あなたに出会った理由
糸已 久子
第1話 爆発の記憶
ドゴゴゴゴゴゴゴゴゴーン…・。
物凄い轟音とともにバラバラに壊れた建物が吹き飛ばれていく…。
叔父さんの家を塀のようにぐるりと囲んだ緑の木々は燃え上がり、悲しそうに泣いている…。
全てが粉々に破壊される程の爆発は、早朝の筑波山を大きく揺らした。
山の麓にあった叔父さんの家は、何かの原因で爆発してしまったそうだ。
家の中にいたはずの叔父さん夫婦は、家とともに粉々になってしまったようで、遺体と言えるよな形での発見は出来なかった。
そう、ただ唯一見つかったのは、叔父さん夫婦の千切れても固く繋がれた片手同士のみ。
叔父さんの左手と叔母さんの指輪がはまった右手…。
DNA鑑定の結果、叔父さん夫婦のものと判定され、二人の死亡が確定された。
何故こんな夢を見たのか…。
きっと昨日の生物基礎応用学の講義で、生物の多様性について考え込んでいたせいだろう。
大学の2年生にもなって、また生物の多様性なんていう基礎的な講義を聞くなんて思わなかった。面白くも無い講義をにこにこと笑いながら最初に教えてくれたのは、誰だったっけ…。高校生の頃に聞いた講義とその前に聞いた楽しかった話を想い出し、高校の気の合わなかった生物担当教師と私が16歳の時に亡くなった叔父さんの顔を想い出していたからかもしれない。
私の叔父さんは、とっても変わっていて筑波山の麓で隠遁生活を送りながら、生物化学をこよなく愛する…変人だった。
子どもの私に細胞膜やDNAについて、本気で講義するような人で…。
奥様を心から大切にする人だった。
いつも叔母さんの左手と自分の右手を重ねて手を繋ぎ、物静かで話をあまりしないけどニコニコしている叔母さんを愛おしそうに見つめる姿は、私の理想の夫婦像にもなっている。
年をとっても手を繋いでいることが出来るって、結構凄くない?
自分の両親というか、母親しかいなかった私には夫婦の在り方を教えてくれる叔父さん夫婦が一番身近な憧れのカップルとして認識されても可笑しくないと思うんだ。
何が原因で爆発を起こしてしまったのか、解明できなままだったけど最期の時まで手を繋いでいられた夫婦は、幸せだったんじゃないかなって今は思う。
私は田中零、20歳の大学2年生だ。
直毛の黒髪は腰までの長さを保ち、服を着ていたら瘦せ型に見える身体も格闘技で鍛えた無駄のない筋肉に包まれていて、身体能力は高い方だと自負している。
ついでに言うならば、理数系強いのでリケジョの分類に入るかな…で、目鼻立ちがはっきりしているからか、キツイ印象を持たれやすい。
身長はこの春測定したら、165㎝を少しだけ越えていた。
在学する大学は、日本の中ではちょっと特殊な大学で研究だけに特化した全寮制の専門大学だ。
これまでにあった 大学とは違って、実習や実験等を重視していて、即戦力となる人材の育成を目指す目的で設置されているから、卒業後は大企業への就職がかなりの確率で成功する。もちろん、大学院で学ぶことも出来るし、企業とかが出資しているせいか学費も安い。
全寮制だから、地方の学生にも優位だし、教養科目などの変な単位を取る必要もないから研究を大学生の時から推し進めることが可能だ。
だから、高校の時に学んだ生物基礎の応用学なんて内容も、必要だと自分が考えれば受講も出来る。
生物学を極めたいと思っている私にとっては願ったり叶ったりの大学だ。
私の両親は、二人とも亡くなっていて、もういない。
父は、私が母のお腹にいるときに交通事故で亡くなってしまった。
二人は数日後には結婚するはずだったと聞いている。
授かり婚だったけど、父は母の妊娠を喜び、すぐにでも結婚する予定で仕事を詰めていたようだ。そして、恐らく過労による居眠り運転が引き起こした交通事故…。
慎重な運転しかしなかった父が、猛スピードでカーブを曲がり切れなくなるほどアクセルを踏み込むなど考えれない、きっと疲れで居眠りをしてしまったんだろうって母もおじいちゃんも言っていた。
若い二人が結婚することは、父の両親は賛成だったらしい。
勿論、父の両親には私を身ごもってことも話をしていたようで、産婦人科医のおじいちゃんは、妊娠中の母をずっと診察してくれていたし、看護師をしていたおばあちゃんも母の出産前後の世話とかいろいろとお世話してくれたらしい。
出生後から大学生になるまでの間、7歳までは母とともに、10歳以降は一人になった私だけ、おじちゃんやおばあちゃんと共に暮らした。
淡いピンクの大きなモクレンの木と枝垂れ梅、白と赤の山茶花が植えられたおじいちゃんの庭には、四季ごとに咲く花も植えられていて、いつも心が和んだ。
おじいちゃん達には、とても可愛がってもらったと思うし、大事に育ててもらったと今も感謝している。
母は、私が10歳のときに自殺してしまった。
母は、父が亡くなってから鬱病を発症してしまったらしく、常に薬が手放せない状態だったようで、おじいちゃん達は母が一人で子育てできる状態になるまで心配で一緒に暮らしてくれて居たようだ。
母が子育てを一人で出来る状態になったのが、私が7歳になった頃のようだった。
おじちゃん達の家から電車で3駅という、あまり離れていないけどすぐには行けない程度の距離に小さなマンションを購入して、友達が全くいない小学校入学を私は迎えた。
それでも7歳から10歳までの母との二人暮らしは、楽しかった。
鬱病の状態の良いときは、母は近所のスーパーでレジ打ちとして働いていた。
仕事終わりには総菜を買って帰り、それを食べることが多かったけど、たまに作ってくれるオムライスや肉じゃが、豚汁は美味しかったし、私が話すことを目を細め垂れた目尻で笑いながら涙を流しつつ聞いてくれる母の顔が好きだったからだ。
小学校から帰ると、家中の観葉植物に水をあげるのが私の日課だった。
2DKの狭いマンションには、所狭しと観葉植物が置かれ、いつも空気が気持ちよく澄んでいた気がする。
アジアンタムや幸福の木、ベンジャミンやアナナスやヘゴなど植物園かのように大きく育った植物は、それを眺めながらリビングで勉強すると母が帰宅するまでの寂しい私の気持ちを和らげてくれた。
母の調子が悪くなると私が母の食事やそのほかの生活を手助けし、薬の管理をするといった状況だったけど、そんな母も症状が収まると少女のように亡くなった父の優しかった想い出を語り、私の世話を焼いてくれた。
近所に住むおじいちゃん達が世話を手伝ってくれてこともあり、平和だったと思う。
おばあちゃんが胃がんを発症し、おじいちゃんが私達の世話に時間を割くことが出来なくなると、母は自分で何とかしないといけないって思ったようだ。
「頑張るね…。」
亡くなる前の母の口癖を想い出すと今でも胸が痛くなる。
「うん、頑張ってね!」
私は何度もそう返答していたから…。
あの時、頑張らなくていいよって言ってあげていたら、母は今も生きていたかもしれないのに。
爆発事故で亡くなった母の兄である叔父さんは、昔は海外で生命科学の研究をしていたそうだ。
母との二人暮らしの生活費は、この叔父さんとおじいちゃん達が助けてくれていたようで、私達二人が衣食住に困らなかったのは、すごく有難いことだったと思う。
母と叔父さんの両親、つまり私の母方の祖父母の話は、あまり聞かなかった。
連絡もないし、きっと親子は不仲だったのだろうって思う。
聞けないままだったけど、聞いちゃいけないような気もして…。
でも、私の家族は、私が知っている人たちだけでいいんじゃないかって思う…。
暗い過去だらけの私だけど、性格は至って前向きなんだ。
何だって『C’est la vie !(これも人生さ!) Que Ser á, Ser á(なるようになる)』って思って生きている。
誰かに『よくこんな人生でぐれなかったね』って言われたことがあるけど、ぐれたって仕方ないじゃん?
自分の人生、これからきっともっと色んな事があるって思うし、全てがこれからのためにあるって思えば、なんだって受け入れられるって思うんだ。うん。
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