第19話
あれから、どうやって家まで帰ったのか記憶がなかった。
気付いたら薄暗い部屋の中で、独り泣いていた。
虚ろな眼差しで天井を眺めていると、ぴんぽーん、と玄関のチャイムが鳴った。
しかし扉の方へ視線を向けるのも億劫で、居留守を決め込むことにした。
しかしチャイムの音は鳴り止まない。ずいぶんしつこいな、と思っていると、ガチャガチャと扉のノブを回す音が聞こえてくる。今度はさすがに無視するわけにもいかず、鉛のように重くなった体を持ち上げ、恐る恐る部屋の陰に隠れながら扉の様子を窺っていると、ガッガッと鍵穴に何かが差し込まれる音がした。
泥棒⁉ どうしたら、と息を潜めながら狼狽する私は、とにかく部屋の中に住人がいることを知らせれば逃げ出すと思い、足音を殺して居間の灯りをつける。すると、音が止んだ。
帰ったんだ。と思いホッと胸を撫で下ろすと、今度は扉を叩く音に変わる。
いよいよどうしたらいいのか分からなくなったその時、扉の向こう側から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「華、いるの? ちょっと開けてくれない、玄関の鍵なくしちゃった!」
妙に明るい声。間違いない、私の保護者である義妹の亜香里だ。
「姉さん⁉ ご、ごめん‥‥‥っ! 今、開けるから‼」
慌てて扉へ駆け寄り、錠とチェーンロックを外すと、勢いよく扉が開いた。
「寒いさむい、も~、いるなら返事くらいしなさいよ」
「ご、ごめん。ちょっとボーっとしてて‥‥‥」
ベージュのトレンチコートに、首元を赤いマフラーでくるんだ亜香里姉さんは、皮手袋を嵌めた手にスーパーの買い物袋(ネギやら、卵などの食料品)を下げている。それをズイッと私に押し付けると、そのまま玄関に上がり、履いていた靴やストッキングをぽいぽい脱ぎ散らかして居間のソファーにどかっと倒れこむ。
「あぁ~、疲れたぁ~。やっぱり我が家は最高ねぇ~」
「お帰り、姉さん。お勤めごくろうさま」
今ではすっかり見慣れた光景が、この時ばかりは涙が滲むくらいかけがえのない光景のように思えた。姉さんが散らかしたストッキングや洗い物を洗濯籠に放り込み、ソファの横に脱いだままのコートをハンガーにかける。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、姉の前に置く。
「ありがと。さすがは我が妹。気が利いてますなぁ~」
「‥‥‥‥‥」
「どったの、急に黙り込んで?」
ソファから体を起こした姉さんは、アップにまとめていた髪を解くと、フッと口角を緩めた。
「何か悩みでもあるなら、私でよかったら聞くよ?」
「姉さん、教えてほしいことがあるの。三月から起こった集団不審死事件‥‥‥その犯人について」
「ああ、やっぱり知ってたんだ」
姉さんは何も聞かず、おもむろに立ち上がると、ソファに立て掛けていた鞄から一通の封筒を取り出し、それを私に差し出した。
「私たち刑事には守秘義務があるから、本当はこんなことしちゃダメなんだけど、あの子から‥‥‥黒条 凜からアナタに渡すように頼まれたわ」
「凜から?」
「中身はまだ見てない。私の先輩が一応軽く眼を通したみたいだけど、特に気にするようなことはないって、特別に許可をもらったの」
「姉さん、私‥‥‥」
「あー、疲れたわぁー。あっ、ビールってこれだけだったよね? 私ちょっとコンビニまで買いに行ってくるから、それまでに夕飯なにか適当に作っといてくれない」
早口に告げ、十二月だというのに仕事用のシャツの上に再びコートを羽織り、そのまま部屋を後にした。それが私を一人にするための子芝居であることは鈍い私にも察せられた。
「ありがとう、姉さん」
小さく感謝の言葉を呟いた私は、手紙の入った封を切った。中には三つ折りにされた一通の手紙が入っていた。
『久しぶり』
『これを読んでいるってことは、もう私が何をしたのかあの子から訊いていると思います。
アナタのことだから多分、たくさん泣いたと思います。ごめんなさい』
『だけど、これは私の問題であって、アナタが気にすることではないわ。
すべては私の弱さが招いた結果。孤独に耐えられなかった私がアナタに勝手に依存して、
勝手に自滅しただけ』
『私は、アナタの人としての美しさにずっと憧れてた。クラスメイトから苛められても、ア
ナタは決して人を恨んだり、傷つけようとしなかった。むしろ、苛めていた相手のことすら
思いやっていた。誰も傷つけず、自分一人だけが傷を負う。そんなあなたの事を、私も他の
人たち同様に弱い人、何をされても言い返せないだけの人だと見誤っていた。だけど、ある
時気付いたの。アナタはやり返さないんじゃなくって。それによって相手が傷つくことを恐
れていたんだって。それからアナタの事を観察してた』
『私にはない、輝きをみたから。モノクロだった私の中に希望の光を与えてくれた特別な存在。それがアナタだった』
『華、アナタの生き方は間違いなく正しい。正しすぎて、時々、ヒヤッとさせられる時もあるけど、アナタのその在り方をこれからもどうか見失わないで』
『今更許してなんって虫のいいことは言わない。だけど、もし次にまた私たちが出会う事ができたなら、その時はもう一度、私と友達になってください』
手紙の締めの一文に眼を通した瞬間、それまで堪えてきた涙腺が決壊した。
手紙の上にとめどなく涙滴が滴り、文字が崩れる。
『アナタと出会えたこの一年は、これまでの人生の中で最も幸せな時間だった。ありがとう。そして――――さようなら』
堪え切れず膝から崩れ落ちる。手紙がクシャクシャになるのも構わず胸にきつく抱きしめた。子供のような慟哭に、壁の薄いアパートの近隣住民から苦情が出るかもしれない。だけど、今はそんなことに構わず声の続くかぎり泣き続けた。
◇
「ただいま」
姉さんが帰ってきたのは、家を出てから一時間も経った後だった。近くのコンビニは歩いて五分ほどの所にあるので、ここまで時間がかかるはずがない。そもそも姉さんの手にはコンビニのレジ袋はなかった。眼の下と耳が真っ赤になっている。多分、私が泣き止むのを外でずっと待ってくれていたんだろう。
「お帰り、姉さん」
だから私は、努めて平時と変わらないように笑顔を浮かべてみせた。
やせ我慢でも、作り物の笑顔でも何でも構わない。姉さんの心遣いを無駄にしないためにも、今だけは決して弱音を吐かないと決めていた。
「ご飯できてるよ」
「おっ、この匂いはカレーだね」
「正解。さぁ、一緒に食べよ」
二人分のお皿にご飯と、カレーをテーブルに運んでから更にラッキョウに清涼水。スプーン、コップとそれぞれ二人分用意するのと、コートをハンガーラックにかけた姉さんが席についたのは同時だった。
「いただきます」
二人揃って唱和してから、私たちはしばらく無言でカレーを食べ続けた。辛党の姉さんに合わせて、辛口で造ってみたが、私の下には少し辛すぎた。グッと喉にカレーが詰まりかける。慌ててコップに水をつごうとするが、手元がうまく定まらずに空をきる。と、その様子を見かねた姉さんがすかさず私の手にコップを運ぶ。水でカレーを流し込み、コホコホと咳き込む私に、「相変わらず、華はおっちょこちょいだねぇ~」と姉さんが苦笑する。
その後、十分足らずで完食しから、二人で食器を洗った。一緒にお風呂に入り、テレビを見た。近頃流行っているとクラスの子が言っていたお笑いコンビの漫才に、姉さんと一緒にひとしきり笑った後、私たちは揃って床に就いた。
灯りを消して、窓から入り込む月明りを眺めていると、いつもなら布団に入って一分と掛からずに寝息を立てる姉さんが、ボソリと呟いた。
「ずっとここにいていいんだからね」
「‥‥‥‥‥」
暗がりの中、私は声を潜めて涙を流した。
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