第115話 修羅場と寿司とカリフォルニア
小夜子はイエス様を認識できなかった。
この計画で何かが来るというのは分かる。それだけの天才的な、いやさ天才にしか成し得ぬ術式であるからには何かを呼べるのは間違いない。しかし、イエス様が本当に来るとは、小夜子ですら信じられなかったのだ。
どうせ、炎の剣かケルビム辺りがやって来て足木夫人を塩の柱にでも変えてしまうのが関の山。
足木夫人から連絡があり、期待もせずに合流してみればその予想は裏切られ、人間にしか見えないイエス様がいる。
正真正銘の神の息子。光あれと宣言されたヤハウエ様が遣わした真なる人。
「人間の姿で来てくれるなんて、好都合だわ」
足木夫人にとって、ベリアルの残した罠がイエス様によって潰えるのは想定内であった。龍子と商店街で待ち合わせたのも、きっと神の子が来てくれると信じていたからだ。
なんの確証も無く、足木夫人は信じていた。
ベリアルごとき悪魔に運命をいじくられた少女を救うなど、イエス様にとって造作ないこと。
「うむ……足木夫人よ。わらわは抑えられんようになってきた」
間宮小夜子は小走りにイエス様へと歩を進めながら、口元を抑えていた。
唇の端がめくれあがり耳まで裂けようとしている。常ならば異常を制御するはずの瞳には、煮え滾る喜悦。異界の超越生命である肉体が、
「もう、はしたない顔をして！ お子様なんだから」
脳が、小夜子の脳が異次元の本能からの命令で変性する。
神の子との
「てぃぃきぃぃりぃりりりぃぃぃ」
小夜子の肉体は、故郷の声と言葉を用いて
「
足木夫人は小夜子の認識の外から、子供を叱る母のように言う。そして、小夜子の背後から忍び寄った。超越生命がただの人間である足木夫人を認識できない。
足木夫人は最強最悪の現代式魔法使い。
足木夫人がその名を広く知られていないのは、敵対した相手を組織ごとあまりに早く殲滅せしめ記録にすら残らなかったせいである。
一つの組織を滅ぼすのに要した時間の平均は、1470秒。
そんな足木夫人が、間宮小夜子の後頭部に指を指し込んだ。小夜子の全身の支配権を得るのに1.2秒。脳構造を把握するのに4秒を要し、再構築設計に6秒をかける。
足木夫人は天才である。だからこそ、人間の領域に止まる程度に退化していた小夜子の脳を、正しい形に治療してしまった。
いつの間にか、優しい世界へ逃げ込もうとしていた小夜子の脳をあるべき姿に戻したのだ。
変化と喪失を恐れ、休眠を欲していた小夜子はもういない。
「眠く、なくなった……」
小夜子は呆然とつぶやいて、足木夫人を見やった。
「もう、女子高生なんだから子供みたいなのはダメよ。しゃんとしなさい」
頭の中にあった霧が消えている。だから、現状を把握できた。未来と現在は限りなく近い位置にあって、停滞による維持が可能な基底現実の折り返し地点にいる。しかし、ここで立ち止まるのは永劫の停滞にすぎず、問題の先送りだ。
誰も失わない代わりに、小夜子が停滞して休眠する。眠れば、その時に終わりの日まで目覚めない。
「まさか、わらわが操作されておるとは……油断したわ。足木夫人よ、助かったようじゃ。礼を言わねばならんな」
「小夜子さんの感謝は受け取るから、今からは余計な口出しをしないでね」
足木夫人への返礼だ。ここは従うしかあるまい。
だから、小夜子はイエス様の目前で立ち止まり、何もしない。ただ、子供じみた悪さのあるワイルドな風貌を見るだけだ。不思議なことだ。ちっとも似ていないのに、どうしてかトミーを思い出す。
「バケモノのお嬢ちゃん……親父にも従わない魂か。ロックだな、東の果てにいるってのもいいな。悪くねえぜ」
「イエス様がわらわをそのように言われるか……」
悪魔と呼ばれても仕方ないと、そう思っていた。だというのに、イエス様は面白そうにしているだけだ。
小夜子は何か言いたかったが押し黙った。ちらりと、足木夫人を見やる。彼女は何かを考えているようだ。
そんな魔人たちを、地蔵菩薩は龍子を抱き上げたまま見ている。
イエス様は街角で出会ったバケモノと神を見回して、大げさに肩をすくめた後で苦笑いを浮かべた。
「くそったれが、女ばっかりで居心地が悪い。それに、通りの真ん中でやることじゃねえな。まだ酒は飲めるから、場所を変えようぜ」
イエス様は言うと、親指で通りのすぐそこにある駅前のお寿司屋さんである【鶴屋】を指さした。店主が看板の電気提灯に灯りを入れたところだ。
どうしたものかと口が重くなったところを、地蔵菩薩様がとりなした。
「立ち止まってたら迷惑やねえ。ほら皆さん、お寿司食べにいきますえ」
それもそうかという雰囲気になり、寿司でもつまんで話し合おう。そういうことになった。
一方そのころ、若松は千草とユメちゃんを連れて商店街を回っていた。
偶然を装って現れる女たちを「親戚の子の面倒を見ています」でかわし続ける若松に、ユメちゃんはドン引きであった。
本来ならば普通の人間には姿を見ることのできない異界幽霊の千草も、今日だけは普通の人間として振る舞うことができる。
足木夫人の創った魔法円は、人ならざる者を人に近づけて顕現させる結界であった。
千草やユメちゃんだけでなく、近場の妖怪なども人に紛れてクリスマスを楽しんでいるのだ。
そんなことになっているのだが、誰も妖怪の存在などに気づかない。特に害があることをする訳でもないのだし当然のことだ。
彼らは神社の賽銭箱からくすねた金で、普段は食べられないフライドチキンや甘酒に舌鼓を打っているか、美味そうに酒を舐めている。それだけしかやっていないし、魔法円の効果で人々はその異常に鈍くなっている。
「若松兄さん、クリスマスっていいものね。外国のお祭りは賑やかで楽しいわ」
千草は若松の腕を抱いて、勝ち誇っていた。ところどころから突き刺さる負け犬の視線、ただの人間などに渡すまいぞという威嚇でもあった。
時として、そのようなものを意に介さない人間がいる。
「若松くん、ここにいるって聞いたから来たよ」
偶然を装うつもりも無いというストロングスタイルでやって来たのは、生徒会長である鷲宮沙織であった。
「おや、奇遇ですな。鷲宮先輩、今日は生徒会の皆さんとは一緒じゃないので？」
頼むから一緒であってくれ。そんな若松の祈りは虚しい。
「若松くん、沙織って呼んで。クマヒさんのことは名前なんだし、いいでしょう？」
共通の知人を引き合いに出す上に、
「いえいえ、生徒会長。名前で呼ぶと誤解されちまいますよ。ははは、クマヒさんはお名前をお呼びする時にそうとしか呼べないもんで」
こういう時、食屍鬼という特殊な事情が分かっていれば強い。
ポンコツ生徒会長と小夜子が呼んでいる。このポンコツという言葉、悪い意味では使っていない。普通の人間はポンコツになどなれないからだ。
鷲宮沙織はポンコツで巨乳で金持ちで幸運で、強い女であった。
「若松くん、この際だからもう一回言うね。大好き、男の子として大好き。だから、今日は一緒にいさせて。お友達の人には悪いけど、今日のわたしはワガママなの」
ストロングすぎる。カワイイ感じで言ったところで内容はクレイジーの所業。そして、傍から見たらハーレムでも若松はマジで困る。
泣かれでもしたら後味が悪いし、一世一代みたいな雰囲気で詰め寄られてしまうと、断りにくい。
「アバズレが……」
ぽつりと千草が低い声で言う。これには生まれながらの魔女であるユメちゃんもビクっとした。
こいつら、頭おかしいんじゃないのか。ママのところに行きたいとユメちゃんは思った。
「若松のお兄ちゃん、わたしドーナツが食べたい！」
ユメちゃんが無邪気な子供を装う。
足木夫人と万が一にも戦いになったらということで若松と共にいたユメちゃんであったが、まさかこんな修羅場に居合わせるとは思ってもみなかった。
「沙織さん、後で話しましょう。今日は、ユメちゃんも連れてますし、千草さんもいますんで」
若松は問題の先延ばしを選択した。だが、沙織はこんなことでは黙らない。なぜなら、ポンコツでストロングだから。
「ダメだよ、いま聞いてほしいの」
そこで沙織は言葉を止めて、千草とユメちゃんに視線を向けて語り掛ける。
「千草さんとユメちゃん、はじめまして。女の子なら分かってくれると思うけど、今日は若松くんと話したいの。お願いします」
鷲宮沙織は、真正面から行く。
こんな時、卑怯かつ外堀を埋めて距離をつめるタイプの千草はジャンケンのグーとチョキくらい相性が悪い。何を言っても、性格の悪い嫌なオンナにしかならなくなってしまう。
千草は不利であることともう一つ、重要なことを理解している。
沙織が王手をかけた勝負所。
ここは逃げられぬと、千草は
「沙織さんと言われましたね。今日の若松兄さんは、私とユメちゃんのためにこのお祭りに来ているんです。突然来てワガママなんて通りませんよ。お気持ちは分かりましたから、お帰り下さい」
ユメちゃんは頭を抱える。子供がドーナツを食べたいって言ってのに無視するとか、お前ら頭おかしいのか。
イブの商店街で地獄の蓋を開くな。煙草屋の婆さんを筆頭にギャラリーまでできてる。
あと若松、しっかりしろ。
ユメちゃんは早口で言いたくなったが、哀しいかな魔女とはいえまだコドモ。
女二人の迫力に押されて言葉を出せない。
修羅場は加速していくのであった。
そんなことが行われていた同じ時、お寿司屋さんの【鶴屋】。そのお座敷では特上寿司を囲んで魔人と神の息子と菩薩様での話し合いが行われていた。
だいたいのことは足木夫人の話から分かった。
天才として生まれたことによって、種族の違いから生じた孤独と、世界から外れているという奇妙な感覚。この意味を、神に確かめたかったのだという。
小夜子はタコの握り寿司を味わっていた。タコというのは淡泊を通り越して味がしないから、煮付けて味をつける。関東風の強い味付けは、ご飯としての握り寿司だ。
「のう、足木夫人。わらわが言うのもなんじゃが、中年の自分探しではないか！ そんなん、どうでもよいじゃろ」
イエス様は押し黙って、ウナギの寿司をつまむ。
地蔵菩薩様はウニ軍艦へ手を伸ばしていた。
「よくないよくない！ どうしてこんな生活してるのって、毎日思うのってほんっとに辛いのよ」
「ええ大人が何を言うとるんじゃ！」
イエス様が手を上げた。
すっと伸ばされた手に、鶴屋の大将がいちはやくオーダーであると反応する。
「マスター、美味くてきつい酒だ。テキーラがいいが、あるか？」
「へい、テキーラ一丁よろこんで」
寿司をつまんでテキーラをやる。カリフォルニアロールでもあれば、きっとアメリカ寿司。
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