第4節

 g 「朝」


 「おれにだって、一度は、愛すべき、英雄的な、寓話を思わせるような、黄金の料紙の上に書きとどめおくべき、ひとつの青春があったのではないか、ーあまりにも運のよすぎた青春が!(略)いかなる罪のゆえに、いかなる過ちのゆえに、おれは、こんにちただ今のこの衰弱の酬いを得たのか?」ここでは青春を賭けた「見者」を目指す実践の挫折を確認している。「そうはいっても、こんにち、おれは、おれの地獄とは縁切りにしたと信じている。いかにも、あれは地獄だった。あの昔ながらの地獄、人の子がその扉をあけた地獄だった。」この『地獄の季節』を書くことで、「おれの地獄とは縁切りにした」。そしてランボーは新しい歩みを始めようとする。「その同じ砂漠から、その同じ夜に、おれの疲れた眼は、いつも、あの銀色の星を眺めては覚醒するのだ。いつもなのだが、人生の『王者たち』、あの三人の博士たち、クウルアーム精神エスプリとは、いっこうに動揺することもない。」「地獄」を「縁切り」にしたことでランボーの精神は新たな「覚醒」を迎える。「いつの日、おれたちは出かけるのだろうか。砂浜を越え連峯を越えて、彼方に、新たなる労働の誕生を、新たなる叡智を、暴君や悪魔どもの逃亡を、迷信の終焉を、礼拝しに行くために。また、ーだれよりも一番さきにだ! ー地上の降誕祭クリスマスを讃仰しに行くために! 」ランボーは新世界の到来を展望する。そこではブルジョアの圧制から解放された「新たなる労働の誕生」があり、「迷信」は「終焉」しているだろう。それは人間にとっての祝祭であり、地上が天国となることを意味する「地上の降誕祭」だ。この展望に励まされて、「諸天の歌、民衆の歩み! 奴隷どもよ、この人生を呪うまい」とランボーはこの章を結ぶ。


 

h 「別れ」


 最終章である。「おれは、あらゆる祝祭を、あらゆる勝利を、あらゆる劇を(ドラマ )創造した。おれは新しい花々を、新しい星々を、新しい肉体を、新しい言葉を発明しようと試みた。おれは、超自然的な能力をいくつか獲得したと信じた。それが、なんということだ! おれは、いま、おれの想像力とおれの思い出のかずかずとを地に葬らねばならぬ!芸術家としての、語り手としての、一つの美しい栄光が、運び去られてしまうのだ!」ランボーはここで詩人としての自己の終結を告げている。「言葉の錬金術」の項で述べた挫折がこの結論を導いた。「このおれがだ! いっさいの道徳を免除され、道士とも天使とも自称したこのおれがだ」これは「見者」を自認していたということだが、これも廃棄される。彼はどうなるのか。「求めねばならぬ一つの義務と抱き締めねばならぬこのざらざらした現実を背負い込んで、大地に戻される! 百姓だ! 」「求めねばならぬ一つの義務」とはすぐ後に出てくる「愛徳シャリテ」だ。これはカトリック神学において、「希望」「信心」と並ぶ三徳の一つらしいが、もちろんランボーはそんな意味合いで用いてはいないだろう。それは「錯乱Ⅰ」で述べられていた「憐れみの心」と意味的に重なるものだ。神に由来するものではなく人間的な感情に発するものだ。この感情は「見者」を目指していた時代、ずっと抑圧されてきた。「見者」となるためにはその反対の感情、周囲のブルジョアに対する冷酷さや無視や蔑視が求められたのだ。それは「憐れみの心」を自己の本質的なものとして持つランボーにとっても辛いことだったはずだ。「苦痛は非常なものです。それには、強くあらねばならないし、生まれながらの詩人でなければなりません」(イザンバール宛「見者の手紙」)と彼はそれに耐えてきたのだった。しかしそれは誤りだった。人間としての「義務」の放棄だったのだ。「最後に、おれは、これまで虚偽をもってこの身を養って来たことに対して、許しを求めよう。」「見者」を目指す生活は現実からの逃避であり、「虚偽」だった。これからは「ざらざらした現実」を「抱き締め」「背負い込」まなければならない。詩人でも「見者」でもない人間に戻らなければならない。

 詩や文学から離れてもランボーの歩みは止まらない。「私は、足で歩き回る人間です。それ以上の何者でもありません」(一八七一年八月二十八日付ポール・ドメニー宛書簡)と書いたこの若者は歩みを止めない。詩や文学も彼にとっては一つの通過点なのだ。アラン・ボレルが「ランボーの一生において、詩は単に、他の多くの企てと同じレベルの一つの企てでしかなかった」と言っているのは正当だ。(前掲書「文学」)「さあ出かけよう。」人生は彼につねに出発を促す。「歯ぎしりも、火のような息切れの音も、悪臭を放つ溜め息も鎮まった。あらゆる汚濁の記憶は消え去った。おれの最後の未練も逃亡」した「今は、勝利を手中にしたとも言い切れる」と彼は書く。「絶対に近代的でなければならない。」ここに新たな歩みを始める彼の精神の掟がある。「頌歌などない。ただ、かち取ったこの歩みを保ってゆくことだ。」「さりながら、今はまだ前夜だ。生気と現実の愛情とが流入するすべてのものを受け容れよう。そして、夜明けが来たならば、おれたちは、燃えるような忍耐でもって武装して、光り輝く街々へ入って行こう。」『地獄の季節』は次の言葉で結ばれる。「やがて、おれには、ことが許されるだろう。」ランボーの「真理」の探究は続く。これがランボーの生涯の目的だ。かってはこの目的のために詩が必要だった。今、その必要性は消滅した。この「真理」は科学的な真理も意味すれば、人生上の真理も意味しよう。肝心なのは傍点が打たれた部分だ。彼は神と人間精神とに「身を裂かれ」た形ではなく、一個の統一した人間として、現世における肉身において、「真理」を把握しようとしているのだ。それが「絶対に近代的」であることだから。


 

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