だいすきなきみのかけら

宮崎マモル

第1話 レビのはなし

 鍋は一つしかない。

 シチューだってソテーだってこれで作ってきた、と思う。

 空のまま火にかけて鍋が温まってきたら皮のほうを下にして肉を入れる。脂のはじける音が罵声のように拍手のように耳を打ち、レビは舌打ちした。洗うだけ洗ってコショウをあるだけすり込んだのに、立ち上るにおいはまだエリヤのまんまで、胃酸があがってくる。煙が上がってシミだらけの天井がかすむが、換気扇は前にエリヤが壊れてるって言っていたし、レビはそもそもスイッチがどこにあるのかなんて知らなかった。

「まじかよ、この肉ちんこと同じ味すんのか」

 今まで食ってた肉もそうなのかな、と考えながら赤身の部分をフォークで刺してひっくり返す。溶けだして鍋底に溜まった黄色い脂で肉は半分揚がったようになっていた。ちゃんと削げばよかったのかな、と思うが考える暇なんてなかったし、なんとなくもったいなくてそのままやってしまった。

 とにかく、こいつを腐る前に全部食べなくっちゃいけない。冷蔵庫なんてないんだ。ヒトひとり肉何キロなんだろう。見当もつかない。

「腹、こわしちゃうよな、やだな、もったいないな」

 レビはエリヤが生きていた時のように肉に語りかけた。


 記憶屋のレビが肉屋のエリヤと組み始めて、二年近くがたっていた。

 レビは工場生まれだ。そのまま教育プログラムをうけて、工場でログを作っていたのだが、ある日、体操の時間に空を見ていたらいやになって抜け出したのだ。人は年を取ると工場にログを作りにくる。そして頭の中身を人差し指に乗るくらいのちいさなシリコンのキューブにして、自分は肉になる。

 でも、レビにはたいした思い出がなかった。

 自分のログには作業台の上の白っぽくなった人と、キューブと、四角い灰色の空だけなんだって、つまんねえなって思ったと、いつだかレビはエリヤに話した。エリヤはそうなの、とだけ言った。

 エリヤは自分のことを話してくれなかった。エリヤはレビにいろんなことを教えてくれた。物の名前、使い方、人を捕まえる方法、ログの売り方。本物の食べ物も。工場から逃げて空腹で倒れていたところをエリヤに拾われて、配給じゃない肉を始めて食べたとき、レビは戻したし腹も下した。腹は今でも下す。エリヤはそんなレビを見ていつも笑っていた。このときだって、ほんとうにおかしそうに笑った。

「お前ね」

「だって」

「ウケるよ、だって食べてたんでしょ肉、工場で」

「こんなに臭くて脂っこくなかった」

「ニンゲンってそんなもんだよ、慣れてよ、オレのためにも」

 エリヤはそう言って汚物だらけのレビにキスをくれたのだ。初めてのキスだったし、レビはエリヤのにおいをその日におぼえた。人間ってこんな味がするんだ、こんな風に触ってくれるんだと知ったのもエリヤが初めてだった。


 鍋の火を止めて水道をあける。水道の最初の水は汚いから、水がきれいになってから鍋に入れるのもエリヤが教えてくれた。エリヤが好きだった缶詰のトマトもエリヤと一緒に入れた。もう一度火をつけて、しばらく待つ。コショウの黒い粒が、トマトと一緒にぐるぐる回っていた。

 エリヤは自分のことを話してくれなかった。レビがいつか腹を痛くしたとき、バスルームに入ったらエリヤが仕事中だった。レビがログをとった人は空っぽになってしまうので、エリヤが肉にして売ってくれるのだ。

 一応かかってるシャワーカーテンはシミが付いて真っ黒だったから、エリヤはちょっとだけ開けてレビを見た。

「なにまた腹壊したの」

「脂、やっぱりだめだ」

 トイレにはちょっと血が飛んでいた。嫌だったけど緊急事態だったのでそのまま座る。危ないところだったけどセーフ。

 血よけの眼鏡を真っ赤な手で直して、エリヤはまたカーテンの奥に引っ込んだ。固定するねじの音の後、電動ノコの甲高い音と硬いところを切るときのノイズに混じって「がっ」とか「ごっ」とか短く声が聞こえて途切れた。人間は意識がなくなっても刺激されれば反射で声が出る。この日の肉は良い服を着た大人の男だった。ログのデータはたくさんあったので、きっといい人生を送っていたのに違いない。

「なあ」

 レビは腸の中が空っぽなのに腹のひくつきが収まらないから、間が持たなくてシャワーカーテンの奥のエリヤに声をかけた。

「なーに?」

 密閉容器を開けてやわらかいものをとぷん、と漬けてまた閉めてからエリヤが答えてくれた。脳は高いから気を遣うんだそうだ。

「どうせバスルーム全部掃除すんなら、カーテン開けて仕事したら?」

「やーだ。だってオレ裸だし」

 手を伸ばしてカーテンをめくると、たしかにエリヤの尻が見えた。

「いやん」

「なんだよそれ、病気とか大丈夫なの」バスタブはもう血で真っ黒だった。

「洗えばいいでしょ。へーきへーき」

 まあそのバスタブでレビもシャワーを浴びるのだが。

「肉買う人はエリヤが裸だって知らないんだろな」

「はは、むしろ良いんだよ、洗えば済むからね。服なんて着てたら体液ですぐ駄目になっちゃう」

「なるほど」

 毛穴が逆立つようような鋏の音が少しの間続いて、その間エリヤは何か歌を歌っていた。あれは何という歌だったのだろう、レビは工場の『祈りの歌』しか知らなかったから、習っておけばよかったなと今でも思う。レビの腹が落ち着いて、そろそろバスルームを出ようかというとき、バスタブの中のエリヤが呼んできた。

「レビ、まだいる?」

「今出るとこ」

「そう、ちょうど腸の処理するとこだから助かる。……あのさ」

 少し間があった。

「あのさ、オレが死んだら、死ぬときね、ログ、取って欲しいんだけど、そんで、レビにだけ見てほしい」

 取ったログは特定の買い手がいれば渡していたが、たいていはネットに流していた。工場製のログもレビのような記憶屋がとったログも、そうやって見たい人が見て、時間ごとに金を払っていた。ネットに流れたログは街のコンピュータも使っていて、街の住みやすさ改善に使われたりする。

「いいけど、エリヤ死ぬの?」

「まだ先かもしんないけど。いつかわかんないけど、死ぬとき」

 なんでそんな話をするのかわからなかった。ただ、少し切羽詰まった感じはしていたような気がする。

「うーん、わかった」

 レビは適当に言ってズボンを上げて水を流した。

「ありがと!あーでも心配だな、レビうっかりしてるしな、あっ、ね、もういっこ頼んでいい?」

 エリヤがシャワーカーテンを開けた。頭からバスタブに隠れた足までエリヤに赤くないところなんてなかった。ただ、眼鏡を上げた眼の周りだけきれいで、そこから頬にかけて白い筋が流れていた。

「レビ、レビ、あのね、オレね、オレ」

 そのときはらしくないな、と思った。エリヤはレビよりいつも大人で優しくて、笑っていて、レビを笑わせるのが上手だったのだ。

「オレ、レビに食べてほしい。できるときに、できたらでいいんだけど」

「はあ?普通に食うし」

「ほんと?」

「なんでそんなこと聞くの」

 人は死んだら肉になる。病気になって食べられなくなる場合は別だけど、死んでしまった人間も工場に行く。そうでなければエリヤみたいな肉屋に卸される。普通のことだと思ってた。

「レビは知らないかあ。そうだよね、工場にいたんだもんね」

「え、なにそれけんか売ってる?」

「いや、ごめん、違くて」

「なに」

「知ってるやつって、食べらんないかなって思ってさ」

 その時はわからなかった。今もエリヤが言った意味で分ってるかはわからない。何しろ、試したことはないのだ。

「ちゃんと、食う、約束する」

 レビはエリヤを安心させたくてそう言った。嘘ではないと思っている。今でも。自信はないけど。

「よかった」

 ただ、エリヤがそう言って笑ってくれたから、ちゃんと果たそうと思う。


 スプーンで鍋をかきまぜてみる。エリヤはいつもそうしていた。厚い脂の層の下に赤いトマトソースが渦を巻いているが、それに何の意味があるのかわからない。なにしろ初めて料理するのだ、少しくらい間違っていたとしても許してほしかった。

 エリヤとレビが約束したのは、ついこないだのことだ。

 そして、レビがエリヤを見つけたのはさっき、ほんとうについさっきのこと。

 仕事がないレビを部屋に置いて、エリヤが缶詰を調達しに行って丸一日が経っていた。連絡しても返事がないし、さすがに何かがあったのだとレビがアパートの階段を下りていた時だった。

 福祉受給者用のアパートは二十階建てで、エレベータはしょっちゅう故障していた。レビが住んでいるエリヤの部屋は十七階にあって、上るときも最悪だけどぐるぐる下りていると気分が悪くなることがある。今日もエレベータが壊れていたので歩いて下りていたのだけど、階段室に入ってからずっと肉、というか死体の臭いがしていてさては階段でだれか死んでるな、と思っていた。アパートで死体を見るのは珍しいことではない。が、それが相棒の死体となると話は別だ。

 エリヤは頭を吹っ飛ばされていた。それでもレビにはエリヤだとわかった。

 実を言うと、二階くらい上にいたときからエリヤじゃないかと思っていたのだ。だってエリヤのにおいがしたから。

 缶詰が入っていただろう空の袋と、靴がなくなっていた。死んだときに奪われたのか、死体を見つけた誰かが持ち去ったのかはわからない。コートは汚れていたから多分無事だった。このアパートにはエリヤ以外の肉屋がいなくて助かった。そうじゃなければレビがエリヤを見つけることはできなかっただろう。

 エリヤの死体は五階にあった。レビは自分より大きいエリヤの死体を背負って、十二階上がった。

 上がっている途中で、レビは泣いた。今だって思い出せば涙が出てくる。エリヤは頭がなかった。頭がないとログが取れない。

 エリヤは自分のことを話してくれなかったのに。

 エリヤの茶色くて柔らかい髪の毛も、大きな目も、柔らかい唇も、気持ちいい舌も全部なくなってしまった。それがレビには悔しくてしょうがなかった。ログが取れないんだったらもっとたくさん話しておけばよかった。もっと名前を呼んでほしかった。頭がない分軽いはずなのに、力のないレビにはエリヤを運ぶのは重労働だったのだ。その重さが血とか降りてきてぬるぬるする汚物よりずっと堪えた。

 レビはエリヤを持って帰ると、バスタブで服を剥いた。エリヤの死体はすっかり冷たくなってて、死んでから半日は経っていた。ということは血はもう使えない。内臓だってどれくらい腐敗が進んで食べられるかわからなかった。そんなことより、そんなことよりも。

 レビにはエリヤとの約束がどれくらい守れるか不安だった。約束の時エリヤが言っていたことの意味をようやく、理解してきたからだ。バスルーム中にエリヤのにおいがした。レビはえづきながらエリヤの仕事道具をバスルームに持ち込み、服を脱いだ。処理の仕方は見よう見まねだし、吐いてしまってなんだかいろいろ汚してしまったけど、それでもなんとか時間をかけてエリヤを肉にするところまではいった。顔がなくて、逆に良かったのかもしれなかった。でも、いまだにこれを、エリヤのにおいがするものを肉として食べられるかわからない。エリヤの味は知っていた。量の多い唾液のすこしだらしない味と、すこし酸味のある汗と垢の味、一緒になった口の中にいつまでも残る、喉の奥まで届く精液の味。エリヤは体液が多い男だった。あの味を、肉の味として認識しなければいけないということにレビの脳は混乱した。

 料理すれば、コショウやなにかと一緒に煮てしまえばいいのかもしれない。とりあえず目についたひと塊をひっつかんでキッチンに持ってきて闇雲に調理してみた。これで合っているのかどうか。わからない。わからないけれどもうこれ以上何もできることはなかった。

 レビはコンロの火を止める。

 シンクに出しっぱなしの皿をざっくり洗って鍋から肉を出し、テーブルに置いた。


 アパートの部屋中にエリヤのにおいがした。

 エリヤが生きていた時、最初にレビがエリヤに部屋に入った時より、最初にエリヤの味を感じたときよりエリヤの存在がレビに食い込んでいる。

 いちばんまともな服を着て、レビはエリヤの皿に向かった。

「まさか最初の料理がエリヤになるなんてな。ちゃんと習っとけばよかったよ」

 真っ赤なトマト缶のスープの中で、肉は黒っぽくぎらぎらしていた。エリヤの肉は脂を吐き出して縮んでいる。鍋一杯の大きさだったものが皿に収まるくらいになっていた。ほんの一かけ、最初の一皿。これからはこれだけを食べ続けなければならない。ナイフを持つ手が震えた。左手のフォークがざくざくと肉に沈む。火は通っていた。一口分を切り分けるとき、手が震えて皿がカチカチ鳴った。

 肉の断面は湯気を吐き出している。それはエリヤの呼気とおなじだった。口に入れようとして躊躇する。この二年食べ続けてきたものと同じはずだ。しかしそれは、この二年向かいに座って一緒にものを食べてきた人と同じものだった。力が抜けた。フォークをもう持ちたくなかった。皿に戻して、食欲がないとエリヤに突っ返してやりたい。

「食べてよ、オレのために」

 エリヤの声に押されるように、レビは口でフォークを迎えにいった。

 舌にのせて、奥歯に運んで噛んで、噛んで、噛んで飲み込む。

 コショウと、トマトと、エリヤの味がした。

 吐き戻さないように、ゆっくり息をつく。

「塩……忘れてた」

 脂っこくて、味気なくて、つまらない。それでも愛おしい、大好きな味だった。

 頭の中にエリヤの、笑う声が聞こえた。

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