第九週「咀嚼」

---指の傷が治らない。


Jさんは生まれつき肌が弱かった。


小学生の頃からアトピー性の皮膚炎で、首回りや手首、肘裏や膝裏などの汗が溜まりやすく、柔らかい部分のかゆみが止まらなかった。


子どもの頃は、常にひっかき傷だらけの赤い肌をからかわれ、「汚い」「病気がうつる」なんて言われていじめられていたこともあった。


20歳の頃になって、体力がついたのか、子供の頃と比べると、症状はかなり軽くなった。


今では余程、睡眠不足やストレス等がなければ、軽い湿疹程度で済む。




ところが、ある時から指先にかゆみを伴う、小さな水疱(水ぶくれ)ができるようになった。


透明の小さな水ぶくれが、ぷつぷつと、いくつも指先にできて、ひじょうにかゆい。


かきむしった拍子にそれが破れると、透明の汁が出て、さらに激しいかゆみが襲う。

そして水疱と一緒に、皮膚が破れたり、大きく裂けて、指先が傷だらけになる。

その傷が塞がったと思うと、また水疱があらわれ、またかゆくなり……の繰り返しだ。


指先のどこかが常に傷付いているような状態になり、料理や入浴、それどころか指先を動かす度に傷が開いたり、沁みて痛い。何をするにも憂鬱だった。


見た目はまるで水虫のようで、気付いた時にはぎょっとしたが、かかりつけの皮膚科の先生に診てもらったところ、「汗疱状湿疹」という診断だった。


分泌されず皮膚内にたまった汗が炎症を起こし、水疱ができてしまう皮膚病で、

多汗症や金属アレルギーの人に多く、またストレスや自律神経の乱れでもできてしまうらしい。


「水虫のようにうつる病気でもないし、めずらしい症例でもないよ。」


とは言われたものの、有効な治療法はなく、ステロイド系の塗り薬を処方してもらい、それで様子を見るようにとの話だった。


原因がはっきりしないのは気持ち悪いが、先生の話を聞いて「最近、疲れてるのかな?」くらいに受け止めていた。




ある日のことだった。

指先に走る鋭い痛みに目が覚めた。

そして、ぼんやりとした寝起きの頭で指先を見て、仰天した。


左右すべての指先に裂傷ができていた。

ひとつひとつは1センチにも満たない小さな傷だが、ぱっくりと裂けたもの、水疱が破れてクレーターのようになったもの、やすりにかけられたかのように細かい傷が重なったもの。まるで回転するミキサーの刃に強引に突っ込んだかのようにズタズタだった。


水疱が破れて出た透明の汁と、傷から滲んだ血で指先がじっとりと濡れていた。


身体を横向きにして寝ていたのだが、枕の横のシーツが、まるで傷に巻かれた後の包帯のように所々に血の跡と黄ばんだシミが残っている。


最悪の目覚めだったが、Jさんには心当たりがあった。

おそらく眠っている内にかきむしってしまったのだろう。

実際、子供の頃、アトピーがひどかった時もそうだった。


起きている間は我慢するなり、かゆみ止めの薬を塗るなどして、かきむしらずに済んでいるのに、寝ている間に無意識に腕や足をかきむしってしまうのだ。

子供の頃は手首や足、はては背中まで眠っている内にかきむしり、下着やシーツを血で汚して親に叱られていた。


Jさんはため息をつきながら、指先に病院で処方された薬を塗り、包帯を巻いた。




---翌日、Jさんはひどい風邪をひいた。


目眩がする程の高熱と、ひどい喉の痛みに、その日は会社を病欠し、解熱剤を服用して、とにかく寝ていた。


眠っているのか起きているのか、見えているのが現実か夢の景色なのかも分からない曖昧な状態が続いた。


ふと、目を開けると部屋が薄暗かった。

朝からずっと横になったままで、少しだけ開いたカーテンの隙間から漏れる光の色から、夕方なのが見て取れた。



(もうこんな時間……)



どれだけの時間寝ていたのか、ずっと横向きに寝ていたらしく、下にしていた右肩と腰に鈍い痛みを感じる。


時計を見ようと寝返りを打とうとして、気が付いた。

身体が動かない。それも風邪で身体が怠いからというわけではない。

意識はハッキリしているし、瞼や眼は動く。

ところがそれ以外の箇所がまるで動かすことができない。

これが金縛りというやつか? と、Jさんは驚いた。


このままもう一度、眠ってしまうか、それとも動くために足掻くか思案していた時、ベッドの端から小さい2つの目が自分を覗いているのをJさんは気が付いた。


……ひと昔前に「ちいさいおっさん」なる妖精というか、都市伝説が流行ったが、まさにそんな感じだった。

頭の禿げ上がった中年男性の姿をした小人が、ベッドの端から鼻から上だけを出して、Jさんの顔を覗き見ている。


カエルのような顔で、ぎょろりとした眼を忙しなく動かし、その視線はやがてJさんの指先に止まった。


きゅっ、とその小人の目が細められる。

---笑っていた。


ベッドの端を2本の手で掴むと、小人は体を持ち上げ、ベッドに登った。

それは身長15センチくらいの小人だった。


だが、その顔を見てJさんは息を飲んだ。

……舌が長すぎる。口からだらりとこぼれた舌先は腰の辺りまで伸びている。

その舌先をふらふらと左右に揺らしながら、Jさんの顔の近くに迫ってくる。


Jさんの指先に辿り着くと、その小人はその長い舌で人差し指を持ち上げた。


そしてJさんの指先をその異様に長い舌で舐め始めた。


まったく文字通り指一本動かせないのに、指を持ち上げられた感覚も、じめっ……と湿った舌が自分の指先を舌が這い回る感覚もはっきり分かった。


まるでアイスキャンディを舐める子供のように、その小人は一心不乱にJさんの指を舐め続ける。


ぞわぞわと背筋が冷たくなるが、一向に身体は動いてくれない。

その内、別の感覚がJさんを襲った。


かゆい。

舐められている指先がかゆい。

もし身体が動くのなら、血が出るまでかきむしるだろう。


かゆい。

かゆいかゆい。

かゆいかゆいかゆい。


そのもどかしさに悲鳴を上げたくても声は出せない。

その小人は容赦なくJさんの指を一心不乱にしゃぶり続けていた。


そんな拷問のような時間がどれほど続いただろうか。

その舌が離れた時、Jさんは目を見張った。

小人がべろべろと舐めていた指先には、水疱がいくつもできていた。

何度も何度も悩まされていたあの水疱が舐めた跡にびっしりとできていた。


そして小人は嬉しそうに、今度はその水疱に齧り付いた。

ニキビが潰れる時のような「ぷつり」という音とともに皮膚が破れ、透明の汁が溢れる。それをまるで果汁を吸うかのように、むしゃぶりついた。


しばらくすると今度は針に刺されたような痛みが指先を走る。

小人は破れた皮膚に歯を突き立て、それが血管を傷付けたのだ。

それを見ると、小人はさらに嬉しそうに指先に齧り付き、咀嚼する。

まるでスペアリブを食べているかのように。何度も何度も齧り付く。


そのかゆみ、いたみ、おぞましさにJさんは何度も何度も心の中で悲鳴を上げた。

それでも指先も、喉もぴくりとも動かず、声もあげられない。

自分以外誰もいない部屋の中で、何度も何度も悲鳴と助けを求める声を叫び続けた。


やがて、人差し指の皮膚と肉を食い荒らすと、小人は満足そうに顔を上げた。


……そして、その視線は次に、Jさんの顔に移った。


血に濡れた口元を拭おうともせず、ふらふらとJさんの顔に歩を進める。

その視線の先に何があるのか、Jさんは気づいてしまった。


……目だ。私の目を見ている。

体液をすするその小人は、私の目を狙っていた。


じりじりと迫る小人を前に、さっきまで動かせたはずの目や瞼すら動かない。


舌先をふらふらを揺らしながら小人が目前に迫ってくる。

閉じられないように瞼を両手で掴み、視界いっぱいに小人の嬉々とした笑顔が広がる。そして、小人の舌先が目玉に触れる瞬間……




「うわああああああ」


Jさんは悲鳴を上げて飛び起きた。

慌てて両手で顔を覆い、自分の目の無事を確かめた。

化粧用の手鏡を取り上げ、自分の顔を見る。冷汗がびっしりと額に浮かんでいたが、その顔には、目には異常はなかった。


(ひどい……ひどい夢だった)


ほっ、と胸を撫で下ろすところで……Jさんは手鏡を持つ自分の指に気が付いた。


その人差し指はじっとりと濡れ、皮膚が破れ、血が滲んでいた。

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