第58話要望(2)
「ヴェステル山だと?」
アレクシスが執務机から顔をあげる。
今日は機嫌が悪いらしい。
眉間に皺が寄っている上に、シルヴェストがいるというのに、言葉遣いもいつものままだ。
クリスティーナは説明する。
「せっかく、この国に来てもらったから、シルヴェスト殿下の願いを叶えてあげたいと思って」
それにクリスティーナもその景色を見てみたかった。噂には聞いていたが、天高く山脈が連なり雪に一面覆われた様はそれは美しいらしい。普段、王都から離れたことがないなら尚更だ。
アレクシスはしばらく考える素振りを見せた。上目遣いでクリスティーナをちらりと見る。
「クリスも付いていくのか?」
答えを返したのは、クリスティーナではなく、後ろに立っていたシルヴェストだ。
「当たり前じゃないか。わたしの従者なんだから」
『わたしの』と言ったところで、アレクシスの眉がぴくりと反応した。
「わかった」
「ありがと――」
「――ただし、俺も行く」
クリスティーナが感謝の言葉を終える間もなく、アレクシスが口を開く。
クリスティーナは目を丸くした。
「アレク――いえ、殿下も行くの?」
「ああ」
先程よりも更に眉間の皺が深くなっているように見えるが、気の所為だろうか。
一方、アレクシスの内心は――
(おまえの従者だと!? ふざけるな。クリスとふたりきりになどさせるものか)
正確にはふたりきりではないのだが、怒り心頭のアレクシスの頭からは抜け落ちている。
「でも、仕事どうするの――」
「素晴らしいね、一緒に旅する仲間が増えた。それもアレクシス殿下とは、実に嬉しいよ」
またもやクリスティーナの言葉が遮られた。ただし、今度の相手はシルヴェストだ。
クリスティーナの頭上の上で、どんどん会話が成立していく。
「ヴェステル山なら、行って帰って四日の旅だろう。色々用意するから、二日後の出発だな」
「ありがとう。感謝するよ。この御恩は忘れない」
シルヴェストは胸に手をあてて、アレクシスに一礼する。端麗な容姿のシルヴェストがすると、とても様になる。
「ああ」
アレクシスは頷いただけだった。
しかし、シルヴェストは気にした風もなく明るく言った。
「それじゃあ、仕事の邪魔になっても悪いし、我々はもう行くよ」
「――はい。殿下も仕事、頑張ってください」
クリスティーナはシルヴェストに続いて、くるりと背を向けた。部屋を出ていこうと扉を閉めるとき、何故かアレクシスが何かを掴もうと手を差し出したまま、固まっているのを見て、首を捻った。
(虫でもいたのかな?)
あまり気にせず、扉を閉めたクリスティーナだった。
シルヴェストの部屋に帰る道すがら、ひとりの貴族に声をかけられた。
「これは殿下。ご機嫌、麗しゅう」
「ええと、あなたは」
「ベルント・ハイトラーと申します。ナット地方を治めていると言えば、おわかりでしょうか」
クリスティーナの頭の中で、目の前の男の情報が浮かんだ。アレクシスとともに学んできた知識の賜物である。
ベルント・ハイトラー侯爵。ナット地方の領主で、茶葉の特産で有名である。最近、品種改良したビロック産におされているときく。
シルヴェストも地名を聞いて、納得したようだった。
「長年お世話になってきたというのに、あなたの顔をすぐ思い出せず、申し訳ない」
「いやいや、最近はブラッティ伯爵は勢いがありますから当然のこと」
ザヴィヤは紅茶の輸入が随一高い国だ。今までずっとナット産一筋だったのが、今はビロック産と半々の量になりつつあった。
そんなベルント相手に、シルヴェストも対応に困るのだろう。少し、困ったように口を開いた。
「いや、そういうわけではなかったのだが、申し訳ない」
ベルントが大袈裟に手を振る。
「殿下が謝らないでください。こちらがいたたまれなくなりますから。これも時の流れというもの。盛者必衰でしょう」
ベルントは明るく言った。
「ところで、殿下は毎日、舞踏会に出席なされているとききますが、今日もどこかへ?」
「いえ、もう舞踏会には足を運ぶ予定はありません」
「そうですか。ではこのまま王宮で過ごされ、ザヴィヤに帰るのですな」
「いや、その前にヴェステル山に行こうと思いましてね」
そのとき、ベルントの瞳の奥が輝いたように見えた。
「それはまた何しに?」
「風光明媚ときくスオネヴァン山脈を近くから目に焼き付けときたくてね。この国を訪れる一生に一度しかない機会だし」
「それは素晴らしい! 殿下のお目にかかることができるスオネヴァンは、ますますその名を世界に広めましょうな。いやあ、アルホロンの国民として、こんな嬉しいことはありません」
やや大袈裟過ぎるきらいがあったが、王太子相手ならそうなるのも当然かと、クリスティーナは納得したのだった。
ベルントと別れ、ふとクリスティーナは後ろを振り返った。
ベルントはまだそこに立っていた。
クリスティーナと目が合うと、ふいと目をそらし足早に去っていく姿が何故か、印象に残った。
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