第78話休憩の一幕

 クリスティーナは読んでいた文面から目を離して、机から顔をあげた。




「ねえ、この手紙、少しわからないところがあるんだけど」




「どこだ?」




 アレクシスが執務机から立ち上がり、座っているクリスティーナに覆いかぶさるように、上から顔を寄せる。


 頬と頬が触れあいそうだ。




(ち、近い!)




 クリスティーナの心臓が跳ねた。


 おまけに顔とは反対の位置に、アレクシスがクリスティーナの肩越しに机に腕をおくせいで、顔を離したくても離れられない。まるで、囚えて放さないという意志さえ感じられる。




(最近、すごく距離が近い気がするんだけど――)




 少しでも横を向けば唇が合わさってしまいそうで、クリスティーナは固まってしまった。


 以前は机と机が近いから手渡しだったのだが、近頃はこうやってわざわざ体を寄せてくることが多い。


 ことあるごとに密着してくるように思うのは自意識過剰だろうか。




(ううん、昨日のあれは気の所為じゃないと思うけど……)




 『昨日のあれ』とは、図書室でのことだった。


 ふたりで調べ物をしにくれば、アレクシスか机に書物を広げながら、一点を指差す。




『クリス、あの一番上の棚にある右から三冊目の本、とってきてくれないか?』




『うん、わかった』




 クリスティーナは指定された本を取りに、椅子から立ち上がる。


 本棚の前に来て、手を伸ばすが、取れない。


 上背の足りないクリスティーナでは、上の棚は高すぎるのだ。


 それでも必死に手を伸ばしていると、その手に別の手が重ねられ、本をとってくれる。




『ありがとう――』




 その手の持ち主が勿論、アレクシスだとわかるクリスティーナは礼を言う。


 しかし、振り返ると同時に、目の前にアレクシスの顔があった。


 そのあまりの近さに、思わず息をのんだ。


 本棚とアレクシスに挟まれた状態で、真上から見おろされる。


 もう目的の物は手に入れたはずだから、離れていいはずなのに、アレクシスは動こうとしない。




『アレク――?』




 戸惑って声をかけた。


 自由を阻むように互いの両足が交差し、頭上の棚にアレクシスの手がおかれている。まるでアレクシスという檻に囚われてしまったようだ。


 何故か追い詰められているような気持ちになって、クリスティーナはごくりと唾を飲みこんだ。


 アレクシスの顔が影になっているせいか、瞳の光が際立って見えた。


 まるで獲物を前にした肉食獣のようで、このまま食べられてしまいそうだ。


 アレクシスの顔が近づき、互いの息が混じり合った。


 クリスティーナが動けないでいると、図書室の扉が開く音がした。


 誰か来たようだ。


 アレクシスの体がようやく離れた。


 クリスティーナはほっと息を吐くも、頭の中は疑問だらけだ。




(一体、今のアレクはなんだったの?)




 その後、とってきた本が一度も開かれなかったことも、更に頭を捻る要因に繋がった。




(まるで、わざと取りに行かせたように見えるけど、そんなはず、ないよね。きっとたまたま今日は使わなかっただけだよね。――きっと、こんなに疑り深くなるのも、もうひとつのことがあるせいかもだけど)




 そう思ったところで、扉がノックされ、メイドがお茶の一式を持ってくる。




「ありがとう」




 クリスティーナはお礼を言って、立ち上がる。


 メイドはカートを置いて一礼すると、去っていく。


 ここから先はクリスティーナの役目である。


 充分蒸らされたことを確認して、ティーカップに紅茶注いでいく。




(あ、まただ)




 途端に後ろが意識される。先程の『もうひとつのこと』とは、クリスティーナがアレクシスに背を向けると、執務室から音が消えるのである。


 ペンを走らせる音、紙をめくる音が一切しなくなる。と同時に、強い視線を感じる。


 後ろに目がついてるわけではないから、自意識過剰と言ってしまえばそうなのだが、いつもしている音が消えると、やはり気になって仕方がない。


 しかし、くるりと振り向くと、アレクシスはさっきと同じ体勢で、ペンを走らせている。




(やっぱり気の所為なのかな?)




 ティーカップをローテーブルに運びながら、盛大に首を捻る。


 クリスティーナの勘は当たっていた。


 今、まさにアレクシスはクリスティーナの背中に視線を注いでいた。


 その後ろ姿と、小屋で見た裸を重ね合わせて見られているなどと、考えにも至らない。


 クリスティーナはティーカップをニ客置き終わると、アレクシスを振り返った。




「紅茶、いれたよ。休憩しよう」




「――ああ」




 アレクシスはおもむろに頷くも、何か思いついたように、その眉がほんの少し開いた。


 一枚の書類とペンを両手に持って、ソファへと移動する。




「どうしたの?」




 クリスティーナは首を捻った。休憩でお茶を飲むときは、仕事の手はひとまずとめる。


 万一にも書類を汚してしまわないようにだ。




「急いで処理しなくてはいけない書類が、今日多くて、手が離せない」




「そうなんだ。でも、せっかくいれたし、いっぱいくらい飲んでよ」




 隣に座って勧めれば、アレクシスがクリスティーナに目を向ける。




「クリスが飲ませてくれ」




「わたしが飲ませるの? ――うん、わかった」




 目をまるくするが、アレクシスが忙しいなら仕方ない。クリスティーナはティーカップを持ち上げた。




「そうじゃない。この前みたく、口移しで飲ませてくれ」




「ええ!?」




 驚愕するクリスティーナ。




「そんな、恥ずかしいよ」




「じゃあ、今日は紅茶を諦めるしかないか」




 アレクシスが溜め息を吐く。




「せっかく入れてもらったのに、無駄にさせてしまったな」




 残念そうに首をふる。




「う――」




 クリスティーナはそれに押されるように、体をのけぞらせる。少し頬を赤くして、紅茶をしばらく見つめるものの、結局は負けてしまう。




「わかったよ。飲ませれば、いいんでしょ。本当は口付けしてるみたいで、すごく恥ずかしいけど」




 紅茶を一口すすり、アレクシスの顔に唇を寄せた。薄い唇と合わさった。




「ふっ――」




 途端にアレクシスの舌が分け入ってきた。


 前回と同じく、口腔内のいたる場所を味わいつくそうと、アレクシスの舌がクリスティーナの中をかきまわす。




「ん、んん」




 舌同士が絡まり合った。


 手が離せないと言ったのはどの口か、アレクシスはペンと書類を置いて、今やクリスティーナを抱きしめるように後頭部と腰に手を回している。


 舌先を吸われ、互いの舌がこすりあい、合わさって、熱い熱で、とろけていく。


 気付けば、クリスティーナはソファの上に押し倒されていた。


 舌も思考も体の動きさえ、ままならず、アレクシスによって翻弄されていく。




「ん、んー」




 力強い体に覆いかぶされ、二人の体が重なり合った。心地良い重みと体温のせいで、体さえもひとつにとけていくような錯覚に陥った。


 アレクシスが角度を変え、何度もクリスティーナの中を犯していく。 


 凶暴なひとつの生き物のように舌が紅茶どころか、吐息も思考さえも奪い去ろうと動き回る。


 もう口の中には一雫も紅茶は残っていなかった。離れてほしいと、肩を何度も押すが、アレクシスには何の阻害にもなっていない。


 愛しいひとの柔らかな唇と舌を堪能するのに夢中である。


 思う存分、貪りつくしている途中で、扉がノックされた。


 アレクシスが唇を離し、小さく舌打ちをする。


 しかし、酸欠になってくらくらになったクリスティーナの耳には届くはずもなかった。


 アレクシスはクリスティーナを解放しおもむろに立ち上がると、扉を開く。




「なんだ?」




「ライザー侯爵の使いで、こちらの書類をお届けに参りました。――ひっ!」




 書類を差し出した男はアレクシスの顔を見て、悲鳴をあげる。


 不機嫌さを隠そうともしない王太子の顔つきに、思わず後ずさる。




「何してる。――寄こせ」




「は、はい!」




 険しい声音に、頭を下げて、書類を差し出す。


 アレクシスが受け取れば、不興を被らないうちに慌てて立ち去る。




「失礼しました!」




 男が室内を見ることはできなかった。上背のあるアレクシスが入口で立ちふさがっていたせいである。


 もし、覗き見ることができたなら、アレクシスの後ろで、しどけなくソファに横たわったクリスティーナが、真っ赤な顔で喘いでいる姿を見ることができただろう。


 しかし、そんな姿をほかの男の目に映すことなど絶対許すつもりのないアレクシスである。


 早々と立ち去った男の判断は正しかったと言えた。


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