第42話 勇の過去 その2

 翌日。


「おはようございます」

「あ、おはようございまーす!」

「おはざーす!」


 出社した勇は皆に挨拶しながら席に着く。

 直後、隣に座っている部下が話し掛けてきた。


「いよいよ今日っすねー。変な人じゃなきゃいいんすけど」

「だね。まあ噂はあくまで噂だし、実際は意外といい人だったりするかもよ」

「そうだといいんすけどねー。はぁ、不安っす」

「まあまあ。来るのは昼過ぎなんだから、今から不安になっても――」

「お、おはよう!」


 営業部の島に駆け寄ってきた中年の男性が、勇の言葉を遮った。


「あ、おはようございます、課長!」

「おはざーす! 今日もギリギリセーフっすね!」

「おはようございます!」


 課長は肩で息をしながら、勇の向かい側の席に腰を下ろした。

 そんな課長に向かって、勇は呆れた顔を浮かべつつ口を開く。


「……課長。いつも言っていますが、社会人なんですからもう少し余裕を持って行動しましょうよ」

「いやー、わかっちゃいるんだけどね。どうも朝が弱くて」

「言い訳しない!」

「は、はい! ……いやあ、多井田君にはかなわないな!」

「全くもう……」


 頭を掻いて笑いながら言う課長に対し、勇はやれやれといった様子で肩をすくめる。

 すっかり立場が逆転してしまっている二人の様子に、他のメンバーは笑い声を上げた。


 この仲の良さが営業部の魅力であり、勇はそんな営業部が、その部がある会社が、そして仕事が好きだった。


「よし、時間になったし朝礼を始めよう。では、多井田君」

「はい。今日はみんなも知っての通り、本日の13時に新部長が着任されます。すみませんが、一応顔合わせのため、休憩の時間は被らないようにしてください」

「「「「はい!」」」」

「それで僕の予定ですが――」


 その後、朝礼を終えた営業部は各々の仕事へ。

 勇も忙しなく働き、あっという間に13時を迎えた。


「あ、来たみたいですよ」


 向かい斜めに座っている、営業事務の女性社員が小声で言う。


「ゴホン。皆、一旦手を止めてくれ」


 直後、背後から課長の声が聞こえた。

 勇は振り返ると、そこに居たのは何故かげっそりしている課長と、やたらと高そうなスーツに身を包んだ40代前後の男性。


「えー、こちらが今日から部長に着任する日同ひどうさんだ。では、挨拶をお願いします」

「うむ」


 日同は短く答えると、営業部の島の端、一つだけ机が横になっている部長席の前に移動した。

 そして営業部のメンバーを一人一人舐め回すように見てから、への字にひん曲がった口を開いた。


「今日付けで部長に着任した日同葛人ひどうくずひとだ。どうやら前任者は生温かったようだが、俺はビシバシいく。そしてこれからは俺のやり方に従ってもらう、いいな?」


 その言葉に、営業部の面々は互いの顔を見合わせた。

 それからひと呼吸置いてバラバラに返事を返すと、日同は机をバンっと叩いた。


「何だ、そのやる気のない返事は! もう一度だけ聞く、今日からは俺が絶対だ。わかったな?!」

「「「「はい……」」」」

「声が小さい!」

「「「「は、はい!」」」」

「よし、それじゃあすぐ仕事に取り掛かれ! で、課長。これは何だ?」


 日同はパソコンのモニターを指で指しながら、課長に尋ねた。


「な、『何だ』と、おっしゃいますと……?」

「何故モニターが一枚しかないのかと聞いている! 俺は部長だぞ! 最低でも三枚は用意しろ! それにこのマウスは何だ、サイドボタンが付いてないぞ? そしてキーボードもだ。こんな普通のキーボードで仕事ができると思っているのか?」


 日同は課長に詰め寄り、唾を飛ばしながらまくし立てた。

 その瞬間、営業部のメンバーは誰しもが思った。


 こいつはヤバい、と――



 ☆



 それから数日が過ぎた。


「――恵梨香、ちょっといいか」


 日同は営業事務の女性の後ろに立ち、言いながら肩に手を置いた。

 直後、女性は身体をビクッと震わせる。


 一体何をされたのか、それを確かめるため勇はトイレに行くフリをして席から立ち上がった。

 そして向かい斜めの席にチラッと目をやると、日同はマウスを握る女性の手の上に、もう片方の自身の手を重ねていた。


(あいつ!)


 そう、セクハラだ。


 しかし、勇は日同に注意できない。

 何故なら相手は上司であり、加えて社長夫人の弟。

 それに歯向かうことがどういうことなのかをわかっているためだ。


 故に勇は何もできないことに悔しさを覚えつつ、そのままお手洗いに向かった。


「あっ」

「あ、お疲れ多井田君」


 トイレには先客が居た。課長だ。


「お疲れ様です。……あの、課長。部長のことですが、先ほどもセクハラを……」

「……そう、か」


 課長は悔しそうに唇を噛んだ。

 きっと、部下を守れない自分に悔しさ・情けなさを感じているのだろう。


 それから沈黙が流れること数秒。

 課長は『取引先との打ち合わせに行ってくる』と言って、トイレから出て行った。


 その後、無理やり用を済ませてデスクに戻ると、日同は自分の席に着いていた。

 女性は解放されたことでホッとしているように見える。


 それを確認した勇はやるせなさを抱きながらも、仕事を再開した。



 ☆



 さらに数日後。


「おはようございます」


 出勤した勇が挨拶を口にすると、部下達は身体をビクッと震わせた。

 直後、振り返って勇の姿を確認した彼らは揃って安堵の息を吐く。


「何だ、多井田さんか。おはようございます」

「おはようございます……」

「ざっす……」


 日同の度重なるパワハラとセクハラにより、営業部の面々は皆憔悴しょうすいしきっていた。

 

 勇は何もしてやれないことを申し訳なく思いながら自分の席に腰を下ろすと、隣に座っている部下がポツリと呟いた。


「……多井田さん。俺、もう限界っす」

「えっ?」

「すみません、私ももう……」

「僕も……」


 他の部下も次々に彼の言葉に続く。


(そっか。もうみんな……)


 勇も例外なくパワハラを受けており、確かに毎日辛いしキツい。

 でも、まだ耐えられる。


 しかし、もう部下達は限界のようだ。


 その後、勇はしばらく思考を巡らせてから、やがて決意した。


「……わかった。俺が部長に抗議するよ」

「えっ? だ、ダメだよ! そんなことしたら多井田君が!」


 いつの間にか出勤していた課長が焦りながら言う。


「あ、おはようございます。僕なら大丈夫です」

「いや、でも……」


 課長は言葉を詰まらせた。

 そのまま沈黙が流れることしばし。


「ふぅー、今日は暑いな。……ん? 何だ、部長が出勤してきたってのに挨拶はなしか?」


 日同が始業時刻から少し遅れて出勤してきた。


「……おはようございます。あの部長、少しお話が」

「話? 馬鹿言うな、俺は忙しいんだ」

「すみません、ほんのちょっとだけでいいので」


 勇が堂々とした態度で言うと、日同は舌打ちをしてから口を開いた。


「仕方ねえな、わかったよ。その代わり、しょうもない話だったらタダじゃ済まさないぞ」

「はい、ありがとうございます。では、こちらに」


 勇は日同を連れて、会議室に移動した。


「――で、話って?」


 どかっと席に座った日同に対し、勇は立ったまま口を動かす。


「……部長。最近の部長の言動についてですが、少し目に余るところがあります。私のような者が生意気ですが、もう少し言葉や態度を選んでは頂けないでしょうか?」

「うーん? 多井田ぁ。今、自分が何を言っているのかわかっているのか?」

「はい。このままでは営業部が壊滅してしまいますので」


 勇がそう言うと、日同はハハハっとわざとらしく笑った。

 直後、日同は椅子から立ち上がり、勇の肩をポンポンと叩きながら言った。


「そうかそうか! よーく、わかったぞ。肝に銘じておこう。じゃあ、俺は先に戻っておくよ」


 日同は明るい声色で言いながら、会議室から出ていった。


(……これでいい。後は俺が耐えれば……)


 これで改心してもらえるのが最も望ましいが、そんなことはあり得ないのは勇もわかっている。

 今回の狙いはあくまで、パワハラの矛先ほこさきを自分に向けることだ。


 あの物言いからして、上手くいったのは間違いない。

 これから待ち受けているのは地獄の日々だろうが、その分部下達や課長は楽になる。


 それなら俺はどんな嫌がらせにだって耐えてみせる。

 この時の勇はそう考えていた。

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