回想あの春 そしてこれから

如月 兎

回想あの春 そしてこれから

 「私、桜好きなの」


 あの日のさよりの声で、春人ハルヒトは目を覚ました。朝の清々しい光が窓から差し込んでいる。まだ半分眠ったままの頭にぼんやりと浮かんでいるのは、あの大きな一本桜、そして自分の隣で一緒に桜を眺めるさよりの横顔。どうやら随分と懐かしい夢を見ていたらしい。あの場所には今年もあの桜が咲いているのだろうか。春人はベッドから起き上がり、ゆっくりと部屋のドアを開いた。


 春人がさよりと再開したのは、本当に偶然と彼女の気まぐれによるものだった。二月のはじめ、春人が中学生時代の男友達と久しぶりに食事をしていたとき、その友人がふいにスマートフォンを取り出し、どこかに電話をかけ始めた。聞けば、当時よく一緒に遊んでいた女子に誘いをかけようとしているらしい。それを聞いたとき、春人は自分の心の中で長く眠っていた感情が、優しく色づいていくのをかすかに感じていた。そして彼女が今からこの店に来ると聞いたときには、心はまるで、10年前の中学生のころに戻ったかのように鮮やかな色に染まり、まさに10年ぶりに大きく高鳴ったのだった。

 卒業式の日、彼女にはもう二度と会えないのだと覚悟した。最後まで想いを伝えることはできなかった。答えを知ってしまうのが、それで自分が傷ついてしまうのが、自分の告白が彼女を傷つけてしまうのが、どうしようもなく怖かったから。でも灰色のわだかまりは心の隅に小さく残り続け、もし、また好きな人ができたら、今度はちゃんと伝えようと強く思うようになっていた。

 だからさよりが席の隣に立ったとき、今まで出会ったどんな女性よりも綺麗だと心から思ったとき、春人の心は決まっていた。三人で楽しい時間を過ごしたあと、春人はすぐに彼女にメッセージを送った。今日のお礼、それから遊びの誘い。いきなり二人で遊びにいくのは抵抗があるかもしれないと、送ったメッセージの内容に不安も覚えたが、彼女はあっけなく了承してくれた。もしかしたらさよりもまた、春人のその人柄に好意を抱き、彼との新しい未来に期待していたのかもしれない。

 さよりと三回目に遊んだとき、海の見える展望台で春人は彼女に告白した。抵抗はなかった。はじめから言おうと決めていたことだ。それに、言えない後悔を、春人は知っていたから。さよりは照れた笑みを浮かべながらしばらく間をおき、それからこくんと、小さくうなずいた。こうして、はじめて恋をした女の子は、はじめての彼女になった。


 それからひと月ほど経ち、山里にも早い春が訪れ、まだ少し冷たい風が生き物の眠りを覚ます三月の中旬、春人はさよりとともに南砺の山里を訪れた。さよりから桜が好きと聞き、知人におすすめの場所を教えてもらったのだ。ここには有名な一本桜があるらしい。その桜は向野の桜と呼ばれていて、もう長い年月を生きているが、春になると未だにそれは見事な桜の花を咲かせるそうだ。今年は開花時期が例年よりもかなり早いというので、満開だったらいいね、なんて話しながら、川沿いの道を上流に向かって車を走らせた。やがて、なだらかな山々に囲まれた田園風景が二人を優しく迎えてくれた。山が葉を茂らすにはまだ早い時期だったが、空は澄んだ水色で、薄い雲がのどかに漂っている。

 春人は田んぼのわきに車をとめ、あぜ道をさよりと並んで歩いた。ずっと片思いをしていた人と手をつないで歩く。それは春人自身にとっても、まだ実感しがたい事実であり、もしかしたらこれはユメなのではないかとさえ思えてしまうほどであった。それでも、田んぼや畑に挟まれた坂道を上っていくにつれ、太い枝を何本も伸ばし、堂々と自生している大きな桜が瞳に映り込んでいったとき、春人は自分が今ここにいるのだとたしかに感じたのだった。

はじめて見た向野の桜はまだ五分咲きほどだったが、それでも、ほのかなピンク色を二人、いつまでも見上げていた。彼女の甘い匂いに、心を奪われながら。

 「早すぎたね」

 そう言って笑い合ったときの彼女の笑顔を、春人は生涯忘れることはないだろう。あの瞬間、二人の心は通い合い、自分のすべてをさらけ出してもいいのだと、二人はこれからもずっと共に生きていくのだと、そう確信した。 


 ・・・


 「春だねー」

 さよりはうーんと背伸びをしながら助手席のドアを開け、車を降りた。空は青く、羊雲が群れをなして行進している。時折吹いてくる暖かな風は長い冬の終わりを告げ、道端にはスイセンが鮮やかな黄色の花びらを広げていた。ここは富山県南砺市。今日、春人はあの日と同じように川沿いの道を車で走り、再び向野の桜を見に来ていた。

 うん、と春人は穏やかに返事をして、さよりの隣を歩く。手はつながず、それでも離れないように横を歩く。観光客は何人かいたが、特別騒がしいこともなく、ゆっくりと流れる時間が二人を包み込んでいた。

 「でも久しぶりだね。お昼から一緒に出かけるの」

 「なかなか休みが合わないからね。しょうがないよ」

 「ごめんね。土日のお休み、なかなかとれなくて。」

 「全然!逆に俺は平日休みとれないし、それに、夜ご飯を一緒に食べられるだけで、十分嬉しいから」

 ありがとう、と少し恥ずかしそうに笑うさより。それからしばらくの沈黙をおいて、さよりはまた、今度は少し申し訳なさそうな口調で春人に問いかけた。

 「でも、一週間に一回も会えない日もあるし、春人くんは寂しくない?」

 「そりゃ、俺はいつだって会いたいけど、それを強要するのは違うと思ってる。そっちにはそっちの予定があって、会いたいときとそうでもないときだってあると思うから。だからさ、会えるとき、会いたいときに連絡してほしい。そしたら、俺はいつだって迎えに行くから」

 そう言って春人は、会える日や頻度を気にするさよりを安心させようとせんばかりに、満面の笑みを浮かべた。あぜ道は緩やかに弧を描き、その先の上り坂へと続いていく。坂道を上るにつれ、再び、あの一本桜が姿を見せ始めた。緊張が走る。

 「あ!満開じゃない?」

さよりが感嘆の声をあげた。さよりの言う通り、向野の桜は綺麗なピンク色の花びらを、木のてっぺんから見事に咲き誇らせている。あの日とは違い、桜はまさに、満開の最中にあった。桜を見上げながら春人は静かに歩いていく。その美しさに、全神経を集中させながら。

やがて二人は桜の根元までやってきた。天を仰げば、青空に敷き詰められた桜の雲が、風が吹き抜けていくそのたびに、ピンク色の雨を点々と振らせている。春人は心の中で静かに、されど力強く言葉を編んだ。


 あの日とは違う。今ここにあるのは満開に咲く一本桜。幸せの絶頂を噛み締めて花は開く。


 隣で桜を眺めていたさよりがふいに口を開いた。

 「そういえば川の向こうにも桜を見に来てる人がいるね。せっかくだし、あっちからも見てみない?」

 春人達のいる場所から見て、桜の向こう側には川が流れており、向野の桜はその山田川の堤防沿いに自生していた。川を渡った向こう側にも田園風景が広がっていて、たしかにそこからなら、遠くの蒼い山々を背景に、別の表情の桜を眺めることもできる。春人はうん、と頷き、もと来た道を引き返すことにした。

山田川にかかる橋を渡り、春人はゆっくりと振り返った。細めた瞳に、いささか遠く、小さくなった桜の木が映り込む。ここからの風景も十分に美しかった。けれども蒼い景色の中でただ一つピンク色に染まる大樹は、春人には少し寂しそうにも見えたのだった。

 「・・・さより」

 少し離れて前を歩く彼女に、春人はぽつりと声をかけた。彼女は振り返らない。どうやら聞こえていないみたいだ。

 「さより」

 先程よりもほんの少し声を出して彼女の名前を呼ぶ。今度はかろうじて聞こえたみたいだ。さよりはぱっと春人の方を向いた。

 「ん?今、私のこと呼んだ?」

 「あ、えっと、結構歩いたし、喉、乾いただろ?水筒にお茶入れてきたから飲む?あ、コーヒーのほうが良かったかな?」

 「言われてみるとたしかにそうかも。お茶で十分だよ。ありがと!」

 「どういたしまして」

 そう言ってかばんから水筒と紙コップを取り出す。それから水筒の蓋を開け、紙コップにお茶を注いだ。

 「はい、どうぞ」

 「はーい。いただきます」

 さよりは嬉しそうにコップを受け取り、美味しそうにお茶を飲む。その光景に、春人はほっと胸を撫で下ろした。

 良かった。喜んでくれているみたいだ。今度は、ちゃんとできた。間違ってもただの水なんてだしちゃいけない。たとえさよりが何も言わないとしても、ただありがとうと笑っていたとしても。サァーっと少し冷たい風が吹く。その風にのって花びらは舞う。春人の脳裏には、また、あの懐かしい笑顔が浮かんでは消えていった。


 さよりはいつも笑顔だった。食事をしているときも、ドライブをしているときも、部屋で一緒にいるときも。彼女だから。そう思っていた。彼女だから俺のことが好きで、彼女だからすべて許してくれて、彼女だから全部受け入れてくれて、彼女だからずっとそばにいてくれて・・・いつからだろう。その肩書きに全てを押し付けて自分を正当化したのは。

 それでもあいつは笑っていた。会話が途切れるのが怖くて一方的に自分の趣味の話をしているときも、もっと会いたいからとあいつの予定も気持ちも無視して無理やり会う頻度をあげようとせがんだときも、あいつを失うのが怖くて好きだよなんて形ばっかりの言葉を何度もぶつけたときも。

 いつからだっただろう。あいつの笑顔が苦しそうに見えたのは。本当はとっくに気づいていた。手をにぎるのも、抱きしめるのも、全部俺の方からで、あいつはただ、それを許すだけで、だから俺は、やがてうまく笑うこともできなくなって、あいつはますます苦しそうに笑うようになって、無理に手を繋がなきゃ、二人は並んで歩くこともできなくなって・・・あいつはずっと、俺を好きになろうとしてくれていたのに・・・!!


 春人の心の中で、先程の強く編んだ言葉はあまりにもあっけなく、はらりはらりとほどかれていく。そして春人の意思に背くように、泣きたい心の赴くままに、言葉は再び編み直されていった・・・


 あのひとは違う。今ここにあるのはやがて散りゆく一本桜。幸せだった過去を恋慕って花は舞う。


 「さより」

 春人ははるか遠くを見つめてその名前を口にした。自分の意思すらおぼろげなうちに。それを聞いた隣の女性が、春人を見て笑った。

 「また間違えてる。だからさよりじゃなくて、さーおーり」

 優しく、そしてまだ少し寒い思い出を抱いて、南砺の里に春風は吹く。


 もう二度と失わないように。

 今度はちゃんと守れるように。


 「ごめんごめん、さおり」


 過去の後悔と未来への決意を胸に秘め、春人は笑った。それから両手をぎゅっと握りしめ、満開に咲き誇る桜にそっと別れを告げたのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

回想あの春 そしてこれから 如月 兎 @UsagiKisaragi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ