。然しな、現にお殿様から大分以前に苗字帯刀を許されとるし、剣も大層な腕前らしいんじゃ。じゃが侍には絶対にならんと断ったらしいぞ」

「う〜ん、然し・・・」

 暫く浅田屋は頭をひねって思案をしていた。

「まてよ、そう言われますと心当たりが有る様な気がします。私達家族が何度も危機に瀕した時に姿、形の見えない誰かしらに助けて貰らいました、もしやと思いましたが・・・」

「とに角、与作殿は文武両道に優れており類い稀なる才能を有しているという事じゃ。読み書きにしても分からん事は一切無いらしいで」

「う〜ん、ご家老様のお話しを伺っておりますと、やっぱりなと思われる節が御座います。此処ではミミズの這った様な字をわざと書いていたんですね。だが実際は物凄い達筆でした。其れを一度だけこの目にした事が御座います」

「じゃがのう。与作殿は殿様のたっての願いを断わっておられる様なんじゃ。其れはな、浅田屋への恩と義理があるからと言ってな」

「何と律儀な男よのう」

「そう言う事で与作殿にはいずれ浅田屋を離れてもらわにゃならんのよ。侘びを兼ねてワシが今日此処へ来た次第じゃ」

「既に先を見越して与作殿には畠敷に住まいを確保してあるんじゃ」

「ご家老様、事情はよく分かりました。私には与作殿を何時までも留め置く権利が一切御座いません。本人の自由にさせたいと思います」

「分かってくれたか有難うな」

「まぁ、もう暫くは誰にも内密に浅田屋においてやってはくれぬか」

「今日来た事も与作殿には何も言うとらんのじゃ」

「本人は、今日は非番で店には出ておりませんので追い追い話しをしてみますから」

「其れとな、もうちょいええかな。話しをしても」

「どうぞ、どうぞ幾らでも」

「商いの邪魔にならんか」

「とんでも御座いません」

「こんな嬉しい話で御座いましたら何時まてご随意にどうぞ」

「ところで、ご家老様、早朝よりのお越し食事は済まされましたか」

「いや、実はまだなんじゃ、この後、代官所に寄る用があってのう。其処で食おうと思うとったのよ」

「其れでは、私の処で食べていって下さい。ええものは有りませんが」

「そうしてくれるか、すまんのう」

 そう言うと主人は奥にいる女房にすぐ支度をする様に頼みに行った。すると美和の部屋の中から泣き声が廊下に聞こえてきた。主人がガラッと戸を開けると部屋の隅で抱き合ってシクシク泣きながら震えているではないか。

「おい!どしたんじゃ、お前ら何をしとる」

「でも、又、ご家老様に店を閉めろと言われるんじゃないかと」

「何を勘違いしとるんじゃ。話しは全然違うぞ。与作の事で来られたんじゃ」

「即ぐにご家老様に朝飯の用意をしてあげてくれんか」

「ええ、闕所じゃないんですか。なぁんだ!よかった。そうと分かれば美和ちゃんやろ」

「はい!」

「何と現金な奴じゃのう。まぁええか。実はワシもホッとしとるんじゃ」

 主人も台所について行き女房や美和が楽しそうに食事の用意をする姿を見て嬉しくて堪らない。

「然しよ、与作が大変な事になったで」

「お父さん、話しは後で、今、こっちが大変なんですから」

「分かった、分かった。ワシは向こうへ行っとくから」

 浅田屋は母娘の心配が杞憂に終わり、喜び勇んで支度している姿を見て嬉し涙が出てきた。

 主人は涙を拭いながら再度客間に走り込むと

「すまんのう。朝から迷惑をかけて」

「何を仰います、親娘で喜んでやってますからもう少しお待ち下さい」

「有難う」

「然し、与作という奴は一体、ほんまに何者なんじゃ。同じ志和地の出じゃが何処で学問や剣術を教わったんかのう。そんなとこは何処も有りゃせんがのう。奴一人の独学か。何でワシとこうも違うんじゃ。まぁワシのとこは小作人じゃったからな。土台からして違うからしゃないか」

 主人はほんの一瞬の間に与作と自分の境涯を頭の中で回想していた。

「ご家老様、間も無くで整いますから」

「有難うよ。すまんな」

「其れとな、まだ他にも話しがあるんじゃ」

「又、其れは何んで御座いましょうか」

「実はな、もう一つ大事な事があるのよ。浅田屋は尼子国久公の事は知っとるわな」

「其れはもう。この地を治められる立派なお殿様とお聞き致しております」

「そうじゃ、其の御方がな、是非、浅田屋には礼を言いたいとな」

「こ家老様、一寸お待ち下さい。私は大殿様とは縁もゆかりも御座いませんが」

「処が大有りじゃ」

「国久公が言われるのには、自分が山中で死にかけた時に、誰とも分からんワシの為に薬や食べ物や何から何まで調達してくれ、命を救うてくれたと大感激され心から感謝しておると仰しゃってな」

「分かりました!其れは山中でマムシに噛まれた件で御座いますね」

「そのようじゃ」

「其れは私ではなく与作、いや与作殿がした事で御座います。私は殆ど何もしておりません」

「何を言う、毒消しから何や彼や薬の浅田屋のお陰で命を救われたんで。其れも全く無料奉仕じゃろうが」

「とんでも御座いません。困っている人様をお助けするのは当たり前の事でお礼など一切言って頂く事では有りません」

「そこでじゃ、大殿様は浅田屋に、本来ならば顔を出し礼を述べる処なれど今は出来んので代理を頼む、と言われワシが代わりに来たのよ」

「勿体ないお言葉で御座います」

「それで此処に国久公から預かった物があるので受け取ってくれるか」

「とんでもない事で御座います。其れこそバチがあたります」

「そんな事は言わず受け取ってくれ。そうせにゃワシゃ帰れんぞ」

「ハハァ」

 ご家老様から授かった木箱はかなりの重さがあった。中は分からなかったが大凡の察しがついた。

「其れとな、我が殿からは浅田屋に終身三次藩御用達の看板を授けると仰しゃってな。ほいで以前の闕所の件ではひとかたならぬ迷惑を掛けた、謝っておってくれとのお言葉じゃ」

「重ね重ね有難い事で御座います」

 と主人は深々と頭を下げ礼を述べている時に親娘が食事を運んで来た。

「おおぅ、朝から手を煩わせるのう」

「とんでもない。お粗末な用意しか出来ず申し訳け御座いません」

「すまんな、お内儀さんよ。其れに娘さんも一緒にしてくれたんか」

「どうぞ、ごゆっくり」と言いながら親娘が忙しく台所と部屋を出入りしていた。

「すまんな。有り難く頂くよ」

 と言いながら箸をつけ、そして話しかけて来た。

「然し、浅田屋よ」

「何で御座いましようか」

「この間の闕所の件の時は親娘さんは心配で大変じゃったろうのう」

「はい、私が牢内で死んだものとばかり思っていたそうで泣いてばかりいたそうです」

「そうよなあ、大変なめに合わせたのう。何にも浅田屋は一切悪い事をしとらんから尚更じゃ」

「お殿様が謝っといてくれと言われたが、ワシもほんま申し訳ない事と重ね重ねお詫びをさせてもらうよ」

「ご家老様、お殿様とご家老様のお言葉、全く勿体ない事で御座います。私どもは心から感謝致しております。

 暫くご機嫌そうに箸をつけ朝飯を食べ終えると世話をしていた親娘に

「いやぁ、馳走になったのう」

「どう致しまして」

「然し、お内儀よ、良かったのう。浅田屋も雨降って地固まるじゃのう」

「えっ、え、何のことで御座いましょうか」

「ハハハ、後は主人に聞いてくれ」

 其れから席を立つと礼を言いながら店先から代官所の方に歩いて帰られるのを全員で見送った。

 そして主人は急ぎ店の中に駆け込んだ。其処へ番頭が声を掛けてきた。

「何用だったんでしょうか」

「おうおう、大事ない。大事ない、大した用じゃなかったよ。今迄通りに仕事を続けてくれるか」

「其れは良かったですね。奉公人達も心配しておりました」

「店も以前の事があったが雨降って地固まるじゃ」

 奥に入ると台所で親子が嬉しそうに後片付けをしているではないか。

「お父さん、与作の事でご家老様が来られたと言いましたが、何かいい事でもやったんですか」

「ご機嫌で帰えられましたが」

「終始ニコニコしておられましたよ」

「オォ、大変な事をしでかしゃがったで」

「何をやったんですか」

「でも、与作さんですから間違いは絶対に有りませんよ」

「ねぇ、美和ちゃん」

「そうよ、母さんの言う通りよ」

「其れがな、与作は、いや与作殿はな、お殿様直々に三次藩にお召し抱えになられたそうじゃ」

「これからワシ等は迂闊に声掛けが出来んぞ」

「えぇ、やっぱりね。母さん!」

「そうよ、私が思った通りじゃないですか」

「以前の闕所の件では美和ちゃんやお父さんが助けてもらったのは全部与作さんがしてくれた事じゃないですか」

「ご家老様が言うのには、最初に犬とカラスが召し抱えになり既に活躍しとると言われとったで」

「私が大きな犬と猫に助けてもらったのは知っていますがカラスまでいたとは、こりゃ如何に」

「ワシが知るか」

「其れにな、読めない字など一つもありゃせんとご家老様が言うとったでぇ」

「算盤に至っては暗算の域じゃそうな」

「そう言ゃあ、妹さんも今、志和地じゃ評判になっとるそうなで」

「庄屋さんの仕事や村の経理の仕事はすべてこなしとると山田屋さんが言うとったが、とに角、暗算の域が凄いらしいんじゃ。おそらく日本國中にも二人としておらんでぇ」

「ワシャ、長年商売しとって算盤は鈍臭いが正確じゃで」

「そりゃお父さんの性格そっくりですよね」

「そうよ、そうよ」

「お前達は親娘でワシを舐めとるんか!」

「そうじゃなくて褒めとるんです。なぁ美和ちゃん」

「そうです。お父さん有っての浅田屋で御座います」

「ハハハ、何か面映ゆいのう」

「然し、与作殿は若いのに何時の間に此れだけの事を習得したんじゃ」

「剣の腕も凄くて大分前に苗字帯刀をお殿様から許されとる様じゃし、とてもじゃないが浅田屋の丁稚など畏れ多い事だよ」

「うちの婿さん候補第一号じゃたのにな」

「なぁ、美和」

 と言われて美和はポッと頬を赤らめた。

「しょうがないなぁ誰かええ人を見つけちゃるよ。それとも他に店の中に気に入った奴でもおるんか」

「知らない!」

 と言いながら急ぎ部屋を出て行った。

「オイッ、母さんよ。美和もそろそろ適齢期かのう」

「言われてみれば私も同年代でしたよ」

「あの時分は良かったですねぇ、お父さん!」

「今更、つまらん事を抜かすな」

「然し、庄屋さんには完全に騙されたな」

「其れはお父さんも一緒ですよ。山田屋さんに紹介されて入った時は無学文盲と言われながら今では立派なご主人様じゃないですか」

「おいおい、母さん今日はおかしいで」

「其れとな、他にも嬉しい事があるんじゃ」

「何ですか。勿体ぶらずに早く言って下さいよ」

「オウッ、実はうちの店が今度な、終身、三次藩御用達にするとお殿さまから訓示があってな。其れを認めた書き付けをご家老様から頂戴したのよ。其れに前の闕所の時の不始末でお詫びを仰って下さったんじゃ」

「お父さん!」

 其処へ出て行った筈の美和が飛び込んで来た。

「なんじゃ、美和、聞いとったんかい」

「へへへ、でもお父さん、此れで私は気が変になった娘と言われなくてすむね」

「そうよな、美和には気苦労をかけさせたからな」

「よかったぁ」

 然し、こうなったのもみんな与作のお陰で」

「お父さん、与作殿!」

「ハハハ、そうじゃった、そうじゃった」

「其れにな、更に嬉しい事があるんじゃ」

「以前に、与作が小雪の降る寒い夜に下着姿で飛び込んで来た事があろうが」

「あれは異様な出で立ちでしたよね」

「お前たちは急な事にも拘らず、段取りように支度をしてくれたよな」

「その時、与作がお助けしたのは誰じゃと思う。尼子国久公なのじゃ」

「ヒェー!天下の大殿様じゃないですか」

「そうじゃ、与作は一切、何も喋らんかったからな」

「お父さんにしては珍しく無料奉仕してあげたよね」

「じゃかましい!ワシを馬鹿にしとるんかい」

「とんでもない。私はその時感服しましたよ。ねぇ美和ちゃん」

「そうよ、お父さんを見直しました」

「お前たちは何時も組みゃがってワシをこけにしょってからに」

「げになぁ、ワシもあの時は精魂込めて助かる様に薬の調合をしたでぇ。其れにお前らも何度も奮闘してくれたよな」

「そのお礼として大殿様から褒美を頂いたんじゃ」

「何かしら大変な物の様なで」

「取り敢えずは御用達の書き付けと一緒に仏前に供えておくか」

「ほんま有り難い事じゃ。然し、此れは全て与作が絡んでしてくれた事じゃで」

「ワシも牢屋の中で悪代官に殺されるのを覚悟したからのう」

「お礼は母さんにもせにゃならんでぇ」

「なんでよ」

「気付け藥の調合を間違うてみいや、ワシゃ、今頃はのうのうさん(仏様)になっとるとこじゃったよ」

「其の事ですか。あんときばかりは私も必死だったですよ。まさか与作が麻沸散と知ってお父さんに使ったとは思いもしないしね」

「死んだお父さんに気付け藥を飲ませるなんてね、何と馬鹿な事をする奴じゃと思いましたよ」

「何時も効能書きを盗み見して研究しとったんじゃのう」

「うちには毒薬から麻沸薬まで劇薬が仰山有るが今迄一度も売った事も使うた事もないからのう」

「ワシが試し飲みをさせられたんじゃのう」

「然し、与作も母さんも神業じゃのう。現にワシゃこうして何もなく生きとるで」

「オォ、其れとな、ご家老様が言われるのには、与作殿を即ぐに城に上げるといわずもう暫くは浅田屋においとおいてくれんかと言われてな。浅田屋には恩と義理があるとお殿様に言上したようじゃ。だから暫くは内密に今迄通り丁稚奉公勤めをしてもろおうと思うとる。この事は与作殿には勿論内緒じゃし、他の奉公人には絶対に言わんようにな」

「じゃから、うちにおる間は今迄の様に与作でいくで」

「分かりました」

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