帝都大学の恵

藤山千本

第1話 1、恵と千 

<< 1、恵と千 >>

 「おかしいわねえ。」

恵は座り心地の悪い椅子に反り返って呟(つぶや)いた。

「しょうがないわね、もう一度計ってみますか。」

恵の前には古びた大型のテーブルがあり、その上には左側にノート型のパソコンが置かれ、中央には上皿天秤が置かれ、その右側には4㎝のマスで区切られた平たい木製の保存箱が置かれていた。

マスの中には2㎝程度の石や鉱物が敷かれた綿に載せられていた。

保存箱のマスの縁の上には鉱物の名前と重量が印字された古そうな紙が貼られていた。

鉱物標本であった。

 部屋は7m4mの矩形で部屋の壁は鉱物標本が載った棚で出入り口のドアを除いて埋め尽くされていた。

部屋の中央には大型の木製テーブルが木製の椅子と共に置かれ、天井から太めの電気コードが下がっており、2本の20W蛍光灯がはめ込まれた照明装置と4口のコンセントを支えていた。

コンセントにはテーブルの上のパソコンと上皿天秤からのコードが繋がっていた。

部屋には窓も無く換気扇も付いていなかったので、この部屋で仕事をする時には常にドアは開け放たれる。

その方が標本室独特の匂いも緩和できる。

 恵はこの部屋でアルバイトをしていた。

鉱物標本の名前と重量をパソコンに入力する仕事だ。

この仕事は恵の所属していた化学科の教授が紹介してくれた。

友人の地学の教授に頼んだのだった。

恵は一人で生活していた。

親が残した資産はあったが奨学金とアルバイトで生活していた。

恵は最長の歴史を持つこの帝都大学の理学部化学科に籍をおく優秀な学生の一人だった。

 その日の仕事も終えようとした頃、一つの鉱石の重量が標本箱の紙片に記載されていた値と異なっていた。

少し軽いのだ。

恵はその鉱物が入っていた方形の枠内に鉱物の破片が無いことを確かめてから先端にゴムをはめたピンセットで鉱物を摘(つま)み丁寧に天秤の上に載せた。

上皿天秤の示す重さは紙片に記されていた値と同じになった。

恵は測定値の記憶には自信を持っていた。

先ほど計った重さは明らかに今の表示よりも少なかった。

 恵は鉱物を元のマスに戻してからピンセットを見ながらしばし考えた。

周囲には測定に影響を与える可能性を持つ物はない。

重量が重くなったのなら可能性は無くはないが軽くなるはずがない。

鉱物は六角柱で端面は平面になっている。

三方晶系、単軸晶系の鉱物だ。

恵はもう一度ピンセットで六角柱を挟み静かに上皿天秤に載せた。

表示は紙片に記載された値と同じであった。

 恵はピンセットで六角柱の端を摘んで端面を下にして天秤の天板に立てた。

天秤の表示は200㎎ほど小さな値を示した。

予想した結果ではあったが恵にはそうなる理由がわからなかった。

六角柱の重さを計るには角柱は横たえて計るのが普通であろう。

その方が安定する。

恵はたまたま角柱を立てて測定したのだった。

数回の試行を経て恵はその鉱物は測定の向きによって重さが異なることを確信した。

その鉱物の名称はSトルマリン(S-tourmaline)と記されてあった。

 恵はその鉱物を紙に包んでスカートの隠しに入れた。

少し調べてから明日にも戻しておけばいい。

恵は残りの鉱物の計測には鉱物の位置を変えて2回ずつ行ったが重さが異なる鉱物はなかった。

一時間程の計測を終えて恵はパソコンのデーターをメモリーチップに記録した後に電源を落とし、ドアの横の照明のスイッチを切ってドアに鍵をかけた。

薄暗い石のドーム型天井の廊下を通って正面玄関に出て守衛に会釈して外に出ると彫刻が施された石の張り出しには夕日が入り込んでいた。

 昔の面影を残す石造りの理学部は芝生に散在する大木のある広い庭に囲まれていた。

庭にはテラコッタ色の敷石が敷かれて丸石で縁取られた小道があって近道を作っていた。

恵は芝生の中の小道を梢の木漏れ日を浴びて夕日に向かって歩を進めた。

恵の歩く姿には特徴があった。

 恵の頭は長い首を介して肩に載っており小さめの乳房よりも前には出ていなかった。

細身の首には胸元から耳にかけて2本の筋肉(胸乳突筋)が浮き出ていた。

頸椎は後ろに伸ばされ胸椎に載っていた。

何よりも特徴的なのは歩く時には脚を体より前にあまり出さなかった。

ハイヒールの時には便利だろう。

こんな姿のため知り合いであれば遠くからも歩いている恵を見つけることができた。

 「恵、お仕事は終わったの。」

後ろから透き通った声が聞こえた。

恵は歩みを止め振り返ると級友の千が地上に突き出た大木の根に腰を掛けていた。

千は女の恵から見ても完璧な美人であった。

 人の造形はモザイクである。

目にしても鼻にしても耳にしてもそれらの一部は必ずどこかで見たことがある。

顔の造形に関与する遺伝子が限られているからだ。

だからモンタージュ写真を作ることができる。

 千にはそれがなかった。

千のどの部分を見てもそれまで見た記憶がなかった。

完璧に左右対称の面立ちを持っていた。

皮膚は肌理(きめ)が細かく透き通った象牙のような乳白色をしていた。

 「今終ったところ。千はここで何をしていたの。」

「夕日を見ていたの。木漏れ日って面白いわね。予測が着かないわ。」

「千でも分らないことがあるのね。少し安心した。」

「この世には分らないことの方が多いような気がしているわ。でも、分っていることは考えの対象から外してしまうのでそうなるのかもしれないわね。」

「千らしいわね。私なら木漏れ日を見たら光の筋が芝生で踊るのに感動してしまうわ。」

「それもいいわね。青苔(せいたい)ではないけどね。」

「鹿王ね。『返景深林に入りて復青苔の上を照らす』だったわね。でもこの周りには人が見えるわよ。」

「そうね。それなら『空山』ではなく『学舎深き思索の森、語る妙齢美女二人』としたらどうかしら。絵になるわ。」

 「あら、私は妙齢だけど美人ではないわ。」

「恵は美人よ。本人が気付いていないだけ。恵には知性と意思が美しさになっているわ。」

「でもねえ。」

「恵の美しさは歳をとってもずっと輝き続けるの。私が思慮深い男だったら恵を妻にするわ。」

「ありがとう。でも少し複雑ね。」

 「これから夕食の準備をするの。」

「そうなの。何を食べるのか決めるのはいつも難問よ。」

「毎日決断するのは大変ね。恵なら一ヶ月か数ヶ月の献立表を作っていると思っていたわ。」

「そうしていたこともあったわ。でも止めたの。献立表を作る時にはその日の気分は予測できないから。」

 「そうね。それで今晩は何を食べたい気分なの。」

「何だろう。解らないことがあったら千なら何を食べる。」

「難しい質問ね。解らないことの内容によるわ。木漏れ日の動きを予測するような解決できない蓋然性が高い内容ならチャーハンね。気楽だしね。数学の難問のような努力すれば解決できる蓋然性が高い内容なら振りかけと冷や奴とウインナソーセージね。調理しなくていいから。遠い将来に解決できそうな内容ならお赤飯と胡麻塩ね。ごま塩の胡麻は小さな原点だから。」

 「千はいつもそんなご飯を食べているの。調理が楽なのばっかりじゃない。」

「わかってしまったわね。秘密よ。」

「了解。今夜はお赤飯とごま塩にするわ。」

「そう。原点に出会ったのね。」

「そうなの。丁度いいわ、千も一緒に原点を飲み込んでくれない。」

 「いいけど、卵は自分が一人で暖めるものよ。」

「私の能力では孵化しそうもないわ。千がいっしょなら孵化できそうだわ。」

「難しい問題のようね。」

「そうなの。かいもく見当がつかないの。」

「一緒にお赤飯にごま塩を降って食べましょうか。」

 千は不思議な同級生だった。

年齢は不明であった。

この大学には一般の大学入試を合格して入って来たが底が見えない知識を持っていた。

講義する教授も何か千には遠慮しているように見える。

試験は常に満点であったし、講義の内容における過ちを指摘することもあった。

 同級生の噂では幾つかの博士号も持っているらしい。

理学博士、工学博士、農学博士、医学博士、文学博士、経済学博士らしい。

理学部への在籍は2度目らしい。

全て「らしい」の謎の完璧美人であった。

男子学生は千には近寄らなかった。

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