幾つかの不可解な現象
枢機市第二経済特区に空いた穿孔。
そこから二キロも離れていない死廃領域のとある地点に、倒壊した高層ビルが横倒しになり、幾つもの建造物を取っ掛かりとして長大な斜面を形成している区画があった。元は四〇階越えのビルであったが故に、形作られている傾斜は二〇〇メートルに及ぶ。
その一角で、何やら巨大な影が蠢いていた。
四足を成す獣のような姿を象る〝それ〟が歩む都度、踏まれた地面が無残に砕かれ続けている。それはその四足獣の如き異形が持つ重さ故か、はたまた別の原因か。断続的な破砕音を響かせながらゆっくりと傾斜を上るその獣は、漆黒の体躯に真紅の双眸を持っており、神屍の特徴を全て備えていた。
だが。
何かが違った。
〝それ〟の傍を徘徊していた獣種型の神屍が、漏れ出る濃密な威を感じ取ってか、怯えたように身を震わせながら逃げ去ってゆく。その方向は奇しくも、黒鋼壁に空いた穴のある方角であった。
だが、そんな中でも身の程を弁えない神屍は存在した。
全身にふわりと棚引く黒毛を生やし、真紅の単眼を持つ歪な獣の群れが、〝それ〟に対して威嚇するように咆哮を上げた。
しかし〝それ〟は獣の群れに構う事なく歩み続ける。
無視された事に苛立ったかの如く、単眼を光らせる獣種型の一体が巨大な四足の神屍へと飛び掛かった。
――黒色の光が閃いた。
〝それ〟の背部から生えている無数の歪な棘が途端に形を変え、一本の巨大な剣と化す。三メートルをゆうに超す鋭利な刃はまるで核弾頭から射出されたミサイルの如く、飛び掛かってきた獣種型の
赤黒い血が噴出する。閃いた刃はその一振りだけだ。直後には既に、〝それ〟の背に生えた刃は元の歪な棘へと戻っていた。
両断され、絶命した異形の遺骸がボトリと地に落ちる。それだけで充分だった。自らの愚かさを理解せずに牙を剥くその不遜が辿る結末を、その場にいた全ての神屍が思い知った。
集いかけていた数十体もの獣種型が、総じて〝それ〟に道を譲る。睥睨を当然のものとして、漆黒の中心を闊歩する巨大な四足の神屍は緩慢な足取りのまま、やがて傾斜の頂上へと辿り着いた。
周囲数キロ程度であれば問題なく見渡せる高さに佇みながら、そうしてその神屍は真紅の双眸を細めて遥か遠方を見据える。
壊滅を極めた死廃領域の中に、物々しい黒の壁が横へ伸びるように屹立している――黒鋼壁だ。並の神屍であれば容易に近付く事すら出来ない人類の砦とも言うべき代物を、〝それ〟は何処か冷めた目付きで眺めていた。
おもむろに首を
咆哮が轟く。
質量すら伴って周囲に放たれた音は衝撃を伝播し、決して近くない距離にまで下がっていた無数の獣種型をまとめて吹き飛ばした。半壊した建造物や乱雑に転がる大小様々な瓦礫に衝突し、殆どの個体が見るも無残な肉塊へと化す。
死屍累々の様相を率いて倒壊したビルの頂上から飛び降りた巨大な神屍は――、
そうして黒鋼壁の見えた方角を目指し、凄まじい速度で疾駆を始めた。
※
鷹音の周囲に散乱する神屍の遺骸や血が少しずつ霧散を始めていた。
片端から空中へ溶け入るように、崩れた炭の粉が風に乗って攫われてゆくかのように、音も無く消失する。後には何も残らない。肉のひと
連中がどういった原理で生まれ、どういった体組成をしているのか。神屍に関する研究が進められない以上、それらの疑問に対する答えを人類は得られない。
だが鷹音にしてみれば、全て些末な事であった。
漆黒の異形が如何な謎を抱えていようとも、人間がやるべきは奴等を屠る事のみ。少なくとも機士の資格を持つ者達は、只ひたすらに神屍を斃す事だけを考えていればいいのだから。
「……うん、だから支機官の人達は早く監理局に帰還させた方が良いと思う。穴の修繕は完了していないけど、バリケードを作るだけなら技術を持たない俺達でも出来るからね。まぁ、本職の人間が作るものには敵わないって分かってるから、そこは警備の人員を多めに配備して補えばいいんじゃないかな?」
黒い薄霧と化した神屍の遺骸が音も無く立ち昇るその渦中で、鷹音は再び李夏に連絡を取っていた。
それでも瓦礫や破壊されたバリケードの残骸はそこかしこに散らばり、無残な様相を呈している。壁の内外を含めた周囲一帯には既に神屍の姿は無く、ひとまず騒動は落着したように思う。だがこの穿孔を塞がない事にはどうしようもなく、早急に修繕作業に掛からなければならない点は変わらない。
しかし、だからと言って先程と同じように支機官の人間に全てを任せておくわけにはいかないと、鷹音は判断した。
明確な理由はある。
だがそれは伏せて、既に支機官達の疲労や精神状態が限界に近いからと適当な訳を告げた。李夏もそれに納得した。
「そんな訳だからさ、追加の機士を派遣してくれると助かる。それまで俺はここで見張りをやっておくからさ」
『了解しました。任を請け負う人員はこちらで選出しますね。それと、鷹音くんの方で支機官の方々に局へ帰還する旨を通達してもらえますか? 葛山さんのアドレスは消していませんよね?』
言われ、無線を繋いだままにラスタを操作し、端末所持者の間で簡易的な連絡をする際に使うメールページを開く。
ホロブラウザの中に羅列されたアドレスの画面を上にスワイプして行けば、やがて目的の名前を見つけ出す事が出来た。
「……あった。自然消去されていなくて良かったよ。幾つか文字化けして使えなくなっているアドレスがあるけど、これは辞めた機士か支機官のものだね」
『そうですね。鷹音くんが必要ないと思ったら、遠慮なく消去してしまって構いませんよ』
何とはなしに返事をしながら、鷹音はほんの少しだけ、瞼を伏せた。アドレスの欄を開いた瞬間に飛び込んできたのが、『湊波彩乃』と言う名前だったからだ。わざわざ操作しやすいように、最上部に固定表示されている。
それはかつて、最も多く連絡を取っていたのが彼女だったが故の仕様。
意味も無く、そのアドレスを開く。キーボードの役割を成す新たなブラウザと新規入力画面が表示される。
僅かに透過されてほんやりと地面を透かし見ることが出来るウインドウは、当然の如く真っ新であり。
だがその何も文字が表示されていない画面に、鷹音は自然と指先が震えるのを感じた。
『鷹音くん、どうかしましたか?』
不意に李夏から呼び掛けられ、鷹音は我に返った。空白のウインドウを即座に消す。
「いや、何でもない。葛山さんの方へはちゃんと連絡を送っておくよ」
お願いします、と言う言葉が返ってきて、李夏が無線を切ろうとしたのを察知した鷹音は、咄嗟に口を挟んだ。
「それはそうと華嶋さん。
そうである。
街に侵入した神屍を掃討し、壁に空いた穴を塞いだところで、結局のところ根本的な部分を解明しなければ意味がない。
つまり。
何故、神屍の大進行すら阻む頑強な黒鋼壁が突如として崩落したのか、と言う事だ。
鷹音の問いに対して李夏は僅かな間を置き、考え込むような声を発した。
『申し訳ありませんが、未だ何一つとして……壁上のカメラ映像や探査中の支機関から届けられた情報を精査して究明を進めているのですけれど、黒鋼壁が崩落する程の原因となるような要素は見つけられていません』
「……そうか」
答えを聞いても、鷹音は表情を変えない。そうに違いないと予想していたからだ。
黒鋼壁の強度を考えれば、今回のような事態が起きる上で生半な要因は全て排斥される。要は、壁の自然崩落や構成材質の脆弱点を神屍が偶発的に突いたと言うような、ある種の偶然性に基づいた因子はそもそも有り得ないと言う事だ。
この一件は神屍によって引き起こされたものであると、鷹音は半ば断定していた。だが決して獣種型や人種型による仕業ではない。であれば残り一つの可能性……竜種型が関与していると考えられるが、しかしそれも有り得ない。
並の機士であれば全くとして歯が立たず、不運にも会敵すれば恥も外聞もなく逃げなければならない程、竜種型は危険度の面に於いて一線を画す神屍である。故に黒鋼壁を起点とした数キロ圏内に竜種型が侵入すれば、半自動的に局のアラートが鳴り響く仕組みになっている。
だが今回、監理局に警告音が響く事は無く、加えて死廃領域の観測を行っていた局員が、捕捉出来たのは餓狼種や猛鬼種だけであると解答したのだ。
その時点で、黒鋼壁の崩壊現象が神屍の仕業ではないと確定したようなものである。
だが鷹音は何故か、意識に張り巡らせた警戒の網を引き揚げる気にはどうしてもなれなかった。
(……さっきからずっと考えているのに、どうしても辻褄が合ってくれない訳だけど。何を見落としている? それとも本当に、今回の事態は偶発的な原因によって起きたものだとでも言うのか? そんな誰でも思いつくような事で、多くの人間の命が脅かされたとでも言うのか?)
既に彼の周囲には神屍の遺骸は一つとして残っていなかった。
半壊した建物や瓦礫が散見される地帯の中心で、鷹音はぽつりと佇み、思考を巡らせる。
そんな彼の耳に、ふと、李夏が何かを思い出したかのように「あっ」と声を上げた。
『そう言えばなんですけど』
「うん?」
『黒鋼壁の崩落が起きるより少し前に、死廃領域に一定の間隔で設置されている
「……破損?」
『えぇ。今回の一件に関係があるかは分かりませんが、鷹音くんの方が現場判断もしやすいでしょうし、念のため伝えさせて貰ったんですけれど……』
神屍の跋扈する死廃領域には、支機官によって取り付けられた映像記録端末が各所に設けられている。ホロウの励起システムを補完、増強する中継柱と同じような形を成す代物だが、これに関しては常時記録され続ける映像を監理局に送信する機能しか持たない。
だがこれによって支機官や機士が受ける利益は大きい。オペレーターの遠隔支援を介して、当該区域の地形や神屍の分布状況を常に最新の状態で知る事が出来る点は、生存率や安全性を高める何よりの要素だ。
ホロウの基盤システムや黒鋼壁、ラスタに比べれば然程重要視はされていないものの、この十数年の間で支機官の生還率を飛躍的に伸ばした画期的な機構である。
で、あるが故に。
死廃領域の映像収集機器は滅多な事では故障しない。加えて黒鋼壁からも発せられている、神屍が忌避する特殊な電磁波を内包している為、神屍が餌と勘違いして誤って喰い壊すと言う事もない。
それが、破損したと。
鷹音は即座に言葉を返した。
「経年劣化の可能性は? あれらの端末は基本的に、五年以上のスパンを空けていないと交換作業が行われないだろう。死廃領域で発生した天災が例年より多かったりすれば、百歩譲って破損の可能性も考えられる訳だけど」
直後、凄まじい速度で打ち込まれるキーボードの音があった。
『……そのような記録はありませんね。そうである以上、この件に関しても原因究明は図れていません。まぁ、黒鋼壁崩壊の件とはあまり関係が無いと思われますので、気にする必要はないかも知れませんが』
「……、」
軽い口調で言う李夏に、だが鷹音は重い沈黙を返した。
考え過ぎかも知れないと言う自身に対する懸念はこの際捨て置く。多少こじつけであっても、それによって真実に辿り着く可能性が僅かでも増えるのであれば、意味の無い余計な推論であれど重ね続けなければならない。
だが、彼の中に巡る思考はすぐ後に遮られる事となった。
断続的な音が聞こえた。地面を擦り、そして強く蹴り出すような音。機士特有の〝足音〟だった。
見れば、鷹音から数十メートル程離れたビルの屋上に、ちょうど数名の人間が現れたところだった。
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