第19話 当日 最後の別れ
当日 日曜日
日曜日の午前零時。
僕の考えでは、あと四時間五十九分で萌と別れる時がやってくる。
今、膝を抱え暗闇を耐えている萌が日の出と共にこの世に戻って来た時、上手く行けば天国に行かせることが出来るのだ。
ただ、確証は掴めていなかった。
一度っきりの機会を間違えば萌は天国に行けないのだ。僕は、これまでのことを頭で整理しながら、萌から預かった手鏡を触っていた。見れば見るほどこの装飾は素晴らしい。蛍光灯の光を受けさらに煌めきを増しているように思えた。その時、僕は光を発しない箇所があることにふと気づいた。顔を近づけその箇所を念入りに触ってみる。どうやらここだけが貝細工ではないようだ。プラスチック?薄い金属?一体なんだこれは。少し力を入れ引っ張ってみる。すると、「カチッ」と音がし、その部分が外れたのだ。そして、その細い隙間に何重にも折られた薄紙が挟まっているのを見つけた僕は、慎重に抜き出しテーブルの上で開いてみる。
「これをあなたが見るということは、もう私は死んでるのね。萌、あなたには幸せになって欲しい。だけど高梨の家に関係した女性は誰一人例外なく呪いにかかるの。私は高梨家に嫁いで来る前にお父さんからこの話を聞いたけど、不思議と怖くなかったわ。それ以上に大好きなお父さんと一緒に過ごすことの方が私にとっては大事だったのよ。萌がもし万が一天に召されこの平城の地に戻って来たとしても何も怖がることは無いのよ。あなたは好きな人の言葉を信じればいいだけなのよ。この鏡は、月と太陽が重なるその時、あなたと共に天に帰る。その時、あなたは好きな人の名を心に刻むのよ。 萌、大好き。」
僕は、この手紙を何度も、何度も読み返した。
僕の言葉を信じて、萌はきっと僕の言うとおりにするだろう。
もしそれが間違いであったとしても……。
いや、間違うことなんて出来ない、集中するんだ。この手紙には何かヒントが必ず書かれているはずだ。その時、僕の頭に衝撃が走った。そうだ、月だ、月。陽が昇ると同時に沈んで行く月。常に相反する関係。
僕はゆっくりと目を閉じた。すると、何度も訪れているショップ柴田の情景が浮かんで来た。レジにおばちゃんがいる。そして、その壁に掛かったカレンダー。ショップ柴田と文字が入っている。そのカレンダーには、萌が来た六月二十二日に赤ペンで丸が書かれている。その下には、小さな文字で大安と書いてあり、その文字の右には黒で塗りつぶされた月のマークが書いてある。そしてその月の下に「新月」と書いている。おばあちゃんがカレンダーをめくる。七月二十一日の下にも黒で塗りつぶされた月と「新月」の文字がある。太陽と重なりその姿が見えなくなる新月の日に、天国への入り口が開く……。そして、この日は、彷徨う者にとって新たな始まりの日になるのだ。
やはり今日こそ萌が天国へ行ける日に間違い無かった。僕は目を開けると全てのピースが揃ったことを確信していた。
午前四時。
僕は静かに家の扉を閉めた。片手にはガラスコップと鏡が入ったトートバック。そして、片手にはみこを抱えている。ゆっくりと歩き出した僕は、萌へ宛てた手紙を思い返していた。その手紙には、陽が昇りこちらの世界に戻ったら、急いで佐紀陵山古墳へ来るようにと書いていた。
歩き出した僕は、踏切を渡り、この間何度も通った小さな六差路を南東へと進んで行く。薄らと白んできた空を見ながら佐紀陵山古墳の前に着いた僕は、トートバックからガラスコップと鏡を取り出した。そしてみこを膝の上に乗せ、石垣に座りその瞬間を待っていた。
もうあと少しで萌とも会えなくなる。永遠のさよならになると思うとせつなくて胸が苦しい。だけど萌を天国に行かせること、それこそが僕に与えられた使命だとするならばしっかりやり遂げなければならない。僕は、みこの背中を撫でながらこれまでの萌との時間を思い出していた。
時計が四時三十分になったのを確認した僕は、みこにリール付きの首輪を付け石垣に繋ぐと、以前萌と草をかき分け入った方向へ進み出した。まだあれからあまり日は経っていないのに雑草の背丈が前回よりかなり伸びた気がする。半袖であらわになった両腕を雑草が容赦無く切りつけてくるようだ。だが、僕はひるまず前へ前へと進んでいった。
外れている金網をくぐり抜け、壕の方へと進んでいく。小西さんには予めこのことを伝えていたので、今朝は赤外線の監視システムをオフにしてもらっていた。
壕のすぐ近くに来た僕は、再度時計を確認する。四時四十五分。あと十四分だ。僕は、静かに水が溜まっている壕の中へ入っていった。
信じられないほど冷たい水が僕の体温を急激に奪って行く。夏なのにこの冷たさはなんだ。これもきっと姫が与える試練の一つなのかもしれない。辺りがさらに白んでくる。僕は、前回来た時よりもさらに透明度が上がっている水を見て確信していた。なぜ、この壕の水だけがこんなに綺麗になっていくのか理由は一つだ。腰まで浸かった僕は、静かに空を見上げていた。
「おかしい……」
家を出るまで雲一つ無い空だったのに急に分厚い雲が少しずつ空を覆い尽くしてきているではないか。このままだと太陽の光を見ることが出来ない。そうなれば、萌は天国に行けない。僕は、雲がまだかかって無い方向へと水の中を歩き出した。
午前四時五十五分。
もう少しだ。雲よ邪魔をしないでくれと祈りながら、僕は必死で水の中を進んでいく。
午前四時五十八分。
いよいよあと一分だ。少しずつ太陽の光が雲の切れ間から出てきた。すると今度は、その光を古墳から伸びる巨木が邪魔をするではないか。僕はポケットの中に入れていた萌のお母さんの鏡をとっさに空に掲げた。すると樹木の隙間から漏れた光が鏡の螺鈿細工に集まっていき、そして煌めく一筋の光が、僕を導くように照らし始めた。
午前四時五十九分。
僕は、導かれた場所で鏡を開き右手に掲げる。太陽の光がまるでその鏡に吸い付けられるように集まっている。僕はそれを確認し次は鏡の角度を変え、光を水に当てる。すると、その箇所から沢山の気泡が湧いてきた。僕はその気泡水をコップに入れ、鏡から手を離す。
鏡は透明な水の中にキラキラと煌めきながらゆっくりと沈んでいった。
萌のお母さんは、姫に鏡を返す時が来る事を知っていたのかもしれない。だから、姫が気に入るような鏡を特別に作ったのだと僕は考えていた。
鏡が水の底に沈んだのを見届けた後、僕はコップの水をこぼさないようにゆっくりと元の場所に戻っていった。
壕から上がった僕の前にみこが横になっていた。とても気持ち良さそうな顔で目を閉じている。よく見るとリールが宙を浮いている。
萌がここにいる。
そして、僕を見つめている。そう感じた。
やはりみこを連れてきて良かった。
昨日、ショップ柴田で見た萌の身体はところどころ透明になっていた。タイムリミットが近づいた萌に元の身体を維持する力はもう残っていないのだろう。だから、萌にこの特別な水を渡す為には、みこが必要だった。そう、僕がみこを拾って家猫にすることも萌を救う為の大事なピースだったのだ。みこは大好きな萌に絡みついて離れないのだ。僕はみこに近づいていく。
「萌、さあ、この水を飲むんだ。そうすれば、呪いは解け、萌は天に昇って行けるんだよ」
しかし、ずぶ濡れの僕が差し出すコップを萌は受け取ろうとしない。
その時、僕の顔に優しいぬくもりがふりかかった。
萌が僕を抱きしめている。僕は萌の大きな愛に包まれていた。
これでお別れなんだ。萌、萌、大好きだよ……。
その時、僕の指先からコップが離れ、宙に浮いた。
そして、コップから水が少しずつ無くなっていく。
「萌!!!!萌!!!本当にありがとう。萌、君が好きだよ!萌ー!」
僕は、絞り出ように声を出した。その時、目の前の風景が凄いスピードで回り出した。祖父の形見のロレックスの針が反時計回りにぐるぐると回っている。
ショップ柴田でぐったりとしている萌、家を飛び出していく後ろ姿、みこの爪を真剣に見つめる瞳、僕にお粥を作ってくれた時の自慢げな顔、スマホを覗きこむ顔、金網をくぐり抜ける際の笑顔、靴紐を締めようと屈んだとき横顔、古い椅子に座ってくつろいでいる姿、階段を転げるように降りてくる時の焦った顔、全てが僕にとって愛おしいものだった。
そして、ショップ柴田のおばちゃんや小西さん、そして親身になってくれた神主さんらが、浮かんでは消えていき、そして凄まじい光が降り注いだ時、僕は気を失っていた。
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