第七週「交換」

「ねぇ、交換して頂戴」



Aさんはレジの前にいる老婆へ胸の内で溜め息をついた。


Aさんは大学生の時、深夜のコンビニでアルバイトをしていた。


高校受験を機に夜型の生活に目覚め、明け方に寝て、昼頃に起きるという生活サイクルにはまっていた。


それでも大学ではなるべく昼以降の講義を取るようにして、単位を落としたことはなかったし、その生活サイクルが気に入っていた。


すると、お金が欲しくてアルバイトをしよう、となると当然、深夜帯の仕事になる。


最初はホテルが良いかと思ったが、Aさんは接客も堅苦しいのも苦手だった。

出勤の度に上下きっちり制服に着替えて、宿泊している客のトラブルに対応するホテルの仕事よりは、客の少ない深夜帯のコンビニバイトの方がはるかに楽だと思った。


実際、Aさんにとって深夜のコンビニバイトは気楽だった。

片田舎のコンビニは、深夜にわざわざ来るような客は少ない。

せいぜいが長距離の配送業のドライバーや、仕事終わりのタクシードライバーだ。

朝や昼のシフトに入ってる同じアルバイトの話では早朝の通勤時間帯や、ランチタイムは客が殺到し、しかも全員が殺気立ってて、レジに立っているだけでも、とても疲れるとの話だった。


もちろん深夜は深夜で、朝に備えて商品の品出しや、店内の清掃など、昼のシフトにはない仕事をしなければならないのだが、客は滅多に来ず、決められた仕事をこなせばいいだけの深夜のコンビニバイトはAさんの性に合っていた。


2年生になってシフトが変わるまでは。



「蓋が壊れちゃってるの。ねぇ、交換して頂戴」



今まで水曜日にはシフトを入れていなかったAさんだったが、必修の講義を受講するため、2年生になってからシフトを変えた。



「……はーい、かしこまりましたー」



Aさんは棒読みで答えながら、店内の雑貨コーナーにある猫用の餌の缶詰を手に取ってレジに戻った。それを老婆にて渡すと、



「どうもありがとうねぇ。ありがとねぇ」



ニコニコと人懐こい笑顔を向けながら、その老婆はコンビニを後にした。


……その老婆は、店でみんなから「交換ババァ」と呼ばれていた。

毎週水曜日の深夜2時頃に現れ、猫の餌の缶詰のプルタップが折れたから交換してくれと言うクレーマーだ。深夜、それも、わざわざ他に客がいない時を狙って来る。


その缶詰のプルタップも、どう見てもわざとねじ切っていた。

本来、プルタップは缶の面に対して縦に起こすように動かすはずだが、それが横に捻り切られている。まともに開ける気なんてないのは見てすぐにわかった。


それに、もし万が一、蓋に不具合があったとしても、それは販売しているコンビニではなく、メーカーにクレームを入れるべき話だ。コンビニが直接、取り合い、交換に応じるいわれはない。


Aさんももちろん、コンビニのオーナーに相談したが、



「まぁ、近所の可哀想なおばあちゃんだからさ。何も言わずに交換してあげてよ」



と、梨のつぶてだった。


オーナーの話では、もう1年以上前から同じことを繰り返しているらしい。

もちろん、それまでにオーナー自らが説得や説明をしたり、場合によっては警察も呼んだりした。

しかし、いくら話そうが、取り調べをしようが、老婆はニコニコしながら、


「交換して頂戴」


を繰り返すだけだ。

警察からしても交換を訴えているだけで、何も犯罪は犯していないので、どうしようもない。


深夜に来るという点から考えても、おそらくはボケてしまった老婆の深夜徘徊のか何かなのだろう。

もしくは孤独老人が話し相手欲しさに繰り返しているのかもしれない。

以前、ワイドショーで万引きを繰り返す老人の特集で見たことがある。


(まぁ、万引きとか物を壊されたりして、それをいちいち警察に通報したりするよりはマシか)


Aさんもそう考えて、毎週水曜日に老婆が



「ねぇ、交換して頂戴」



と、老婆が来ても機械的に対応するようになった。







ある日の水曜日だった。


その日は近所のライブハウスか何かで深夜ライブがあったらしい。

日付が変わろうという時間帯にも関わらず、大勢の若い客がやってきた。

誰も彼もライブ直後の興奮が冷めていないようで浮かれており、酒臭い息で店内でも大声で騒ぎ、しかも店先の駐車場で、コンビニで買った酒を呷りながら談笑し、煙草を吹かしていた。


運の悪いことに、その日のシフトはAさんひとりのワンオペだった。


本来なら店内と駐車場の清掃もAさんの仕事だったが、その若者がたむろっているせいで外の掃除ができない。

店内も立ち読みしていた雑誌が散らかされ、棚から落とした商品もそのままだった。

イライラしながら後片付けを行い、掃除を済ませるが、品出しの時間がおしてしまった。

シフトが終わるまでに品出しを終えないと翌朝のスタッフに迷惑がかかるし、良い顔もされない。

大急ぎでバックヤードから出した商品を棚に並べていると……



「ねぇ、交換して頂戴」



いつの間にか、背後にニコニコと笑顔を浮かべた老婆が立っていた。

手にはいつものようにプルトップの欠けた猫の餌の缶詰がある。

店内の時計をちらりと見ると深夜の2時を過ぎていた。



「はいはい。かしこまりましたー」



こんな忙しい時に……という感情をなるべく押し殺し、いつものように雑貨コーナーへ向かう。

ところが悪いことは重なるもので、今日に限って、棚に缶詰がない。コンビニで猫の餌なんてめったに売れるものじゃないのに、売れ切れている。



「あー、今、在庫ないですねー」



後ろにいる老婆にそう告げるが、



「ねぇ、交換して頂戴」



と、老婆はいつもと変わらぬ口調で食い下がった。



「いや、すみませんが、見ての通り、今、在庫ないんですよ」


「蓋が壊れちゃってるの。ねぇ、交換して頂戴」


「だから、店に交換できるものがないんですよ。明日には入荷すると思うんで、日を改めて……」


「ねぇ、交換して頂戴。交換して頂戴よ」



老婆はいつもの人懐こい笑顔のまま、ぐいぐいと蓋の壊れた缶詰を押し付けてくる。


そこでAさんは、今までの苛立ちが抑えられなくなった。

なぜ自分がこんなクレーマーの相手をしなきゃならないのか。

なぜこんなボケ老人のわがままに付き合わなきゃならないのか。

こっちは忙しいんだ。すぐに片付けなきゃいけない仕事があるのに、なぜ無駄な

時間を取られなきゃならないのか。あーうざいうざいうざいうざいうざい。



「うるさい! ないものはないんだよ!」



Aさんは気が付いたら叫んでいた。


老婆はいつものニコニコした笑顔から、きょとん、とした顔でAさんの顔をまじまじと見つめていた。

Aさんは、自分の吐き出した言葉に気づき、息を呑んだが、今更、取り消すこともできない。かと言って、謝るようなことはしたくない。自分は間違ったことは言っていないのだから。


気まずい時間が流れた。

実際はほんの数秒だったかもしれないが、Aさんにとっては10分以上にも感じた。

老婆も何も言わずに立ち尽くしている。結局、Aさんは何も言わずに老婆に背を向け、仕事に戻った。


その時、くいっ、と後ろからAさんは引っ張られた。

同時に、小銭が擦れ合うような音がした。


不審に思って振り返ると、そこには今まで見たことのないような……気持ちの悪い笑顔を浮かべた老婆がいた。


いつも目を細め、ニコニコと人の好さそうな笑顔しか見たことがなかったが、今の笑顔が持つ印象は、まるで違う。


にぃ、と開かれた口には剥き出しの黄ばんだ歯が覗き、普段、垂れ下がっている瞼が頬で持ち上げられていた。人間の口角がここまで上がるのかと驚いた。


その時、Aさんははじめてその老婆の瞳を見た。

瞼の隙間から見える瞳は白内障を患っているのか黒目の部分はうっすら白く濁り、白目は歯と同様、黄ばんでじっとりと濡れた、膿のような汚れた色をしていた。


不思議なことに焦点がうかがえない瞳にも関わらず、Aさんはその両目が自分をはっきり見据えていると分かった。



「だったら、これと交換して頂戴」



その右手には、ところどころ茶色い錆の浮いた、大きな裁ち鋏があった。

そして、その左手には……黒い毛束が握られていた。

それが自分の後ろ髪と気付いた瞬間、Aさんは冷や水を頭から浴びせられたかのように総毛立った。


老婆はその気味の悪い笑顔を浮かべたまま、左手の髪の毛を口に運んだ。

ねちゃ……くちゃ……という音をさせながら、髪の毛を飲み込んでいく。

その様をAさんは震えながら見つめることしかできなかった。


髪の毛を飲み込み終えた老婆が再び、顔を上げてあの笑顔を向ける。



「どうもありがとうねぇ。……ありがとねぇ」



にぃ、と笑った口から……隙間だらけの歯と歯の間から……大量の真っ黒な髪の毛がムカデの足のように飛び出し、のぞいていた。




Aさんは耐えられなくなって、コンビニから逃げ出した。


自分がいないと、コンビニに店員がいなくなることなど、考える余裕もなかった。

深夜の真っ暗な道を全速力で、自分の下宿してるアパートまで駆け抜けた。

張り裂けそうな程の胸の痛みを感じながら、ようやく少し落ち着きを取り戻し、洗面所の鏡で自分の後頭部を見ると、やはり、後ろ髪数センチが切り取られていた。

それを見て、あの老婆の笑顔を思い出し、吐き気を催したが、それをぐっと堪え、洗面所で水を飲み干した。

不幸中の幸いか、見た様子、長さを切り揃えれば、髪型は整えられそうだった。


翌日、もちろんオーナーから怒りの電話が来たが、Aさんは「辞めます」の一辺倒で押し通した。制服は郵送し、諸々の手続きもコンビニで仲の良かった同じアルバイトの子に色々と頼んで、店に顔を出さずに済ませた。


それ以来、Aさんはどんな用事があっても深夜のコンビニには行けなくなった。

自分のバイトしていたコンビニでなくても、コンビニというのはどの店舗も似た造りをしている。だから店に立ち入る度に、あの時の記憶が甦るのだ。


それに……もうひとつ。

急に辞めた理由を聞かれた際、もちろん老婆にされた事をオーナーへ訴えたのだが、彼は警察に届け出るつもりはないと言う。


---オーナーは、




「まぁ、近所の可哀想なおばあちゃんだからさ。何も言わずに許してあげてよ」




とだけ、言っていた。


水曜日の深夜2時……今でも、あの老婆はコンビニに出没しているのかもしれない。

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