二章 少女と老人 第三話

 昼食を食べると、竜は寝てしまい、正行は椅子に座って静かにアリノの訪問を待った。アリノはこちらに来て、既に数十年を過ごしていると言う。何を聞くべきか頭の中で考えながら、彼の訪問を待っていると、扉を叩く音がした。どうぞ、と声を掛けるとアリノが一礼して入ってくる。


「少しお話をしたいのですが、よろしいですか?」

アリノは卓の傍らの椅子に腰を下ろした。

「はい」

「私が考えていたより、ずっと落ち着いておられるようだ」

彼は面白がるような目をした。


「ステラ様にからかわれたとか?」

「はあ、まさか王女様だとは思わず……、驚きました」

「ははは、そうでしょうな」

笑うと彼は遠い目をした。


「日本にも皇族はおられたが、普段、お会いする事などまずない。さぞや驚かれたでしょう」

「はい、どう話せばいいのか分からなくなりました」

アリノは頷く。


「日本の学生が王族との接し方について分からぬのも無理からぬ事。これから学んでいく他ないでしょう」

「彼女は、王族と竜騎士は身分に差がないから気にしなくていいと言っていましたが、竜騎士というのはそんなに身分が高いものなんですか?」

正行は問うてみた。老人はふむ、と言って少し考える様子を見せた。


「今からするお話を聞いていただければ、それもお分かりになるでしょう」

そう言って、アリノは巻紙を開く。それは地図であった。アリノはジェインにお茶を、と声を掛け、視線を地図に戻した。


「こちらの事をお話ししようと思い、地図を持ってきました。我々がいるのはここ、風竜国と呼ばれる人間国家です」

言って、アリノは地図の中ほどを指さし、正行はその指の先を見た。


「この大陸には人間の国が八国存在します。風竜国はその内の南東、タマラと呼ばれる大平原の近くにあります」

アリノはさらに地図を指さす。


「これらの国の東にはトルドの森と呼ばれる樹海があり、自らを森の子と呼ぶ人の集団が住んでいますが、これは国とは少し違う。他には人間とは異なる種族の領土がそれ以外の地に広がっています」

アリノは国名の書かれていない空白部を示した。


「彼らは人間ではない。異形の姿をしており、人間がこの地に国を作るまでは、この大陸の支配者でした。現存する最も古い文献にも奴らの存在が書き残されています。彼らもいくつかの種族に別れていますが、総じて魔族と呼ばれています。長い間、人は魔族によって狩られる存在でしかありませんでした」

「狩られる……とは?」

アリノは正行の目を見た。


「言葉通りの意味です。彼らは人間の作る穀物や野菜を収奪し、労働力として人間を攫って行きます」


――奴隷か


「奴隷ということですか?」

アリノは頷いた。

「その通り。魔族は人でもあり、獣でもある。知性と、人よりも遥かに強い肉体を持ち、魔法を使います。ある時まで人間は奴らに抵抗する術を持たなかった。人間の世界にはいくつかの国はあったものの、ごく小さく、魔族に十分に対抗できるほどではなかった。それはマソの影響によるところが大きい」

「マソ?」


「魔素とは、この世界に存在する気体の一種です。動物や植物にとっては有害で、病や凶作の原因になります。こちらの世界では人は魔素による病に悩まされながら生きています。魔素の影響で田畑の恵みも薄い。向こうでは農耕技術の発達が人の世界を作ったが、こちらでは向こうの世界ほど強力な国を作る事ができませんでした。千六百年前までは」


アリノはジェインの入れた茶を一すすりすると、話を続けた。

「竜使いの誕生は歴史であり、神話でもあります。今から千六百年ほど昔、この大陸の遥か東で最初の竜使いが誕生したと言われています。彼は竜に乗ってこの地に降り、古い十四の氏族に対し、自らに下るよう求めました」

アリノは続けた。


「彼は自らに下った氏族に竜の卵を与えました。伝承では三十頭以上の竜が王の支配下にいたと言われてます。竜は強力な魔法と飛行の力で、魔族を大陸の隅にまで追いやり、ほぼ絶滅させかけ、僅かしかなかった人間の領域を大きく広げた。竜の魔力は魔素による病害や凶作も減らし、二百年という時間をかけて一つの強大な国を作った。最初の竜使いは最初にして最後の偉大な王として二百年以上の間、この大陸に君臨したのです」


正行は驚いた。

「二百年? 二百歳まで生きたってことですか?」

「正確には二百二十七歳で亡くなったと記録されています。竜は主となった人間に竜の力の一部を与えます。強靭な肉体や鋭敏な感覚、長命もその力の一つです。ただし、二百歳を超えるほどに生きた例は最初の王しかいません」

聞きながら、正行は本当だろうかと考えていた。正行の疑念を知ってか知らずか、アリノは続けた。


「しかし、人間の時代は長くは続きませんでした。王の死後、氏族間で後継者争いが始まりました。十四の氏族はそれぞれに王を立たせ、十四の国に別れて相争った。十四の国々は三百年に渡って領土戦争を続けたのです。三百年に及ぶ戦乱の中、竜の血統は次々に失われてゆき、やがて十一頭まで減ってしまった。そして、人間同士で争っていた間に魔族が再び力をつけ、人間との戦争になりました。この戦争で三頭の血筋と多くの領土が失われ、一時は広大な大陸を支配していた人間達は、八国を残してその領域を失いました。王達はようやくにして自分たちの失敗を悟りました。人は竜なくしては生きられない。竜を失えば、魔族と魔素に悩まされる暗黒の時代に戻ってしまうと。残された八人の王達は、竜を保護し、他国との戦争に用いぬよう協定を結んだ」


アリノは冷めかけた紅茶をもう一口飲んだ。


「これ以後、千年もの間、人間国同士の戦争は起こっていません。竜と竜使いは国土の守護者として魔族から国を守り、王は内政の最高権力者として、竜を守り、その主を保護する。次の主を見つけられない王は、竜の庇護者たる資格なしと判断されます。過去、いくつかの国では数十年待っても卵が孵らず王朝の交代が起こっています」


――やはり、向こうとこちらは全然違う


「竜は我々とは違う理で生きています。竜に雌雄はなく、つがうこともない。竜は成竜になる頃、生涯に一つだけ卵を産み落とします。この卵は真球であり、何を以てしても破壊できず、まるで石のようにしか見えません」

アリノは両手で丸い形を作った。


「産んだ竜が命を落とすと、この石に新たな命が宿る。すると、石はまろみのある光を帯び、温かく、次の主を定めるまで、何年も、ときには何十年も卵のままで過ごします。鷹見殿のように異界から主を選ぶことは珍しいが、過去になかったわけではない。竜は次の主を定めると、ようやくにして生まれ、主と生を共にします。竜が死ねば、主は死に、主が死ねば、竜も死ぬ。こうして竜の血脈は繋がれていきます」


アリノは正行の顔を見た。

「先ほどお聞きになられた、竜騎士の身分についてはこれでご理解いただけるでしょうか。竜は人にとって欠かせぬ存在であり、また、王権を担保する存在でもある。竜と人を繋ぐ存在だからこそ、竜騎士の身分は王の次に高いのです」

「……なるほど」

正行はなんとなく理解できた気がした。


 竜がそれほどに重要な存在であるからこそ、異界から来た何も知らぬ子供でもこのようにもてなしてくれているのだ。少なくとも、当面の生活の心配はしなくても良いだろう。


「では、ステラが言った、気にするなというのも、あながち間違いではなかったんですね」


アリノはふむ、と少し考える。

「正確には竜騎士というのは俗称であり、叙任された竜騎士は元の身分に関わらず、竜公と呼ばれ、公爵位を賜ります。我が国の竜は風竜であるため、叙任されれば、鷹見殿は風竜公と呼ばれることになる。竜公は王以外の王族とも同等の立場とされます」

しかし、とアリノは正行を見て言った。


「鷹見殿は既に竜騎士となるお覚悟があるのですか?」

そんなものがあるわけはなかった。

「いいえ」

こちらに来たのは自分の意思ではない。ステラのように竜騎士になりたかったわけでもなく、国を守るために戦えと言われても困惑しかない。まだ母の葬式だって済ませていないのだ。


アリノは正行の心を読み取ったように続けた。

「こちらは向こうとは違います。私がいた頃は、世界は冷戦のただ中にあったが、それでも日本で暮らしていて唐突に死に直面する事はなかった。戦争も銃や戦闘機で行う時代で、剣を振るって戦うことなどありません。まして、生まれ育った日本を守るために戦うならいざ知らず、急に飛ばされた知らぬ国を守れと言われても、戸惑うのが道理というもの――」


アリノは言葉を切って、やや目を伏せた。


「私の父は太平洋戦争の復員兵でした。父はよく、戦争には負けたが、なんとか国だけは残す事ができたと言っていました。こちらの世界は竜を望むが、日本という平和な国から若者を攫う形になったことは心苦しい」

目の前の老人は複雑な表情を浮かべている。しかし、戦争を知らぬ正行には何と返すべきなのかは分からなかった。アリノは沈黙を嫌ったのか、気を取り直したように言った。


「竜に選ばれたお方に余計な事を言ってしまいました。年寄りは説教くさいものと思い、ご容赦ください」

そう笑い、そのうちまた来ると言って去っていった。




 夜、昨日と同様に豪華な夕食を振る舞われ、正行と竜はたっぷりと食べた。昨日とは食事の内容は違うが、味はすこぶるうまく、腹をいっぱいにして床に入った。灯りを消して、真っ暗な闇の奥、そこにあるはずの天井を見つめる。とりあえず、しばらくは生活の心配はなく、むしろ日本にいた時よりも贅沢な暮らしをさせてもらえる。ただ、このまま時間が過ぎれば、そのうち自分は竜騎士に任じられる。身分は高く、ずいぶん贅沢もできそうだが、その責任が大変重いということは正行にも分かった。


――母さんが生きていれば……


正行はそう思った。竜騎士になれるのはこの世界にも八人しかいない。相当に名誉な事で、母ひとり食わせるくらい困らないだろう。日本では食べられなかった贅沢な料理を母に振る舞っている自分を想像した。広い宮殿に上質な衣服、専属の料理人や執事……。母に恩返しできると思えば、竜騎士とやらになってやるのも悪くはない。もう少し早く竜に選ばれていれば…… もし、母と共にこちらに来ていれば、ウイルスなんかに母を奪われる事もなかった。


ただ、母が生きていたとしても、なんとなく母は喜ばないような気もした。竜に乗って戦う自分を心配する日々を送らせることになったかもしれない。


――なら、逃げちまうか


無理だな、と即座に否定した。逃げたところでどこに行けばいいかなど分からない。何も知らない異界の子供を雇ってくれるようなところがあるだろうか。


 ただ、目の前の生活の心配がないというのは、正行の心に思った以上の安心をもたらした。これからどうするか、結論は出なかったが、考えるだけの余裕ができた。考えていると、竜が正行のベッドに飛び移ってきて、布団の中に潜り込んだ。今日はもう寝るか、と小声で竜に語り掛け、頭を一撫でして目をつむると、吸い込まれるように眠りに落ちていった。




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