13.金色の狼のはなしⅡ




 名づけられたその日からはじまった名も無き王都での生活は、最初の頃こそ戸惑いの連続だったが、シトロンにとって間違いなくしあわせな時間だった。






 国王夫妻の部屋があるプライベートエリアである星宮せいぐうに部屋を与えられたシトロンの一日は、彼の部屋を訪れた王妃の「おはよう」の抱擁とともにはじまり、「おやすみ」の抱擁で終わる。食事も国王夫妻と共にし、夫婦水入らずだった時間の一部は自然と三人で過ごす時間に変わっていった。

 シトロンは王妃のことを照れ臭くも「母上」と呼ぶようになったが、正式に養子縁組をしたわけではなかったため、日中の大半は王の小間使いのようなことをして働きながら、時には勉強をし、時には武術を学んだ。

 周囲の大人たちはみんな彼にとっての素晴らしい教師で、新しいことを覚えるのはシトロンにとっても楽しいことだった。


 ただ――


「どうして王妃さまはお前なんかを傍に置くんだ」


 軍の関係者の子どもと混じって武術の訓練に参加していると、よくこうして見た目は同じ年頃の妖精に突っかかられる。軍の元帥の親戚だという彼女は、王妃を崇拝しているらしく、突然拾われてきてかわいがられているシトロンが心底気に入らないようだった。


 そんなことこっちが聞きたかった。


 王妃がどうしてシトロンを拾ったのか、未だにシトロンにはわからない――。


 二年もたつ頃には、シトロンは育った環境が悪かったせいで未だに小柄ではあったが、覚えたことをすっかり身につけ、王の小間使いも板についていた。

 王は相変わらず王妃がシトロンにかまうと不機嫌にはなったが、シトロン自身のことは気に入っている様子だった。


 夕食を終えた後のゆったりとした夫婦の時間にも、シトロンがいることを許すほどには。


 狼の姿になったシトロンの金色の毛皮を王妃がやさしく撫でていた。シトロンはこの姿でも言葉が話せるようになっていたが、いつもより少し口数が減る。王妃はかまわず、愛する王やシトロンに語りかけるようにその日あったできごとを話して聞かせた。


 王妃の春の陽だまりのような香りを感じながら――それが王妃の魔力や魂の香りだと、シトロンはもう知っていた――毛皮を撫でられる気持ちよさもあって、シトロンはうとうととまどろみはじめた。

 無意識に甘えるように王妃の腹に鼻先を押し付けると、王が「おい」と低い声を出す。それに反応するように、シトロンはパッと起き上がった。


 王妃の上から飛び降りたシトロンは王と王妃の間をうろうろとして二人を交互に見上げた。それからまた王妃の腹に鼻を押し付けて――今度は強引に、王によって引きはがされてしまったが――きょとんと王妃を見つめた。


 王妃の春の陽だまりの香りの中に、王のニオイに似たものを感じた。


「魔獣族は鼻がいいな」


 どこか感心したように、王は言った。王は前足の下を抱えるようにしてシトロンを持ち上げていたので、不安定な後ろ足をバタつかせて態勢の不満を訴えた。ため息をついた王がてっきり下ろしてくれるかと思ったのに、なぜか安定した持ち方に直されてしまう。シトロンは困惑した。


「シトロン、あなた――お兄さんになるのよ」


 ふふっと笑いながら言う王妃にきょとんとするシトロンの首を、王は珍しく指で撫でた。


「わたしのおなかの中に、赤ちゃんがいるの。あなたの弟か妹よ」


 シトロンは王妃が言ったことがうまく理解できなかった。それでもしあわせそうに笑う王妃の表情だけは、はっきりと目に焼き付いた。シトロンを抱きかかえたままの王が、どんな表情をしているのかはわからなかったけれど。






 王妃の懐妊はザルガンド中にすぐ広まり、そこで暮らす魔族たちはこぞって祝福をした。しかし年かさの魔族は祝福しながらも、不安を覚えていた。それは国王も同じだった。元々王妃には過保護だったのがますます彼女を案じるようになり、できる限りシトロンを王妃の傍に置いて少しでもおかしいと思ったらすぐに知らせるようにと告げた。


 まだ若いシトロンは、大人たちの一部が何をそんなに不安に思っているのかわからなかった。月日が経つにつれて、王妃の腹は膨らんでいく。それを見てやっとシトロンは自分に家族が増えるのだと理解できた。


「この子が生まれたら、守ってあげてね」


 やさしく王妃は言った。


「本当に俺が“兄”でいいの?」

「いいのよ。シトロンもこの子も、わたしの大切な子だもの」


 そしてそう言う王妃の顔色があまりよくないことに、シトロンも薄々と勘づいていた。


 出産が近づくと、王妃はほとんど寝たきりになっていた。シトロンはこの頃、王妃の寝室で寝起きをしていた。狼の姿になって、床に敷かれたやわらかなラグの上に丸まって眠る。時折夜中にふと目が覚めると、王と王妃が何か真剣に話し合っていた――が、シトロンがぼんやりと起きていることに気づいた王によって何を話しているか知る前に、また眠りへと誘われてしまった。




 思えばあの時、王と王妃は腹の中で順調に育つ子どもを本当に生むのかどうか話し合っていたのだ……。




 シトロンがそれを知ったのは、いよいよ子どもが生まれるその日のことだった。


 単純な話だ――彼女はあくまで人間で、人間が魔族の頂点に立つ王の子どもを妊娠するなんて普通ならありえない。魔力の差が弊害となる。しかし王妃が人間にしては強い魔力を持っていたため、それがありえてしまったのだ。そしてその出産が、王妃の命を脅かした。


 陣痛の間隔が狭くなり、産婆と女の使用人たちの慌ただしさがピークに達した時、王は祈るようにその時を待っていた。シトロンはいつもと違う弱々しい王の姿に不安になり、狼の姿で彼の足元にすり寄った。頭を撫でる手は力なく、しかし不意にシトロンを抱き上げた腕は苦しいほど力強かった。


 やがてシトロンが嗅いだことのないニオイがはじけるように辺りを満たした。


 王がパッと顔を上げ、シトロンを抱きかかえたまま王妃の寝室に向かったのと、その扉が開かれたのはほとんど同時のことだった。


「へ、陛下……!」


 汗で汚れた青白い顔と、震える声で「王妃様が」と部屋から出てきた使用人は言った。使用人の横をすり抜け、王はシトロンと共に王妃の寝室へと入った。赤ん坊が生まれたはずなのに、奇妙な静けさに包まれた部屋に。


 枕元に立った王は、王妃の名前を呼んだ。王妃もまた、愛しげに王の名前を呼んだ。王妃の隣には、薄い半透明の膜で包まれた赤ん坊が寝かされている。中に入っているのはしわくちゃの人間の姿をした赤ん坊だ――王がふうと息を吹きかけると、膜はゆっくりと蒸発するように消えていき、中から出てきた赤ん坊がやっと大きな産声を上げた。


「この子を……守って、愛してあげて……」

「わかっている――だからそんな……そんな、もう最期だと言うような顔をするな……」


 王はそっと、王妃の手を取った。


「俺の幸い。二人でこの子を大切に育てよう――シトロンもきっと、いい兄になる」


 王妃は何も答えなかった。ただ黙って、王の言葉に笑顔を見せた。






 嘘のように、ザルガンドは沈黙と悲しみにに包まれている。


 もう何日も、夜が明けていなかった。王妃の葬儀が終わり、王は部屋に閉じこもったままだ。シトロンは生まれたばかりの妹と、王の部屋の間を一日に何往復もして、開けられない王の部屋の前で今日は妹がどんな風だったかを語りつづけた。


 王の部屋の扉が開いたのは、二週間ほどたった頃だ。


 王は明らかにやつれていて、シトロンを見る目はどこか濁っているようだった。夜の闇が濃くなったような気がして、シトロンは不安になった。


「散歩に行くぞ」


 しかしそんなシトロンの心情には気づかないように、王は静かにそう言うと先立って歩きはじめてしまった。


 慌てて追いかけたシトロンは、そのまま王宮にある庭園の一つへと来た。あまり広くない庭園には緑と美しい花で溢れている。シトロンがはじめて来る庭園だった。


 その最奥に、真っ白な霊廟がある。




 夜の深い闇の中でも、春の陽だまりの香りがした。




「この庭には、誰にも足を踏み入れることを許していない。この霊廟にも」

「えっ……」

「生まれた娘と、シトロン、お前には許そう」


 シトロンは霊廟を見つめた。


「ここに彼女の肉体と魂が眠っている。魂は――いずれ旅立ってしまうが」


 王は静かにシトロンを見つめていた。


「子どもたちが来たら、彼女もきっと喜ぶ」

「子どもたち……?」

「お前とお前の妹だ。彼女にとっては間違いなく、お前も彼女の息子だった――大切な」


 ぽつりと、シトロンの夜の闇の色に似た瞳から涙がこぼれた。彼がそれを自覚する前に、涙は次々と溢れてくる。目の前の白い建物からは、彼が好きだった春の陽だまりの香りが確かにする。それはもう、王妃が――彼の母親がこの世にはいないのだということを、はっきりと示していた。


 血の繋がった家族から疎まれても、ボロボロになりながら暮らし、どんな辛い目にあいながらも泣かなかったシトロンは、その日、生まれてはじめて声を上げて泣いた。




 その夜が明けるまで。



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