運命の相手と出会った婚約者が入れ替わりを提案してきました

通木遼平

運命の相手と出会った婚約者が入れ替わりを提案してきました




「君には悪いが僕は運命の相手と出会ったんだ」


 若い貴族のカップルに人気のバラ園で、その美しい光景を楽しんでいたシルフィアは、突然、婚約者であるフェルスホール侯爵令息アーレントにそう言われ、はしたなくもぽかんと口を開けてしまった。






 シルフィア・カルスはこのイシルマリ王国の伯爵家の一人娘だ。伯爵家と言ってもシルフィアが八歳の時に両親が事故で亡くなり、シルフィアの後見人になった叔父夫婦によって家はすっかり傾いている。何しろ叔父夫婦はシルフィアや古くから伯爵家に仕えてくれている使用人たちの忠告に一切耳を貸さず、贅沢三昧の日々を送っていたからだ。領地経営は父が信頼していた管理人の力を借り、シルフィアの私財も投じてなんとか間に合ってはいた――が、それなりに裕福な領地だとはいえきっと近い将来経営破綻するだろう。


 両親が亡くなった時、叔父夫婦はシルフィアが幼いことと自分たちが一番近い親戚であることを理由に強引に後見人の座に収まり、シルフィアから色々なものを奪い取って好き勝手してきた。子どもながらに聡明だったシルフィアは両親の遺産を含めた自分の財産など叔父たちが勝手をできないようにすぐ手を回した。

 そのことによって叔父たちの当たりは強くなったが、この国の成人年齢である十八になるまでの辛抱だと今までずっと我慢してきた。


 十八になれば、シルフィアは両親の決めた婚約者と結婚し、伯爵家を継げるようになるからだ。


 フェルスホール侯爵家から婚約の打診があったのはシルフィアが六歳の時だった。シルフィアの母はシルフィアを生んだ後、体が弱くなりもう次の子は望めなくなった。そこで早めに婿を探そうとなったのだが、その話を聞きつけた次男の婿入り先を探していたフェルスホール侯爵家がすぐに声をかけてきたのだ。

 伯爵領は穏やかな気候に恵まれ農業や畜産業が盛んだったが、それに加えて小さい金鉱山を持っており、裕福だったのもあって目をつけたのだろう。格上の侯爵家からの申し出を特に理由もなく断ることができず、子どもたちの相性もあるからあくまでとりあえず……という形で婚約を結ぶことになったのだ。

 その二年後に両親が亡くなり、侯爵夫妻は実質伯爵領を手に入れたものだと考え婚約関係をつづけることにした。シルフィアの叔父夫妻は亡くなった伯爵の異父弟――戸籍上は親戚になっているが、叔父はシルフィアの祖父の後妻の連れ子だった――だからと伯爵家を継ぐのを阻止し、ただの後見人に押しとどめた。そしてシルフィアには親切にしながら侯爵家に従順になるように声をかけつづけたのだった。


 とはいえ、シルフィアは伯爵家の使用人たちや領民など善良な大人たちに守られ、本人の聡明さもあって侯爵家に従順にはならなかった。フリはしていたが。

 シルフィアにとって侯爵家とアーレントは叔父夫婦から伯爵家を取り戻し、平穏を手に入れるために必要な存在だった。成人して伯爵家を継げば叔父たちを追い出せるだろうが、後ろ盾があった方がうまくいくと考えていたからだ。叔父たちに好き勝手されるくらいなら侯爵家にそれなりの見返りを用意した方がマシだろうと思った。もちろん、領民たちにとってもだ。


 十八になったらすぐにアーレントを婿に迎え、伯爵家を継ぐ――正直なところ、シルフィアは婚約者に特別な感情を抱いていなかったが、その目的のために結婚する日を指折り数えて待っていた。






 それなのに……。


「な、何をおっしゃっているのですか……?」

「もちろん、君の事情はちゃんとわかっているよ、シルフィア。カルス伯爵家は由緒正しき伯爵家。あんな奴らが好き勝手していいものではない」


 伯爵家が由緒正しいかどうかより、このままでは領民に被害が及ぶのがまずいのだが……シルフィアは内心ため息をついた。アーレントのこういうところが、好感を抱くまで行けない理由だった。


「だけど僕は運命の相手と出会ってしまったんだ。彼女以外と結婚なんてとても無理だ」

「そんなことを言われても……この婚約は侯爵様と亡き父が決めたものです。侯爵様はご存知なのですか?」

「父から了承は得ている」


 アーレントは「当然だろう」という顔をして告げた。


「今後のことも決めてある。僕とシルフィア・カルスの婚約はこのまま継続する」

「えっ?」

「実は僕と彼女の運命は今、かつてない危機に陥っているんだ」


 アーレントが何を考えているのかさっぱりわからない。シルフィアが眉間にしわが寄らないように堪えている間、アーレントは語りはじめた。


 アーレントの運命の人はアーレントと同じ侯爵家の令嬢で、ペトロネラ・ファン=ビューレンという。病弱で、ほとんどずっと屋敷に引きこもっているとシルフィアも聞いたことがあった。妖精のように美しいとも。

 家同士の付き合いもあって幼い頃に数度顔を合わせたことはあったが、先日はじめて成長したペトロネラと会い、アーレントはひと目で恋に落ちたという。それはペトロネラも同じで、二人はすぐに愛しあうようになった――と、アーレントがまるで舞台役者のように語るので、シルフィアはもうこの時点でだいぶうんざりしていた。


 しかしアーレントにはシルフィアという婚約者がいるし、ペトロネラももうすぐ婚約が決まりそうだった。そしてその相手に問題があったのだ。




 ペトロネラと婚約予定の令息――それは王弟を父に持つ、ラファエル・レオ・ヘルムセン公爵令息だった。




 ラファエルは眉目秀麗、文武に優れ、伯父である国王にも気に入られ、王太子とも仲がいいといわれている。が、同時に大の女嫌いと有名だった。少しでも気に入らないことがあると、すぐに暴言を吐くらしい。


 叔父夫婦の一人息子――つまり戸籍上の従弟に会うたび暴力を振るわれそうになっているシルフィアからしてみれば十分に同情できる。が、いくらアーレントとペトロネラがお互いに惹かれ合っていてもそれぞれの婚約は別問題だ。


「ペトロネラはすっかり怯えてしまっているんだ……かわいそうに……僕は彼女を救ってやりたい」

「はあ……」

「それで思いついたんだ。父や母も賛成してくれた。シルフィア、君にも悪い話じゃない」

「何を思いついたのですか?」


 嫌な予感しかしないが。


「ペトロネラと君は髪も目の色も同じだし、背格好も似ている。もちろん、ペトロネラの方が美しいが……君だってまあまあ美しい」


 後半は余計だ。


 シルフィアは胡桃色の髪にやさしい緑色の瞳をしていて、黙っていれば大人しそうな容姿をしていた。シルフィアはペトロネラに会ったことがないが、噂で聞いた容姿はたしかに同じ色だったように思う。もっとも、会ってみないことには実際のところわからないが。


「だから君とペトロネラが入れ替わるんだ」


 「……は?」と、思わず口をついた。


「ちょ、ちょっと待ってください。そんなこと、すぐにバレて問題になるだけです」

「バレなければいいのさ。ペトロネラはほとんど顔を知られていないし、ヘルムセンには当然会ったことがないらしい」

「わたしの叔父にバレたら……」

「君の叔父上にはもう口止めしてある」


 あっさりとそう言ったアーレントにシルフィアは苦い顔をした。つまり、金を渡したのだろう。どのくらいの額を渡したのかはわからないが、叔父たちは嬉々としてアーレントの申し出を受け入れたに違いない。


「父上も一緒に説得してくれたから何も問題はない」


 侯爵はこの無茶な計画に随分と乗り気だなとシルフィアは思った。当然かもしれない……シルフィアとペトロネラが入れ替わっても侯爵家は伯爵領も次男の婿入り先も手に入るままだ――叔父夫婦がそのあたりのことをわかっているかはわからないが――むしろ、シルフィアがいない方が心置きなくアーレントを通じて伯爵領を牛耳れるだろう。しかし、問題があることはわかっていないのだろうか?


「……ファン=ビューレン侯爵夫妻は?」


 やっとアーレントがきまずそうな顔をした。どうやら話が行っていないらしい。


「大切な娘がしあわせになるのを邪魔する親がいると思うかい?」


 そういうことを言っているのではないのだが。


「君はとにかくペトロネラになりすましてヘルムセンと婚約し、すぐにでも結婚すればいい。結婚すればあとはどうにでもなる」


 シルフィアがペトロネラの名前で証明書にサインをしたところできっと無効になるだろうに、どうするつもりなのだろう? それに――


「もうすぐヘルムセンがここにくるからうまくやってくれよ」


 シルフィアの思考はアーレントの次の言葉で打ち切られた。シルフィアは信じられないとアーレントを見上げた。彼はなんてことない顔をしている。しかし今、これからラファエル・レオ・ヘルムセンがここにくると言わなかったか?


「ここでヘルムセンとペトロネラの顔合わせをすることになっている。僕はペトロネラの両親が忙しいから、という理由で人見知りの彼女の付き添いを頼まれたんだ」

「そんな……!!」


 シルフィアは立ち上がって抗議しようとしたが、運のないことにバラ園の従業員が二人に待ち人の到着を告げに来てしまったのだった。






 ラファエル・レオ・ヘルムセンは噂にたがわぬ美しさだった。


 整った顔だち、均整の取れた体、貴族の女性より美しいようにも見える銀色の髪は真っ直ぐで、背中で一つに結ばれている。青と紫が混ざった色の切れ長の瞳は不機嫌そうにシルフィアとアーレントを見た。

 彼は視線と顎で連れてきた従者をシルフィアやアーレントの従者たちがいる場所に行くように示すと、自分は黙って二人に歩みよった。歩き方ひとつにも品がある。こういう状況ではなかったら、きっと見惚れていただろう。


 アーレントが何食わぬ顔で立ち上がったのでシルフィアも仕方なくそれにつづいた。


「散々こちらの用意した顔合わせの場には姿を現さなかったのに今更こんなところに呼び出すとはあきれてものが言えないな」


 最初に飛び出してきたのは氷のような声だった。ラファエルは不機嫌どころか睨みつけるようにシルフィアとアーレントを見据えている。あまりの内容にシルフィアは思わずアーレントに視線を向けた。


「彼女は病弱で中々屋敷から出られない生活を送っていたので、あなたのような高貴な方と会うのはひどく緊張してしまっていたようで、私が説得し、このような場をご用意させていただいたのです。ご容赦ください」


 そんなラファエルに物怖じせずにそう言い切ったアーレントは肝が据わっているのか、それとも何も考えていないのか……ラファエルの形のいい眉が跳ね上がるのを見て、シルフィアは意識を失ってしまいたかった。


「申し遅れましたが、私はフェルスホール侯爵家のアーレントと申します。彼女とはいわゆる幼馴染でして、今回お二人のためにこの場を――」

「もういい」


 ラファエルは言った。


「従者がいるとはいえ婚約を考えている相手の元に男連れで現れるとはいいご身分だ。帰らせてもらおう」

「お、お待ちください! 私はもう席を外しますので!!」


 アーレントは言った。別にペトロネラとラファエルの婚約の話はなくなるのだからいいじゃないかと思わなくもないが、それだとアーレントはシルフィアとの婚約を解消できないから……シルフィアは目の前の状況を無視して考えた。


 フェルスホール侯爵はカルス伯爵領を手に入れたい。伯爵領はシルフィアが成人すればシルフィアと、いずれ彼女の婿になる男のものになる。だから息子のアーレントを婿入りさせれば若いシルフィアとアーレントを操って実質侯爵のものにすることが可能だ。

 シルフィアとペトロネラを入れ替えてもそれは同じ――と、侯爵は考えているに違いない。逆にペトロネラとラファエルの婚約の話がなくなったとしてアーレントとペトロネラの婚約を認めれば伯爵領とは全く無関係になってしまう。おそらく、シルフィアとペトロネラの入れ替わり作戦が成功した場合のみ、アーレントにペトロネラとの婚約を許可したのだろう。ペトロネラの両親をどうするつもりなのかはわからないが……。


 しかし入れ替わり作戦のことがバレれば侯爵は伯爵領を乗っ取ろうとしていると罪に問われるのは間違いない。フェルスホール侯爵家の人間は、シルフィアがそのことに気づいていないと思っているのか、気づいていて黙っていると思っているのか……ずっと従順なフリをしていたから、まさか裏切るなんて思わないのだろう。


「では、あとはしっかりやるんだよ」


 アーレントはそう言ってシルフィアににっこり笑った。婚約者でもないのに呼び捨てにするのはどうかと思う……ラファエルがますます冷めた目をしているのに気づかず、アーレントは従者を連れてバラ園から立ち去ってしまったのだった。






 残されたのはシルフィアとラファエル、それから二人の従者と護衛だけだ。従者たちは少し離れた場に控えている。ラファエルは帰りたそうにしていたが、シルフィアは少し考えて、「おかけになってください」とラファエルに促した。


「なぜ? 私は帰って両親にこの婚約の話をなかったことにする旨を伝えなければならない」


 そのほうがいいだろうなとはシルフィアも思う。が、シルフィアにはもう少し今後のことを考える猶予が欲しかった。このバカバカしい作戦に乗るつもりはちっともないが、シルフィア側の都合もある。




 ラファエルとペトロネラの婚約の話が流れたとして、フェルスホール侯爵はペトロネラとシルフィアならシルフィアをアーレントの婿入り先に選ぶだろう。ファン=ビューレン侯爵家の方が当然シルフィアの家よりも爵位は上。領地も豊かだしファン=ビューレン侯爵は宰相として王に仕えている。しかしペトロネラの上には優秀な兄姉がいて、ペトロネラが生家から得られるものは多くないだろう。そう考えれば、欲しいのはシルフィアのカルス伯爵領の方だ。


 シルフィアが成人し、結婚してそれなりの後ろ盾を得て、叔父夫婦を後見人から外してよそへと追い出し、伯爵領を取り戻したい。それが第一希望なのは変わらない。領地のこともそこに住む人たちのこともシルフィアにとっては大切だった。それに、亡くなった両親との思い出もある……。

 しかし侯爵家やアーレントの好きにさせるのは考え直したくなってきた。叔父夫妻と侯爵夫妻を天秤にかければ、当然侯爵夫妻の方が領地経営自体は問題なく行えるから今まで従順なフリをして過ごしてきたのだが。




「このバラ園は紅茶とバラのジャムの組み合わせがとてもおいしいので、それを楽しんでからご帰宅されても損はないと思いますわ」


 ラファエルを引き留めるためのシルフィアのその回答に、ラファエルは虚を突かれたような顔をした。それから探るようにシルフィアを見て、渋々と用意された席に腰を落ち着ける。ベルを鳴らせば見えないところにいたバラ園のメイドがお茶のしたくをはじめた。従者たちのいる席にも同じようにお茶の用意をと声をかければ、また少し視線を感じる。




 ただ、もしアーレントとの婚約が解消になると、叔父夫妻が強引に従弟との婚約をまとめようとするかもしれない。今までもそういう動きがなかったわけではない。フェルスホール侯爵やシルフィアの親せきがそれを阻止してきただけで。

 従弟はわがままの癇癪もちで、両親に似て贅沢好きの怠け者。しかも気に入らないことがあるとすぐに周囲に暴力をふるおうとする。結婚相手なんてもちろん論外だ。アーレントと我慢して結婚した方がマシなのは明らかである。




 用意された紅茶にジャムを少し落とし、その香りを楽しみながら口にするラファエルの様子を見ながら、シルフィアは自分と伯爵領にとって一番いい答えを探していた。こうなったからには叔父たちからもフェルスホール侯爵家からも縁を切ってしまった方がいいかもしれない……第一希望は、あきらめなければならなくなるけれど。


「たしかに素晴らしいな」


 ラファエルが目を細めて言った。


「しかし病弱で屋敷からほとんど出ていないという話だったのに、ここのことに随分と詳しいようだ」

「侍女から聞いたのです」


 さらりとシルフィアは言った。これは本当だ。シルフィアが、シルフィアの侍女から聞いた。ラファエルが来る前に飲んでみて、話通りのおいしさに感動もした。


「どうだろうな? あの男と来たのではないか? フェルスホール侯爵家のアーレントだったか……婚約者がいたはずだが」


 「そろいもそろって非常識だ」とでも言いたいのだろうか? ラファエルに自分がその婚約者だと告げるべきか、シルフィアは迷った。彼のことをシルフィアは評判や噂以上には知らない。領地について今後の対策を取ってからこの婚約問題をどうにかした方がいい気はした。先に婚約破棄などになってしまえば、叔父夫婦が余計なことをしてくるだろうし、フェルスホール侯爵もシルフィアが成人するなりアーレントと婚姻を結ばせるかもしれない。残念なことに誕生日が近いので、それまでに何もかもいいようにしなければいけなかった。時間がない。


「でも彼がここに来ることはご存知だったのでしょう? 不満に思うのなら来なければよかったのです。ヘルムセン公爵子息様には他にも婚約者候補のご令嬢方がいらっしゃると思いますが……」

「母上がとりあえず行くだけ行くようにと強引にことを進めたんだ」


 不満そうにこたえながら、ラファエルはまた探るようにシルフィアを見た。もしかしたらペトロネラの性格を多少は知っていて、話と違うと思っているのかも……シルフィアは内心焦りを覚えたが、努めて表には出さず、ラファエルと青紫の瞳を見返した。


「婚約者をいい加減決めなければいけないのは事実だからな――君を選ぶことはないだろうが」

「そうですか」


 シルフィアがあっさりとうなずくと、ラファエルは怪訝そうな顔をした。






***






「いったい何を考えているのでしょう!?」


 屋敷に帰ってバラ園のことを侍女のベルに話すと、彼女は信じられないと声を上げた。小さなタウンハウスは現在、シルフィアと使用人たちだけで暮らしている。もっと前は叔父一家もいたが、シルフィアがある程度の年齢になった時に理由をつけて追い出した。






 お茶を飲み終えると、ラファエルとペトロネラの顔合わせはお開きになった。用意周到なことにバラ園の外にはファン=ビューレン家の馬車が止まっていた。他に帰る手段もなく付き添っていた侍女と共に馬車に乗って帰路についたのだが、若い御者はカルス家のタウンハウスまでシルフィアたちを送り届けることなく馬車から下ろし、「美しいペトロネラ様のお役に立てることを光栄に思え」などと伯爵令嬢であるシルフィアにのたまって侯爵家へと帰っていった。

 仕方なく歩いて屋敷に戻り、執事に頼んでファン=ビューレン家のペトロネラについて調べてもらうことにして、シルフィアは私室でほっとひと息ついた。そして帰りを待っていたベルにことの次第を語って聞かせたのだった。






「アーレント様はペトロネラ嬢のことしか考えてないだろうし、フェルスホール侯爵はうちの領地を自分のものにすることしか考えていないのよ、きっと」

「ヘルムセン公爵令息様に話さなかったのですか?」

「とりあえず黙っていたの……そういえば、自己紹介もしなかったわ」


 嘘を重ねなくてよかったと思うべきか。


「公爵令息様はきちんとした方みたいだったけれど、うちのこととは無関係だし……」


 ノックの音が聞こえて返事をすれば執事のダニエルがティーセットと共に入ってきた。父の頃から伯爵家に仕えているダニエルは、本当の意味でシルフィアの父がわりだった。


「ファン=ビューレン侯爵家のことは伝手を使って調べさせております。フェルスホール侯爵家も同じようにいたしました」

「ありがとう。あと、ちょっと相談があるのだけれど……」

「何でございましょう?」


 ダニエルにもバラ園のことを詳しく聞かせ、シルフィアはラファエルの顔をながめながら考えていたことを告げた。


「領地を王家に返そうと思うの」

「お嬢様!? 何を突然――」

「ベル、落ち着きなさい」

「も、申し訳ありません……」

「それで、お嬢様はどうしてそうお考えに?」

「今日のことで、このままフェルスホール侯爵家のいいようにされるのは嫌だなと思って……個人的な感情になってしまうけれど。もちろん、侯爵家の後ろ盾があったほうが領地の人たちにもいいのはわかっているわ……でも、入れ替わり作戦がうまくいってしまったらうちがフェルスホール侯爵家に乗っ取られてしまうことになるでしょう? いっそ婚約解消を狙うという手もあるけれど、アーレント様との婚約がなくなれば叔父たちが口を出してくるのは明白だし……叔父たちに領地を任せたら最悪な結果になるのはわかっているし。だったらいっそ王家に領地を返して、わたしは平民でもいいから領地でのんびり暮らせるようにしてもらおうかなって」


 シルフィアは淹れてもらった紅茶の香りを楽しんだ。


「貴族として考えれば、領地の返還なんて恥ずべきことかもしれない……でも、乗っ取られたらそれこそ恥だし、下手なプライドを優先させて領民に苦労をかけたくないの。お父様やお母様が大切になさった領地がめちゃくちゃにされるのも嫌……。

 もちろん、ダニエルやベル、みんなの雇用先のこともちゃんと考えるわ――それで、成人前だとそういう手続きも難しいかしら? と思って……」

「私たちのことはお気になさらずに、お嬢様がよいと思うようになさってください。お嬢様はいつも我々や領民のことを考えてくださっていますから」


 ダニエルはやさしく微笑んだ。


「手続きのことは詳しい方に聞いた方がいいかもしれませんが……今すぐに、ですと後見人のサインは必要になる可能性が高いかと」

「そうよね」

「ヘルムセン公爵令息様に聞いてみたらいかがですか?」


 いいことを思いついたとばかりにベルは言った。


「ダメよ、わたしはファン=ビューレン侯爵令嬢としてあの方にお会いしたのに……シルフィア・カルスとしては面識がないのよ」


 しかし数日後、意外なチャンスが訪れた。






 愛らしい花柄の美しい封筒がシルフィア宛てに届いた。送り主はなんとペトロネラ・ファン=ビューレンだ。中には便箋が二種類入っている。読んでみるとペトロネラが書いたものと、信じられないことにアーレントが書いたものが一緒に入っていたのだ。


 二人は自分たちの結婚のために入れ替わり作戦をどうしても成功させたいらしい。バラ園の後、ラファエルから婚約の話をなかったことにという手紙が届き、両親の目に触れる前にペトロネラはそれを回収した。

 ラファエルとの婚約がなくなればペトロネラは他の相手を探さなければならないが、それは絶対にアーレントではないし、アーレントもこのままシルフィアと結婚しなければならなくなる。そこでシルフィアに、ラファエルの気を引くようにと手紙を書いてよこしたのだ。


 何度も直接会うとボロが出るかもしれないので、シルフィアがラファエルに手紙を書いて、それをペトロネラに届けてペトロネラがファン=ビューレン家からラファエルへ送る――という方法を取りたいらしい。

 シルフィアは少し考えて、それを受けることにした。そしてバラ園での無作法を詫びる手紙を当たり障りなく書き、言われた通りペトロネラに送った。数日後にはペトロネラからまた封筒が届き、その中にはラファエルからのやはり当たり障りのない返事が入っていた。贈り物もあったかもしれないが、まあそれはいいだろう。


 シルフィアはペトロネラの名前で引きつづきラファエルに手紙を書いた。ラファエルは毎回当たり障りのない内容だったがきちんと返事を書いてくれる。女嫌いと噂だったのに、真面目なのだろう。そのことにシルフィアは好感を持った。


 最初はペトロネラが使っていたのと似た可愛らしい便箋と封筒を使っていたが、シルフィアはさりげなく雰囲気を自分の好みのものへと変えていった。金のインクで描かれた植物の柄が繊細で美しいデザインだった。






*** ***






 バラ園の印象最悪な出会いから一か月ほどたつ。ラファエル・レオ・ヘルムセンはペトロネラ・ファン=ビューレンがよくわからなかった。婚約の話は流すつもりだったが、バラ園での無作法を詫びる手紙が届いてそれに返事をして以来、どういうわけか手紙のやり取りがつづいてしまっていた。

 両親が跡継ぎでもあるラファエルに早く婚約者を決めて欲しいと考えているのはわかっていたものの、ラファエル自身にはその気がなかったのもあって、他の婚約話を進められなくてちょうどいいとあいまいなままにはしていた。両親は手紙のことに気づいてはいるようだったが、どうしてか急かすことがない。


 手紙は当たり障りのない内容だったが、このひと月の間に少しずつ内容も、便箋の雰囲気も変わってきていた。気になってペトロネラについていろいろと調べてはいたが――。


 今日も手紙が届けられ、ラファエルは少し筆圧の弱そうな字で書かれた宛名と送り主の名前を確かめると迷わずに封筒を開いた。ひかえめなバラの香りがする。便箋は金色のインクでツタ植物をモチーフにした縁取りがされている繊細で美しいデザインのものだった。

 が、内容はどちらかというとそんな便箋にそぐわない内容だった。ラファエルは眉をひそめ、二回ほど読み返してから口元に手を当てた。


 手紙はいつもの当たり障りのないやりとりの後に、いつもと違って相談したいことがあるとつづけられていた。それはちょっとした領地をペトロネラは成人後に譲り受けることになっているが、個人的な事情ですぐにでも王家に領地を返したい。しかし保護者に内緒でそんなことができるか知恵を貸してほしい――というものだった。

 侯爵家ならば領地をいくつか持っていてもおかしくはないだろう。しかし、ファン=ビューレン家はどうだっただろうか? あそこの侯爵夫妻は堅実に領地を治めている。宰相を務めているだけあって信頼はあるから、侯爵領以外にも領地を任されている可能性もある――そう考えられなくはないが。


 ラファエルは大きく息を一つ吐いた。ひとまずは、直接会って話を聞こうと。






*** ***






 最初に会ったバラ園の、最初の時よりももっと奥まったところにある東屋に、シルフィアとラファエルは向かい合って座っていた。目の前にはバラ園おすすめの紅茶とジャムが今日も用意されている。


 シルフィアが再びラファエルに、しかも今度は彼からの誘いで会うことになったと報告した時、アーレントとペトロネラは喜んでいた。入れ替わり作戦がうまくいきそうだと。こちらもうまくいってほしい。

 正直なところ、叔父夫婦はシルフィアが成人さえすればもう関係ないと締め出すことができるようになった。遠縁も含め、親戚に相談して手を回してもらったのだ。親戚は喜んで叔父夫婦を追い出す手続きをしてくれる。そもそも戸籍はともかく血のつながりがないのだ。その上、貴族というのは血を重要視するから。

 そうなると問題は叔父夫婦よりもフェルスホール侯爵家の方だった。さすがに親戚には頼れない――親戚は皆、伯爵家よりもさらに下の爵位か裕福な平民だったから。しかし領地を王家に返してしまえば間違いなく侯爵家は余計なことはできないし、今の国王陛下も王太子殿下も真面目なのでいいようにしてくれるだろう。


「それで、領地を王家に返したいという話だったか?」


 あいさつもそこそこに、ラファエルが本題を切り出した。今日の彼もなかなか不機嫌そうだ。


「はい、できれば内密に……」

「理由は?」

「それは……申し訳ありませんが、言えません」


 何か適当な理由がないかといろいろ考えたが、結局思いつかなかったのでそのあたりはこれで押し切るつもりだ。それを感じたのか、ラファエルはため息をついた。


「成人前で保護者の許可なくそういったことをするのはまず無理だ」

「そうですか……」

「だが根回ししておくことはできる」

「根回し? ですか?」

「話を通して書類を用意しておく。成人になったらすぐに受理されるようにしておけば誕生日を迎えた瞬間に領地を返還することもできる。もちろん正規のやり方じゃない。成人の誕生日が近い時だけ多少のフライングには目をつむっている、ということだ。受理は成人を迎えてからになるから問題もない」

「それは……でも知り合いや親戚が王宮で働いていない場合は無理ですよね……?」

「そうだな」


 「そうですか」とシルフィアは眉を下げた。さて、どうしよう……親戚の顔を思い浮かべるが、王宮で領地に関係する部署に勤めている人はいなかったと思う。


「そんなに領地を返したいのか?」

「はい……できれば、すぐにでも」

「……どうしてもと言うなら、私が話をつけてやってもいい」

「えっ?」

「働いている部署は違うが、多少は顔が利く」

「い、いいのですか?」

「だが書類はどうする? 内密にしたいなら家に送るわけにもいかないだろう?」

「それならまたここでお会いできませんか? お忙しいのに申し訳ありませんが……お礼にできることはなんでもいたしますから」

「婚約を諦めろと言ったら諦めるか?」


 シルフィアはきょとんとした。


「はい、もちろん。かまいません」

「……もしかして手紙をつづけていたのはこのことを聞くためか?」


 素直にうなずけば、不機嫌そうな瞳があきれた色を帯びた。


「それに、婚約のことは……わたくしも元々あまり乗り気ではなかったのです」

「フェルスホール侯爵令息がいるからか?」

「えっ? あ、いえ――彼のことは別に」

「前回はわざわざ連れて来たのにか?」

「あれは彼が勝手にしたことです」


 言葉を選びながらシルフィアは答えた。余計なことを言うと、入れ替わりがバレるかもしれない。もうバレてもいいような気がするが。


「どうして婚約に乗り気ではないのですか?」


 ふと疑問に思ったことをシルフィアはたずねた。幸い、ラファエルは不快に思わなかった様子で少し考えるように視線を伏せた。

 ラファエルの年齢と身分ならせめて婚約者くらいいてもおかしくはない。しかし彼にそういう話が中々ないのはシルフィアですら知っていることだった。


「こう言ってはなんだが、私に近づく令嬢たちは大抵私の見てくれや身分しか目に入っていなかった。まともな令嬢がいても、今度はその父親や兄弟が公爵家という蜜に群がってくる……そういう相手がわずらわしくて、避けていただけだ」


 公爵夫妻もそのあたりはよく気をつけて相手を探していたらしい。が、もういい年齢だし同年代の女性は婚約者が次々決まっていてこのままでは相手がいなくなってしまう。それで人柄のいいファン=ビューレン侯爵夫妻の娘に声をかけた、というわけだ。


「君の前にも婚約者候補には会ったが、断るとみな追いすがってきた。うんざりしていたが――君は違うんだな」

「女性だからとみな同じではありませんよ」


 たしなめるようにシルフィアが言うと「そうだな」とラファエルは表情を緩めた。やわらかな、月の光に似た笑みだった。






***






 ラファエルの助けもあり領地を返還する書類などを用意して話し合いを進め――どこの領地なのかラファエルに知られないようにするのには気を遣ったが――シルフィアが成人を迎えたその日に領地を王家へと返還できることになった。伯爵家はなくなるが、国か新しい領主の元できちんと管理されれば領民への影響は少なく済むはずだ。そのあたりはくれぐれもよろしくお願いしますと、シルフィアは何度も頭を下げた。

 貴族なら領地や爵位を返すことを不名誉だと思うかもしれないが、シルフィアは手続きを終えてからはこれが最善だと感じた。使用人たちの仕事はもちろん、シルフィアもできる仕事を探してもらえることになって十分すぎる結果になったと思う。


「ラファエル様のおかげです」


 すっかり親しくなった――と、シルフィアは思っていた――ラファエルにシルフィアは改めてお礼を言った。最後の話し合いを終えたばかりだった。お礼を言いたかったのもあってこの後会う約束をしていたのだが、ラファエルはわざわざ王宮へ出向いてくれたようだった。


「私は何もしていない。君はよく決断したと思う」

「そうでしょうか……?」

「ああ」


 シルフィアは困ったように笑った。自分にもう少し力があれば叔父夫婦もだがフェルスホール侯爵家にだって余計なことを言わせなかったし、領地を返さなくてもよかっただろう。結局、他の人に任せるという決断しかできなかった。


「お礼をさせてください、ラファエル様。いつものバラ園でよければ……」

「いや、今日は別に行きたいところがある。お礼をしたいというならそこで」

「行きたいところですか? かまいませんが……その、お恥ずかしいですがあまり高級なところは……」

「その心配はいらないから安心していい」


 ラファエルが笑うと、すれ違う人がぎょっとして振り返った。この頃、彼はこうしてよくシルフィアの前で表情をやわらげてくれるようになっていた。が、他の人には驚くべき光景だろう。


「それに君に会わせたい人がいる」


 「誰ですか?」と聞こうとした声はしかし別の声によって閉じ込められた。「ペトロネラ!」と聞き覚えのある声に振り返ると、久しぶりに姿を見る婚約者が笑顔で近づいてくるところだった。「ご無沙汰しております」とラファエルにあいさつをしたアーレントは、嬉しそうにシルフィアを見た。


「君が王宮にいるなんて珍しい」


 ラファエルとこうやって親しそうに並んで歩いているのを見て入れ替わり作戦がうまく行っていると上機嫌なのだろう。


「ええ……少し用事がありまして」

「もしかして、婚約のことですか?」


 アーレントはやや早口でラファエルにたずねた。さっきまでシルフィアに微笑んですれ違う人を驚かせていたラファエルだったが、今は表情をごっそりと落としてしまっている。


「そうだ」


 シルフィアは「えっ」とこぼれそうになった声をごくりと飲み込んで口をぎゅっと結んだ。


「近いうちに婚約披露の夜会を開こうと思う。招待状を送るからぜひ出席してくれ。婚約者のご令嬢も一緒に」

「ええ、もちろんです!」


 嬉しそうに言うアーレントにシルフィアはなんとも言えない顔をした。きっと彼は入れ替わりがうまく行ったと確信しただろう。


「では、失礼する――行こうか」


 差し出されたラファエルの腕にシルフィアは緊張気味に手を添えた。そういえば、こんな風にエスコートされるのははじめてだった。バラ園でも一定の距離を保っている。

 彼は誰との婚約を発表するつもりなのだろう? 見上げた横顔はまだ表情が戻っていなかったが、まあどちらにしろ成人と同時に平民になる自分には関係ないかとシルフィアは気にしないことにした。


 なんとなく、胸がちくりと痛んだ気がしたけれど。






*** ***






 ヘルムセン公爵家のタウンハウスではその日、美しい夜会が開かれていた。


 中々婚約者を決めなかった嫡男のラファエルがやっと相手を見つけたため、お披露目の場を開いたのだ。その相手はファン=ビューレン侯爵家の令嬢で、招待客はその姿を見たことがない者ばかりだったので、一体どんな令嬢が女嫌いと有名のヘルムセン公爵令息の婚約者の座を射止めたのだろうと噂し合っていた。


 フェルスホール侯爵家の面々は上機嫌でその噂話に耳を傾けていた。アーレントの腕には胡桃色の髪と緑色の瞳をした美しい令嬢の腕が絡められている。その距離は婚約者だとしても少しばかり近すぎて、傍にいる人々が冷めた視線を向けていたが、彼らは少しも気づかなかった。もちろん、怪訝そうに彼らを見る人たちの目も気づかない。


「大勢の方がいらっしゃっているのね」


 おっとりと甘さを含んだ声がアーレントに語りかけた。


「わたくしたちの結婚式も、このくらいお客様を呼びたいわ」

「もちろんだよ、


 にっこりとアーレントは笑った。そして美しい婚約者の耳元に唇を近づける。


「公爵家が入場してここにいる人たちがあいさつに向かったら、そっと庭園に出ようね」

「どうしてですの? 一曲くらい、踊りたいわ」

「ファン=ビューレン侯爵夫妻に鉢合わせたらまずいだろう? ダンスなら庭園でも踊れるよ。音楽が聞こえるだろうし、二人きりの方がロマンチックだろう?」

「まあ、そうですわね」


 ファン=ビューレン侯爵夫妻は上座の方にいて、距離がある。一瞬そちらに視線を向けてからそっと顔を伏せ、クスクスと婚約者は笑った。仲睦まじい息子とその婚約者の様子に、侯爵夫妻も満足そうな笑みを浮かべている。


 音楽がなり、公爵家の入場を告げる声が響いた。公爵夫妻とその子どもたちが上座の一段高くなっている席へとそろう。その嫡男の腕には、胡桃色の髪とやさしい緑色の瞳をした令嬢が、ほっそりとした手を控えめに添えていた。


「今宵は我が公爵家の夜会に足を運んでくれたこと、感謝する」


 深く響く公爵の声に客たちは頭を下げた。


「今宵の夜会は私たちの息子、ラファエルのための夜会だ。はじめる前に息子から発表がある。ぜひ聞いてほしい」


 ラファエルは父と視線をかわすと小さくうなずき、傍らの令嬢と共に前に進み出た。会場の誰もが、その令嬢こそ婚約者に選ばれたファン=ビューレン家の令嬢だと信じて疑わなかった。


「皆様、今宵は私どものためにお集まりいただき、ありがとうございます」


 正装姿のラファエルに、会場にいる令嬢たちからため息がこぼれた。女嫌いと噂されていても、彼の魅力はほとんど損なわれないらしい。


「私、ラファエル・レオ・ヘルムセンはここにいるファン=ビューレン家のご息女と婚約することとなりました」


 ラファエルの紹介を受けて令嬢が美しい礼をすると、会場から温かい祝福の拍手が湧きおこった。見つめ合い、しあわせそうに表情をやわらげる若い二人の姿に、誰もが心からの祝福を送っていた。ラファエルの美しさにため息をついていた令嬢たちも、可憐な婚約者と並ぶラファエルはますます美しく見えて、文句のつけようがなかった。


 特に喜んでいたのは、フェルスホール侯爵家の面々だろう。彼ら自身、ある意味で自分たちこそこの場で一番の幸せ者だろうと考えていた。


「さあ、シルフィア。ごあいさつを」




 ラファエルが、そう告げるまでは。




 会場の一部がにわかにざわめく。誰もがそのざわめきの方を振り返った。中心にいるのは、先ほどまで上機嫌だったフェルスホール侯爵夫妻とその次男、それから彼の婚約者の令嬢だ。

 「カルス伯爵令嬢と同じ名前だ……」と誰かがささやいた。アーレントの美しい婚約者が、困惑した瞳をアーレントに向けた。


「カルス伯爵令嬢はあんな顔だったか?」

「別人のように見えますが……」

「しかしさっきシルフィアと呼ばれていたぞ……?」


 ヘルムセン公爵が咳払いをし、会場の視線を息子たちへと戻した。婚約者に対してやわらかい表情を見せていたラファエルは、今は会場の客たちがよく見慣れた無表情になっている。冷たい視線に、ざわめきは一時やんだ。

 「ラファエル様」とたしなめるようにシルフィアはそっと彼の袖を引いてから、気を取り直して再び会場に礼をした。


「ご紹介にあずかりました、シルフィア・ファン=ビューレンと申します。元はカルス伯爵家の者でしたが――」

「どういうことだ!?」


 耐えきれないとばかりに声が上がった。ラファエルとシルフィアが視線を向けると、混乱を顔に浮かべたアーレントが口を開けていた。


「き、君はペトロネラだ!! そうだろう!?」

「お前の腕にぶら下がっているのがペトロネラ・ファン=ビューレンだろう」


 答えたのはラファエルだった。感情をごっそりと削ぎ落した冷たい瞳がアーレントを射貫いていた。


「なっ……! ち、違う! 彼女はシルフィア・カルスで、僕の婚約者だ!!」

「ご子息はそう言っていますが?」


 アーレントの顔は真っ青だったが、その両親はまだ冷静さを欠いていなかった。しかし瞳には動揺がちらちらと見え隠れしている。


「次男のアーレントは幼い頃よりカルス伯爵家へと婿入りするためシルフィア嬢と婚約しておりました。その息子がシルフィア嬢以外の誰をエスコートしてくるというのでしょう?」


 よどみなく、侯爵は言った。


「ラファエル殿は彼女がペトロネラ嬢だと言うが、ファン=ビューレン侯爵家で決まった相手のいないご令嬢はペトロネラ嬢だけ……しかもシルフィアという令嬢はいないはずだ。あなたのとなりにいるご令嬢こそ一体誰なのです?」


 「発言してもよろしいでしょうか?」とヘルムセン公爵にうかがいを立てたのは黙ってその場を見守っていたファン=ビューレン侯爵だった。ヘルムセン公爵がうなずくと、彼は一歩進み出て、フェルスホール侯爵へと向かい合った。


「彼女は間違いなく我が家の娘ですよ、フェルスホール侯爵。先日、養子に迎えたシルフィアです。あなた方には元カルス伯爵令嬢のシルフィアと言った方がわかりやすいでしょうか?」

「は――?」

「そして残念なことに、あなたのご子息のとなりにいるのも我が娘……ペトロネラです」


 アーレントとペトロネラは真っ青な顔で言葉をなくしていた。


「そ、そこにいるのがカルス伯爵令嬢のシルフィアだと言うのなら、ラファエル殿の婚約者だというのはおかしな話だ! シルフィアは我が息子、アーレントと正式に婚約している!!」

「貴殿の息子とシルフィア嬢との婚約は陛下の命で白紙に戻された」


 淡々と公爵は告げた。


「は、白紙……!?」

「わたくしが一時的に平民となったのもありまして、陛下に事情をお話し、白紙に戻していただいたのです」

「平民だと!? どういうことだ!?」

「領地と爵位を王家に返還いたしましたので」

「領地を返還だと!? 何を勝手に!!」


 真っ赤な顔をして声を荒らげるフェルスホール侯爵を、シルフィアは冷静に見返していた。


「今までの恩を忘れたのか!?」

「確かに侯爵家の方々にはお世話になりました。領民の生活と――亡き父母との思い出の地を守れるのであれば、アーレント様と結婚した後、侯爵家の方々が伯爵領のことに口を出したとしても目をつぶろうとさえ考えておりました。ですが、今回のことは……」


 会場はいつの間にか静まり返っている。フェルスホール侯爵家の三人とペトロネラは顔を青くしたり赤くしたりしながらシルフィアを見ていた。


「王家から伯爵領を預かる家の者として見過ごせませんでした。生まれ故郷を愛する者としても。わかっているのですか? あなた方のしようとしていたことは、伯爵領の乗っ取りです」

「フェルスホール侯爵家の者とペトロネラ嬢は共謀してシルフィアとペトロネラを入れ替え、私を騙し、シルフィアを騙ったペトロネラとその婿になったアーレントにカルス伯爵領を継がせようと考えていた。豊かな伯爵領を手中に収めるために」


 ラファエルの言葉に静まり返っていた会場はまたざわめきを取り戻した。


「王家に隠れて伯爵領を手中に収め、勢力を拡大しようとするとは――」


 ヘルムセン公爵の言葉には静かな迫力があった。怒りで赤くしていた顔を一転青くし、「そのようなつもりは……!!」とフェルスホール侯爵が慌ててももう遅かった。公爵の命で控えていた衛兵がフェルスホール侯爵家の面々とペトロネラを拘束する。


「言い訳は牢で聞こう――連れていけ」


 連行される四人は醜くわめいて抵抗したが、誰もがそれを不快そうに見るだけだ。やがてその声も遠ざかり、会場には先ほどよりも幾分静まったざわめきだけが残されていた。


「見苦しいものを見せたな」


 そう言って公爵が客に謝罪をすると、控えていた給仕が乾杯用のグラスを配る。琥珀色のそれは王家の祝い事のみでふるまわれるスパークリングワインで、客たちは驚きと喜びのため息をもらした。


「見苦しいものは忘れ――改めて、今宵は楽しんで行ってくれ」


 ラファエルはシルフィアに視線を向けた。少し疲れた顔をした彼女は、それでもグラスを掲げてそっと口元を緩ませた。






*** ***






 時はさかのぼり――


 王宮で領地返還のあれこれを終えてラファエルと合流し、アーレントに出くわした後、シルフィアはラファエルに連れられてヘルムセン公爵家のタウンハウスを訪れた。伯爵家の屋敷とは全く違う美しい公爵邸にシルフィアはうっかり口を開けてぽかんとしてしまったが、ラファエルがおかしそうに笑う声にハッと我に返って恥ずかしさに頬を赤く染めた。


「気に入ってもらえたか?」


 折角だからと前庭を案内しながら、ラファエルはやさしくたずねた。


「ええ、素敵なお屋敷だと思います」

「ここで一緒に暮らさないか?」

「えっ?」


 ラファエルは婚約者が決まったと言っていなかったか? それなのに一緒に暮らそうなんて……まさか、愛人として? 困惑するシルフィアの前に、ラファエルはさっと膝をつき、そのほっそりとした手を取った。


「私と結婚してほしい」


 青紫の美しい瞳が、やさしくシルフィアを見上げている。


「シルフィア・カルス嬢――」


 甘く告げられた名前に、シルフィアは驚きに目を丸くした。「自己紹介をしてもらえなかったからな」とラファエルは笑った。


「勝手に調べさせてもらった」


 どうして? 困惑と混乱でいっぱいになりながら、シルフィアは自分の手を握るラファエルの手と、自分を見つめるラファエルの瞳を交互に見た。


「わ、わたしも、自己紹介をされていません」

「そうだったか?」

「たぶんそうです……でも勝手にお名前をお呼びしていたことになりますね」

「気にしなくていい。君に名前を呼ばれて嫌ではなかったから。それで、返事は?」

「えっ?」

「プロポーズをしているんだが?」


 シルフィアはぱちりと瞬きをし、それから状況を思い出してバラ園のジャムのように顔を赤く染めた。


「調べたならご存知だと思いますが、わたしは領地を返還するので平民になります……」

「身分が関係なければうなずいてくれるのか?」


 その問いに、シルフィアは小さくうなずいた。






 嬉しそうに笑ったラファエルに屋敷の中に案内され、応接室の一つに通されると意外な人と顔を合わせることになった。ラファエルがシルフィアに会わせたかった人は、ファン=ビューレン侯爵夫妻だった。

 二人はラファエルからフェルスホール侯爵家のアーレントが、シルフィアをペトロネラとしてラファエルに引き合わせたことを聞いていた。事情がわからず困惑する二人に、ラファエルに促されて事情を――アーレントとペトロネラが愛しあっていて、入れ替わり作戦を思いついたこと、フェルスホール侯爵家は何もかも承知の上であることなどを説明すると、ファン=ビューレン侯爵夫妻はあまりのことに顔を真っ青にした。


「何もご存じなかったのですか?」


 ラファエルがたずねた。


「ペトロネラがフェルスホール侯爵家のアーレントと親しくしているのは知っていました。幼い頃に何度か会わせたことがあったので、なつかしんでいるのだろうと……しかし節度は守るようにとくり返し注意はしておりました」


 ファン=ビューレン侯爵は顔を青くしたまま静かに答えた。


「ペトロネラは幼い頃から体が弱く、屋敷にこもりがちで人との接点がなかった……アーレントと親密になって欲しかったわけではなく、彼をきっかけに、それこそ婚約者であるシルフィア嬢をはじめとして他家の令嬢たちと接点ができればと思っていたのです」

「あの子を決して甘やかしたつもりはありません。家庭教師も他の子と同じようにつけていました。ただ、あの子は自分自身で体が弱いことを言い訳にして嫌なことから逃げ出すこともあったので、わたくしたちも注意してはいたのです……それがまさか、このようなことになるなんて」


 侯爵夫人の震える声にシルフィアはラファエルを見上げた。彼は侯爵夫妻を責めるつもりはないようだった。シルフィアから見ても、二人はいい人だと思う。


「シルフィア嬢、本当に申し訳なかった。どうわびたらいいのか……」

「顔を上げてください、侯爵様」


 頭を下げる侯爵に、シルフィアは慌てて声をかけた。


「今回のことで、フェルスホール侯爵家と縁を切ることを決意できたのはわたくしにとってもいいことでした。それに全てフェルスホール侯爵家の方々やペトロネラ様が勝手に考えたことです」

「しかし……」


 ファン=ビューレン侯爵はラファエルに視線を向けた。シルフィアは本当に気にしていなかったし、侯爵夫妻からのおわびは必要ないと思っていた。が、侯爵夫妻はそれでは気持ちが収まらなかった。


「当のシルフィアが気にしていないのなら、お二人が気にすることはないでしょう」


 ラファエルはつづけた。


「ですが、個人的にはシルフィアのために一つ協力していただきたいことがあるのです」


 シルフィアはラファエルを見上げた。何のことだろう?


「今回の件がきっかけで、シルフィアは成人と同時に伯爵領を王家へ返還することになりました」

「まあ! そんな……ご両親との思い出もあるでしょう?」

「領地で暮らす人たちもいますから……フェルスホール侯爵家と縁を切れば、今わたくしの後見人となっている叔父たちが伯爵家を乗っ取ろうとします。叔父たちは――身内の恥をさらすのは心苦しいですが、領主としては正直ふさわしくありません。領民たちのことを思えば、亡き両親も納得してくれるはずです……」


 気づかわしげにシルフィアを見る侯爵夫妻に、シルフィアは微笑みを浮かべた。そっと伸ばされたラファエルの手が、ひざのうえに置かれていたシルフィアの手を握った。


「シルフィアは成人すると同時に平民となります――が、私はシルフィアを妻にしたいと思っているのです」


 侯爵夫妻は目を丸くしたが、すぐに何もかも理解したようにうなずいた。


「シルフィアをファン=ビューレン侯爵家の養子としていただけないでしょうか?」


 今度はシルフィアが目を丸くする番だった。






*** ***






 はじめて出会った日から、季節の移ろいと共にバラ園はその彩を変えていた。今は少し小ぶりのバラが見ごろらしく、愛らしいその姿は自然とシルフィアの頬を緩ませた。






 ラファエルがファン=ビューレン侯爵夫妻にシルフィアを養子にして欲しいと頼んだ日、シルフィアが驚いている間に侯爵夫妻はラファエルの頼みを快諾し、いつの間にか養子縁組の書類が用意され、事情を知ったシルフィアの親戚たちは純粋にシルフィアがいい縁を結べたことに喜び、金に目がない叔父夫妻はその後どうなるのかよく考えもせずヘルムセン公爵家とファン=ビューレン侯爵家が用意した金を満足げに受け取ってシルフィアを養子に出すことを了承した。


 晴れてファン=ビューレン侯爵家の養子となったシルフィアは、養父母とラファエルのすすめで国王陛下に謁見し、領地のことやフェルスホール侯爵家のことを告げてアーレントとの婚約を白紙に戻してもらい、改めてラファエルとの婚約を結んだのだった。

 国王陛下は公爵家の跡取りであるにも関わらず中々伴侶を決めなかった甥をずっと心配していたらしく、シルフィアをラファエルの伯父としても歓迎してくれた。


 夜会の後、カルス伯爵家の乗っ取りを企てた罪によってフェルスホール侯爵家は今回の件に関わっていなかった長男が当主となったが爵位は子爵家に落とされ、領地のほとんどを取り上げられてしまった。

 侯爵とアーレントは罪人として別々に僻地へと送られ、罪を償うまでそこで働かされる。重罪人の送られる開拓地で、やせた土地はろくな植物が育たず、水も手に入りにくい。そこで働く罪人たちはみなやせ衰えていて死人が後をたたない。

 侯爵夫人は女性用の収容所に送られ、労働を課せられている。そのほとんどが内職だが、見た目も雰囲気も暗いその場所は精神を病む者も多いという。

 フェルスホール侯爵家の人間ではないが共犯として罪に問われたペトロネラはファン=ビューレン侯爵家から絶縁され、平民として戒律の厳しい修道院に送られた。おそらく一生出ることはできないだろう。


 ラファエルはペトロネラはともかくフェルスホール侯爵家の人間が罰として労働を課せられたことはシルフィアに話したが、どういう場所でどういう労働を課せられたかまでは話さなかった。シルフィアもそれは聞かない方がいいのだろうと感じ、ラファエルや養父母にたずねることはなかった。






「今日はバラ園がすいているみたいですね」


 いつもなら入口に何台か馬車があるのだが、今日は見かけなかった。ここは相変わらず貴族の若いカップルには人気の場所なのに、珍しいこともあるものだ。


「ああ、貸切ったからな」


 と、思ったのにラファエルがあっさりそう言ったのでシルフィアは驚いて目を丸くした。


「二人きりで静かに過ごしたかったんだ。ファン=ビューレン候とご夫人は多少気を遣ってくれるが、我が家だと父上も母上も君にかまいたがるし……結婚式のことだって、二人で決めたいこともあるだろう?」


 ラファエルは意外とロマンチストなところがあるとシルフィアはもう知っていた。「そうですね」と笑うと、目元を少しバラ色に染めてラファエルは目を細めた。


「笑いたければ笑えばいい。君なら許す」

「フフ、ありがとうございます」

「それから、二人きりの時に結婚の贈り物をしたかったんだ」


 シルフィアは笑いを引っ込めてラファエルを見上げた。従者が持っていた包みをラファエルは受け取り、それをシルフィアに差し出した。細長い筒だった。結婚の贈り物としては、珍しい形だ。「開けて見てくれ」と言われ、シルフィアはポンっと小気味いい音をさせて筒の蓋を開き、中に巻かれた状態で入っていた紙を取り出してゆっくりとそれを広げてみた。


 丸まった癖のついた紙は、その大きさもあって少し広げにくい。


「これ……!」

「陛下――伯父上が、結婚祝いに領地をくださった。父上も公爵位を継ぐ前にまずは賜った領地から治めてみるようにと」


 シルフィアは受け取った紙と、ラファエルの青紫の美しい瞳を交互に見た。


「シルフィア、君と一緒にその地を治めたらと思っているんだが……どうだろう?」


 たずねながら、ラファエルはやさしくシルフィアに微笑んだ。


 その紙は地図だった。ラファエルが新たに賜った領地の地図だと、シルフィアにはわかった。しかしそれ以上に、シルフィアはその地図をとてもよく知っていた。きっとこの国の、どこの地図よりも知っているだろう。


 涙で滲む瞳でラファエルを真っ直ぐに見てしあわせな笑顔を浮かべたシルフィアは、地図を抱きしめた。ラファエルは返事を急かさなかったが、彼女の答えを、もう知っている。


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運命の相手と出会った婚約者が入れ替わりを提案してきました 通木遼平 @papricot_palette

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