空が青い理由は

八山スイモン

第1話 空が青い理由は


「ねぇ、知ってる?空が青い理由」


「青い光の方が赤い光とかよりも空気中で散乱するから、ですよね。角度の問題で、夕方は赤い方が散乱するから空は赤く見える」


「物知りねー。ちなみにそれ、"レイリー散乱”っていうらしいよ!」


「僕への当て擦りですか?うるさいんで早く出ていってください」


「うわ、冷たー」



僕は青い色が見えない。いわゆる色覚障害というやつで、青い色を見ると全て灰色っぽい色に見えてしまう。

そのため、僕の前で青色の話をするのは本当にデリカシーの欠片もない行為なのだが、僕よりも2・3歳くらい年上らしい"彼女”はそれらを全無視して僕に青色の話を振ってきた。



「この話、もしかして嫌だった?」


「好きだとでも思ってるんですか?」


「あはは、色って話題作りやすいからさ。いじるにはこういう話題しか思いつかなかったんだよねー」


「チョイスが悪すぎます。もういいです。さよなら」


「え、ちょっとー」



ただでさえ僕は機嫌が悪かった。

今日は少し前に受験した美大の試験結果が決まる日だったのだ。結果は"不合格"。理由は知る由もないが、予想はつく。僕は美術の経験が薄く、おまけに青色を描けない視覚障害者だ。視覚障害のことはあまり気にされなかったみたいだが、経験の無さはやはり大きくマイナスに響いたようだ。


形はどうあれ、この目を克服して画家になるという夢は確実に一歩遠のいた。落ち込んだ僕はいつも自分の部屋で読書に耽るのだが、今日は家に転がり込んできた彼女のせいで、落ち込んだ気分すら台無しになってしまった。


彼女は僕の両親が仲良くしている知り合いの家庭の一人娘であるらしく、幼い頃から面識はあった。とはいえ、歳の近い男女は歳を重ねるにつれ会話しなくなるものだ。だが、僕が画家を目指し、美大を受験することを決めた瞬間から彼女は昔のように馴れ馴れしく家に転がり込んできては僕にかまうようになったのだった。


正直、鬱陶しかった。昔みたいにいつも姉御風を吹かせてくるし、いちいち僕が気にしていることを突いてくる。彼女との会話によるストレスが落ちた原因なんじゃないかとさえ思えてきた。



「もう美術のこととかに触れてこないでください。あと、勝手に家に上がり込んで冷やかしをするのもやめてください。率直に言ってウザいです」


「ありゃ、これは本格的に嫌われたかな?」


「ただあれこれ喋るだけで、何も僕に利益がないでしょ!マジで無駄なんで、本当に関わらないでください」


「ふーん……」



そう言って僕は携帯と財布と家の鍵だけを持って家を出ていこうとした。家にいてもおちょくられるだけだ。適当にそこらへんのコンビニにでも寄りながら雑誌でも読んで時間を潰そうとしたが_____



「私のおじいちゃんが画家でね。"柳千字"って知ってる?」


「……え?」


「近々、若い画家志望の人だけを集めて大規模な展覧会やるんだって。若い画家の人たちにとっては、そこでどれくらい評価されるかが人生決めるくらいには凄い展覧会らしいよ」


「え、いや、ちょっと待ってくださいよ。"柳千字"って世界的にも評価されてる、

日本最高の画家じゃないですか……」


「そう。その人私のおじいちゃん」



柳千字。海外では「サムライセンジ」と呼ばれ、荒々しくも美しさを感じる絵が有名な画家だ。日本円にして10億を超える価格で落札されるような絵を描いたこともあるらしい。10代の頃から絵を描き始め、今年で活動してから60年が経つらしい。

日本の画家の世界では知らない者のいない、超大御所である。

その柳千字の主催する展覧会。それは確かに人生が決まるレベルの展覧会であると言えるだろう。



「どう?展覧会、参加してみない?」





___________






そうやって、僕と彼女で一緒に絵を描く日々が始まった。


彼女は祖父が世界的な画家であるからか、絵に関してはかなり造形が深く、様々なアドバイスをくれた。自分の絵を手直しされてさらにいいものにされた時には、もうこれまでのように悪態をつくことはできない。ぐうの根も出ずに僕は彼女の生徒として、彼女は僕の先生として絵を描くことになったのだ。


「ここの部分、もうちょい暗くした方がいいかな。全体的に明暗をもっと分けた方がエモいよ」


「毎度思うんですけど、『エモい』とかで美術を表現しないでくれません?僕が教科書とか読んでたのが馬鹿みたいじゃないですか」


「真なる美術とは理由のない感覚の中で生まれるものなのだよ、少年」


「どうせ僕にはどんな感覚ないですよ。どうやったら僕でも身につけられますか」


「どうだかにゃー。まぁ、色々見ていくうちに慣れるもんだよ」


「はぁ……」


……とまぁこんな感じで、彼女のセンスに頼っているという、あまりにも不甲斐ない状態なのである。

そして、自分に絵を教えているような人間の絵が下手なはずはない。是非一度描いた絵を見せて欲しいと頼んだのだが、「私、自分の絵は肝心の時まで見せないんだー」とか言って、結局見せてもらえなかった。


展覧会まではあと1ヶ月。正直、画力を上げるにはあまりにも短い時間だ。それでも、できることは成さなければならない。何も賞を取ったりする必要はない。一人でもいいので見る人を呼び込み、自分の名を売ることが必要なのだ。できることを最大限にやるしかない。


「……そういえば気になってたんですが、他にはどんな参加者が?大体でいいので、展覧会の雰囲気を知っておきたいです」


「うーん、そうねぇ。有名どころでいえば全国高校生美術展で最優秀賞を受賞した

花部蘭とか、世界的な画家のJ.D.ルノアールの教え子の岸晴久とかじゃない?みんなどっちがおじいちゃんに選ばれるかでウカウカしてるよ」


「名前がビッグすぎる……。僕以外にも初心者というか、未熟者っていないんですか?」


「あー、ほとんどいないねぇ。君の参加権は私がゴネつけたようなもんだしぃ?」


「……」


さて、本当にどうしようか?

天才だらけの展覧会で僕が目立てるとは思えない。だが主催者、それもあのサムライセンジのお孫さんの名前を借りての参加でありながら、下手な絵を出してしまったらどうしようか?下手したら2度と美術の世界に足を踏み入れられないんじゃないか?


「……っ」


気にしても無駄だ。できることは描くこと。ただ描くことだ。直しを入れてぐちゃぐちゃになったキャンバスを破り、お題となる絵を最初から描き始める。


お題は「新たな発見」。斬新な世界観で鑑賞者を魅了してきた柳千字らしいお題だ。まずは目を瞑り、イメージを作る。「新たな発見」、そのシチュエーションのことをよく考える。


自分にとっての新たな発見。例えば行ったことのない街に行った時の感動だったり、初めて学校に通った時のなんとも言えない感動などが当てはまるのだろうか。あるいはどんよりとした曇天の中に虹を見つけた時、夜の訪れを待っている時の夕焼けの鮮やかな色を目に焼き付けた時、海に行ってその果てしなさに感動したり、高い山に登った時の雄大な景色を目の当たりにした時も当てはまるだろうか。


様々なシチュエーションを思い浮かべる。だが、どうしても強い印象に残るものはなかった。青い色が分からない自分にとっては、果てない青空はただひたすらに広がる曇天でしかない。海の景色も、よく分からない色に塗りつぶされた液体の塊でしかなかった。


山に登ったこともあったが、長く歩いたことの疲れが全てを台無しにしてしまった。人と関わるのが好きでなかった自分にとっては、新しい人との出会いも胸に残るものにはならなかった。そのせいで、今の曖昧な自分があるのだが。


「……くそ」


思い浮かばない。今頃、同じ展覧会に参加する天才たちは何をしているだろうか。天賦の才を活かし、素晴らしい絵を描き始めているだろうか。それとも、無数のアイデアに頭を覆われ、どれにするか取捨選択するという、贅沢な才能の使い方をしているのだろうか。


そう、自分は何も発見をしてこなかった。何も知ろうと、感じようとしなかった。見えないものを気にして、見えるはずのものを遮断してきた報いが、今こうして自分を蝕んでいるのかもしれない。


悔しさと後悔が入り混じった感情が込み上げる。この時の感情をキャンパスにぶちまけられたら楽だろうなと思い、僕は乱雑に灰色っぽい色でキャンバスを塗りつぶした。





___________





「もう何も描ける気がしません」


「えー、スランプ?」


「スランプだといいんですけどね。これは治るものではないです」


展覧会まであと2週間。レトルトのカレーを食べながら、彼女とぐうたらと時間を過ごしていた。相変わらず、絵のイメージは掴めそうにない。


「でも確実に絵は上手くなってるよ。特に白黒のモノクロトーンの使い方は抜群ね」


「それしかそれっぽい色で描けないんですよ。目のせいで、赤とか緑とかの色もちょっと変に見えるんで」


「ふむふむ」


僕はやはり、自分の目が嫌いだ。耳が聞こえなくとも作曲家を貫いたベートーベンは偉大だと思うが、それと同じことを自分ができるとは思えない。


僕が見ることのできない青色は、一般的には「落ち着く色」として扱われているらしい。澄んだ色をしていて、実際に心理学的にもリラックス効果があるのだとか。他にも、若々しいことを指したりもするらしい。「青春」なんて言葉があるが、あれは僕にとっては悪魔みたいな言葉だ。青春をしている今時の若者は、自分たちの行いのどこに「青さ」を感じているんだろうか?不思議でしょうがない。


また、自然の美しさを表現するものといったら、やはり「空」と「海」だ。特に空の青さは海と違い、格別に澄んでいて眺めてて心地がいい、らしい。遥か昔から人々は空の青さに神秘を感じ、空には何かすごいものがいるのだと考えたのだそうだ。だから、どの宗教でも神様とかの偉い存在は空の上、雲の上にいると思われているのだろう。僕にとっては何のことかさっぱりなのだが。


ともかく、だ。青という神秘的な色を使えないのは、やはり致命的だ。僕はまた、自分の目のせいで足を挫かれてしまうのか……。


「君、どうしていつも自分は何もできないって思ってるのかな」


「えっ?」


不意に、彼女が身を乗り出して真剣な眼差しでこちらを見つめてきた。


「このカレーの原材料、分かる?」


「はい?まぁ、香辛料とか肉とか野菜でしょ?」


「それもあるけど、添加物がたくさんだよ。体に悪い油脂とか、化学的に作られた調味料がたっぷり。ちょっと考えてみ、鍋で煮込まれたカレーに白い粉が入っていく瞬間を……」


「食う気なくすんでやめてください。大体、そんなのどの食品も同じでしょ」


「そう。確かにディスったけど、カレーはこんなにも美味しいし、別に食べる分には何も感じないよね」


「……それが何か?」


「つまりさ、レトルトカレーの悪い部分さえ知らなければ、このカレーはただの美味しいカレーでいられたんだ」


「……で?」


「え、こんなにカッコつけたのに、効果なし?元気づけたつもりなんだけど」


「単純にカレーが可哀想だなって思っただけです。ご馳走様でした、と」


皿を持って洗面台に置き、とりあえず水につける。そのまま絵の練習をするためにアトリエに入ろうとした時、いつになく真剣な彼女の声が僕の耳に残った。



「何かが見えないって、本当は羨ましいことなんだよ」



いつもやかましいくらいに元気な彼女の目が、いつの間にか物悲しげな色に染まっていた。その横顔はあまりにも切なそうで、ボソリと耳に残った声と合わさって空気を重くした。


僕は彼女のカッコつけを無下にしたことに若干の申し訳なさを感じつつ、ポリポリと頭を掻いて部屋に入った。





___________





見えないことが羨ましい、だって?何を言っているんだ。


僕は生まれてこの方、目で得をしたことがない。いつもクラスメイトにはわざと青いペンで書かれた悪口の紙を机に貼られた。青い色が見えないと話していたが、正確には青い色が灰色に見えてしまうだけなので、何が書かれてあるのかは鮮明に見えていた。幼さ故の過ちが、いかに幼い心を抉るか、大人たちは理解できるだろうか?それはもう、想像を絶するくらいだ。自分の世界の一部を切り取られたかのような気分になる。


でも、全盲の人に比べれば自分は幸運だと思っている。全盲の人は灰色すらも見ることができないのだ。それがどんなに怖くて辛いか、僕には想像もできない。僕には見ることを許された自然の緑の美しさも、夕焼けの鮮やかなオレンジ色すらも見えないなんて、残念だと心の底から思う。


でも、彼女の言葉は僕のこんな考えで切り捨てていいもののようにも思えなかった。僕とは違い、彼女は何か視覚的な障害は何も持っていない。そんな彼女が、僕を羨んでいる。その理由はどうしても知りたかった。


そんなことを考えながら、僕はとにかく筆を手に取る。がむしゃらに絵を描き始める。新しい発見を描くまで、僕のがむしゃらは止まらない。再び目を瞑って、絵のイメージを作る。



思い出したのは、初めて彼女に出会った時のこと。まだ小学生だった自分に、制服を来た彼女が話しかけてきたのだった。


「君、名前はなんていうの?」


ニコニコとした顔で話しかけられ、図鑑を読んでいた僕は面食らったことを思い出した。ちょうど学校でのいじめが激しくなり、学校に通わなくなった頃の話である。


彼女はとても賢く、色んなことを知っていた。習ったことのない理科の法則の話とか、一つも読み方が分からない古典の話とか、気が遠くなるくらい昔の歴史の話などを、彼女は僕に語り明かしてくれた。その時の僕は他人に対して刺々しく当たっていたのであまり彼女と会話はしなかったのだが、その時に教えてもらったことは今でも頭に残っているし、その時の彼女のニコニコとした顔は好きだった。


ただ、鮮明に覚えているのは、彼女が中学を卒業したくらいの時、しばらく彼女が遊びに来なくなったことだ。何があったのかは知らないが、どうやら家庭の問題に巻き込まれたらしい。しばらくしてから何事もなかったかのようにまた遊びに来始めたのだが、それから時折、彼女は落ち込んだり、悲しげな表情をすることが増えた。


僕はその頃から徐々に小学生の時のいじめから立ち直りつつあり、ようやく将来何をしていこうとかの話を前向きに進められるようになった。画家を目指そうと決めたのも、この時に前向きになれたからだと思う。


でも、彼女はどうだったのだろう。思えば、高校生時代に話した彼女は、あまり馴れ馴れしくなかった気がする。家に勝手に入り込んでくるだけでも十分馴れ馴れしいとは思うが、出会った当初のようなニコニコとした笑顔は確実に減っているように感じた。


転機は、僕が画家を目指して美大の対策を始めてからだった。このことを知った瞬間、彼女は昔のようなニコニコとした笑顔で、僕に話しかけてくれたのである。


言うのは恥ずかしいが、僕はその笑顔が戻ってきてくれたことが嬉しかった。だから、必死に美大の受験にも力を入れたのである。



今思えば、僕にとっての「新しい発見」とは、このことなのかもしれない。



覚悟を決めた僕は、それから一度も彼女に絵を見せず、展覧会の当日を迎えることになった。





___________





「すごい人だな……」


展覧会当日。似合わないフォーマルな格好で会場を訪れた僕は、その人だかりに埋もれていた。


会場はまだ開いていないのに、大勢の来場者が会場の外で長蛇の列を作っていた。よく見ると、どこかで見たことのあるような人の周りに人だかりができており、それが人混みを作り出していた。おそらく、美術界の大物たちなのだろう。


突然、人混みの一部から歓声が上がった。


「あれ、本物?!」

「すごい!」

「うわぁ、本人だ!」

「本物の柳千字だ!」


人混みの中から下駄を履き、古風な袴を来た老紳士が現れた。柳千字、この展覧会の主催者である。白髪が混じってはいるがしっかりと撫でつけられたオールバックの髪は齢が80に近いとは思えないくらいに若々しい。眉間に深く刻まれた皺と丁寧に手入れされた髭がよりいっそう「古風な男」を際立てせている。「サムライセンジ」の異名も納得できるところではある。


展覧会に作品を掲載する画家はここで大物の画家や、富豪の絵画好きと交流を深めるという。だが、来場者の視線は柳千字に釘付けであり、とても自分のような小物に出番が回ってくるとは思えない。緊張が半分と、自分の今後を考えて憂鬱な気分が半分の気持ちで、僕は会場に入っていった。





___________





展覧会が始まった。来場者が次から次へと会場に入り、注目されている絵にあっという間に人だかりができた。やはり、注目の対象であった花部蘭や岸晴彦の絵の周囲には、大勢の人だかりができていた。


そして案の定と言うべきか、僕の絵の周りには全く人が寄ってこない。見てくれる分には見てくれるのだが、10秒くらいですぐに他の絵に移ってしまう。僕の絵は会場でもかなり端の方に設置されており、露骨に扱いの差が現れていた。


「どこに行ったんだ?」


そういえば、今日はまだ彼女を見かけていない。待ち合わせをしていたのだが、姿を現さなかった。


受付に行き、彼女がどこにいるのか尋ねることにした。この展覧会は柳千字の親戚が主催することになっているので、受付にも柳家の親戚が立っていた。彼女も親戚なので、きっと運営の手伝いで忙しいんだろうと思っていたのだが……


「あの、すみません。____って人知りませんか?多分運営の人だと思うんですけど」


質問をした途端、受付の女性は露骨に顔を顰めた。


「ああ、あの子ならこの展覧会にいるんじゃないかしら。運営ではないわよ」


「そうなんですか?彼女、柳さんの親戚なのでてっきり手伝いをしているのかと」


「……あなた、あの子の知り合い?」


「え、あ、はい」


「そう。別にあの子は柳の家系の子ではないけど、確か絵を展覧会に出していたから、見ていくといいんじゃないかしら」


「……え?」


彼女も、絵を出していた?どういうことだ?彼女は俺に絵を教えるばかりで、自分では描いていなかったはずだ。


急いで、展覧会の掲示作品一覧を見る。ちゃんと確認していなかったのだが、まさか。





そこには、僕の名前は載っていなかった。


代わりに、「西野空乃にしのあきの」の名前が、確かにそこに載っていた。





僕は慌てて自分の掲載されている絵に向かった。さっきは遠巻きに見ただけで、ちゃんと自分の名前で展示されているかどうかなんて見ていなかった。


そして、の下には、西


「……」


息を忘れそうになる。


ワナワナと拳が震え、目を見開く。僕の目線は、真っ直ぐに自分の絵へと向けられていた。


この時の僕の感情は、どうにも言い表せそうもない。怒りでも、失望でも、悲しみでもない。表現方法のない何かが、自分という器を満たすのが分かった。


「ごめんね」


不意に後ろから声がかかる。意外にも冷静に、彼女の顔を見つめることができた。


光を反射するような輝きを放つ長い黒い髪と、真っ白な肌と、控えめな色のドレス。美しい彼女の容貌は、僕にとってはベタベタと下品に作られた作り物のようなものに見えた。


「柳家の家系の人じゃないって、受付の人が言っていました」


「そう、聞いたんだ」


「苗字は西野だし、変だなって思ってました。柳千字の娘さんの家系かなって思いましたけど、って聞いてます」


「……」


「あなたは何なんですか?」


ストレートに、疑問をぶつけた。今の自分には、これを聞く正当な権利がある。


「柳千字には、息子が二人いた。知ってるでしょ」


「片方は父と同じく画家で、もう片方は大手の芸術教室の経営者だ。知ってます」


「でも、もう一人いた。もう一人、がいたのよ」


「___!」


「それが私の母親。そして、その人と西野晃の間に生まれたのが、私」


つまり、彼女は不倫によって生まれてしまった存在であった。柳の家系にとっては、まさしく汚点。本来であれば本家と関わることすら許されなかったはずだ。


「私はね、おじいちゃんが大好きだったの。有名で偉くて、いつも話題に上がるかっこいいおじいちゃんが大好きだった。

でも、私は知ってしまった。怖いよね、いきなり家に柳の人が入ってきて、怒鳴り声でお父さんとお母さんと喧嘩してたんだよ。怖くて、私はおじいちゃんの話ができなくなった。でもね、おじいちゃんは相変わらず私のことを好きでいてくれたの。私には絵の才能があるから、放ったらかしにするのはもったいないって」


彼女の話を聞きながら、僕は段々と自分の中に嫌なものが入ってくるような感じがした。嫌だ。やめてくれ。そんなことは知りたくない。


お願いだから笑ってくれ。お願いだから表情を明るくしてくれ。あの絵のように、僕が君を追い求めた時のように、ニコニコとしてくれ。


僕は、もう1秒でも早く、彼女の顔から目を逸らしたかった。だが、彼女の美しい顔から目を背けることができない。まるで金縛りにあったかのように、僕は彼女の顔を見続けていた


「私は、おじいちゃんに認めてもらうことで、もっとたくさんの人に自分を見てもらいたかった。でもね、そんな時に、君がいたんだ。汚いものを見ずに、真っ直ぐに自分だけの自分を目指す君がいたんだ。

嫉妬したよ。私は君のように綺麗な目でいられない。私はもっともっと荒んだ目でしか自分を見れないのよ。

だから、展覧会に絵を出しても、私は君に負けるだろうなって思ったの。だから、私が望むものをあなたに描いてもらった。見なくていいものを見ない目を持っているあなたに、理想の絵を描いてもらったの」


話すにつれ、段々と彼女の目に雫が溜まっていくのが見える。その雫は、水に濡れた窓ガラスを伝い、一筋だけ窓の向こうを見せてくれるような、そんな雫に見えた。

だが、その窓の向こうはガサガサとした灰色で染まっていた。段々と明るくなるにつれ、それは段々と自分の知らない色になっていった。



ああ、そうだ、これだ。これこそが____



「ひどいでしょ、私。悪いことをしたと思ってるよ。だからさ____」


「おーい、空乃。ここにいたのか」


「「!」」


声をかけてきたのは、古めかしい袴と厳しい目の皺が特徴の老紳士、柳千字その人であった。


「これがお前の絵か。____おお、いい絵だ。素晴らしいよ」


柳千字は「空が青い理由は」という題名の絵を見て、そう呟いた。


、か。他人の笑顔を見るものは多いが、自分の笑顔を見るものは少ない。お前は、自分の笑顔に何かを見出せたのか?」


「はい!この絵は____」





___________






僕は今日、新たな発見をした。おそらく、何よりも大事なことを。そして、何よりもを。


ふと、自分の拳に力が入るのが分かった。ああそうだ、僕がやりたいことは絵を描くことなんかじゃない。僕がやりたかったことは____



その時、途方もない快感が体を駆け巡った。


拳を握り、談笑する二人の間を抜けて、自分が必死に描いた絵を、自分が待ち望んだ、彼女の笑顔が書かれた灰色の絵を、僕は殴り壊した。


バリン、と気味のいい音が鳴り、バラバラになった絵と僕の拳の血が同時に滴り落ちた。



周囲の人は驚愕に顔を染めて、すぐ近くにいた柳千字は驚愕と怒りが混じった顔で、そして彼女は驚愕と困惑した顔で、僕を見つめた。


「お、お、お前、何をしとるんだーーーーっっっっ!!!」


柳千字の絶叫が響いた。


すぐに何人もの

スーツの男が現れ、僕を押さえつけた。抵抗する気もないので、なさえれるがままに拘束された。


彼女は呆然とした表情で僕を眺め、そのままへたりと座り込んでしまった。


彼女の目は、怯えていた。何に怯えていたかは分からない。



そして、その時の自分の表情は、もう2度と再現できないくらい、笑っていた。





___________





あれから、僕は画家の道を中断し、警察を志す道へとシフトした。勉強はそれなりに大変であったが、それまでの僕では考えられないくらい精力的に活動していたと思う。


西野空乃とはあれから一度も会っていない。あの展覧会の日、僕は警備員に連れて行かれながら笑い声をあげていたそうだ。柳千字は怒りで今にも掴みかかってきそうな勢いであったが、僕の不気味な笑いを聞いてゾッとしてしまったらしい。


彼女はあの後、柳千字に認められた画家としてデビューしたそうだ。だが、何を思ってかすぐに海外に渡航し、画家としての活動を全てやめて新しい生活を送ることにしたらしい。


あの日、これ以上にないくらいの新たな発見をした僕は、一つの目的のために警察を志すことにした。それは_____





「明石さん。あなたをインサイダー取引規制違反の疑いで逮捕します。証拠は上がっていますので、釈明があれば署でお願いしますね」


みっともなく騒ぎ、暴れる高いスーツを着た男を数人がかりで押さえつけ、車に入れる。この男は違法な取引によって不正に巨額の利益を上げようとしていた。


「なお、他の役員の皆様にも疑いの目は向けられています。今のうちに、洗えるものは洗っておくことをお勧めしますよ」


血の気の引いた大企業の役員らが、青ざめた顔でオドオドとし始める。


まぁ、「青ざめた」と言われても、僕には青色は見えないのでどんな色になっているかはよく分からないのだが。



僕の目は、相変わらず青を映さないままだ。だが、今はもうこの目のことを嫌っていない。この世には見なくていいものが多くあることを、この仕事を始めてからも嫌と言うほど思い知らされるばかりだ。


僕は警察となった後、さらに権限を有する検察へと出世し、主に権力者や資産家を相手取った犯罪捜査の仕事を始めた。あまり憧れられる仕事ではないが、僕は大いにやりがいを感じていた。


なぜなら、からだ。いや、本当にいじめをしていた当人に復讐できるわけではない。彼らは彼らで真っ当な人生を生きていることだろう。


だが、この感情は消えない。塗られた色は簡単には消えない。塗られてしまったが最後、一生この色で生きていくしかないのだ。だから、自分はこれから先もずっと、自分にこの荒んだ色を与える者と、この色を周囲に与えかねない者たちを取り締まり、罰を与える人間であり続けようと思う。


もう、空の色を追い求めるのはやめた。僕が追い求めた色は、多くの人が美しいと

尊ぶその色は、僕にとっては最悪の色だったのだから。






そうして今日も僕は灰色の空を眺める。今日もまた、誰かが灰色に染まった。










 -終わり-









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