金魚姫
あべせい
金魚姫
金魚姫
「ねえ」
「なんだ。おれは忙しいンだ」
「わたしたちのご主人、最近おかしくない?」
「今頃、気がついたのか」
「だって、わたしのこと、さわるのよ」
「それくらい、我慢してやれ」
「だって、撫でまわすンだもの。わたし……」
「きさま、喜んでいるンじゃないだろうな」
「だって……」
「水を取り替えるときだけじゃないか」
「だって、心配だもの。このまま、水鉢に戻されなかったら、どうしようかと思ったり……」
「主の妙なしぐさが始まってどれくらいだ。まだ、ひと月だろう。10日に一度の水替えとして、先々月あたり、何かあったンだろうな」
「奥さんが亡くなったじゃない」
「それは半年も前のことだ」
「大切な奥さんが亡くなったのよ。半年も、ってことはないわ。まだ、半年よ」
「ショックを受けているようには見えンがな」
「あなたは相手を好きになったことがないでしょ」
「あいにくな。相手にめぐまれない」
「ご挨拶ね。わたしだって、相手を選びたいわ。何も好き好んで……」
「やめろ、不毛の議論は。おれたちは、選ばれたンだ。30数匹いた水槽の中から、やつに指さされて、な」
「でも、最初は3匹だったのに、ここに来てから、一匹がすぐに亡くなったわ」
「かわいそうなことをした。水が合わなかったンだ」
「あなたより若くて、わたしと同期だったのに。わたしの不幸はあのときから始まった……」
「おい、きさまはすぐに悲劇のヒロインになりたがる。悪い癖だ」
「思い出したわ。先々月……」
「どうした?」
「先々月、若い娘がご主人に連れられてやってきたじゃない」
「そうだったかな」
「高校を出たばかりくらいの若い娘(こ)よ」
「忘れたが、それは若すぎる」
「その娘が先月初め、ご主人にメールを寄越して、それを見て以来、ご主人の顔から、笑顔が消えた」
「笑顔?」
「あのメールがよくなかったのね。きっと、そうよ」
「そのメールを見たのか?」
「ここから見えるわけがないでしょ。でも、ご主人がメールを読みながら、つぶやいた」
「どう?」
「『やはり』って……」
「その娘にフラれた、ってことだ」
「なによ。フラれたくらいで。女なンていくらもいるじゃない。10代の娘なんか、相手にしちゃダメ!」
「どうした。きさまが怒ることじゃない」
「ご主人はいい男よ。それを袖にするなンて。許せないッ」
「いい男? どこが?」
「きりりッとした、すてきな眉をしているわ。それに、やさしい目……」
「きさまは、さっき気持ち悪いと言ってなかったか」
「気持ち悪い、なんていってないわ。このまま水鉢に戻されなかったらどうしようって。不安になっただけ」
「しかし、主は、その娘にかなり入れ込んでいたことは間違いない。それで、いま落ち込んでいるのか」
「なんとかしてあげましょうよ」
「そうだな。このままだとおれたちの生死にかかわるからな」
「水替えが月に一度になるわよ。最近、エアポンプの調子もおかしいし」
「考えてみよう」
「おい、いま何をした?」
「いつもの食事をしていただけじゃない」
「ウソをつけ。おれたちの食事は5分もあれば、事足りる。それなのにきさまは、しつこくすり寄っていた」
「気がついていたの?」
「当たり前だ。水面に口を突き出し、パクパク。いつもより、口を大きく開けて、しかも激しかった。見ていて、恥ずかしいくらい」
「妬いてンの?」
「バカ野郎ッ。きさまとおれは一つ年が違うンだ。きさまのような小娘に、だれが。見苦しいことをするな、と言うンだ」
「あなた、ね。わたし、これでもご主人を喜ばせようと努力しているの。ご主人が水鉢に顔を寄せてきたじゃない」
「あ、あれはだな。きさまが苦しんでいると勘違いしたンだ」
「そうかしら。もう少しで、キスしそうだったわ」
「バカ者ッ! 人間と我々は住む世界が違うンだ。愛し合って、どうするンだッ!」
「オジさんは、人魚姫ってお話、知らないの?」
「知らないでどうする。それより、『オジさん』って、だれのことだ?」
「あなたに決まってンじゃない」
「いつから、おれは『オジさん』になったンだ?」
「大声を出したら、『オジさん』になるのッ。覚えておきなさい」
「……」
「どうしたの? ちょっと、言い過ぎたかしら?」
「きさまは人魚姫の悲しい結末を知っていて、言っているのか?」
「知っているわ。愛するカレのために、自らは海の泡になって消えてしまうの」
「きさまはそれでいいのか。泡になっても……」
「待って。わたしは金魚姫じゃないわよ。人間にしてください、ってお願いはしていない。まだ……」
「おい、気を確かに持つンだ。いいか。おれたちはこの狭い水鉢のなかに、おれたちだけなンだ。きさまにもしものことがあったら、おれはどうなる?」
「あなた、わたしをがっかりさせないで」
「?」
「人魚姫は、相手のために自らが犠牲になるの。自分のことだけ考えるなんて、サイテーッ」
「いや、それはいきがかりで言っただけだ。きさまを心配してのことだ」
「そう、かしら? だったら、わたしがご主人の手にすりよったのも、ご主人に元気になって欲しいからだってことは、理解しているのね」
「も、勿論だ」
「じゃ、邪魔をしないで、静かにしているのよ。シィッ、ご主人が来たわ」
水鉢の前に屈んだ男。年齢42歳、名は聡(さとし)。2センチ近く伸びた無精髭が、男をより老けさせている。
聡は、水鉢を見下ろし、尾ひれをゆらゆらと泳がせながら水面近くまであがってきた♀琉金に話しかける。
「梨奈ちゃん、元気だったかい。ぼくはまだだめだ。近頃のお天気のように、どんよりして、すっきりしない。あの娘の『さよならメール』が堪えているンだな」
梨奈と呼ばれた♀琉金は、口をパクパクさせ、懸命に答える。ことばにはならないが……、
「わたしはいつも通り元気よ。ご主人は、外に出ないとダメです。街を歩いて、買い物をして、ひとに話しかけ、街の空気とエネルギーをいっぱい吸い込むの。そうしたら、いい出会いがきっとあります。きっと……」
男は、梨奈の口パクが理解できたのか、うれしそうに頷きながら、
「出かけるついでに、きみたちの食べものを買ってくる」
男は立ち上がった。
「アッ、待って!」
梨奈は呼び止めるが、男は踝を返し、水鉢のあるリビングを出た。
「行っちゃった。もォ!」
「どうした? 忘れ物か」
「言い忘れたの」
「なんだ?」
「ご主人がわたしたちの食べものを買うお店って、わたしたちがいた『蔭川』でしょ」
「この近くでは、あそこしかないな」
「きょうはお休みじゃない」
「そうか。毎週木曜が定休日だったな」
「どうするのかしら」
「手ぶらで帰ってくるか。気がまわるやつなら、遠くのホームセンターまで行くだろうが、自転車ではたいへんだ」
「ご主人、自転車で行くの?」
「いま音がしているだろッ。車は女房を亡くしてから、売り払ったはずだ」
「そうだったかしら……車はひとりで乗ってもつまらないものね……」
「それより、主はきさまのことを梨奈と呼んでいたゾ」
「気がついたの」
「梨奈って、亡くなった奥さんの名前だろッ」
「わたしたち、ここに来てから名前はつかなかったけれど、奥さんが亡くなってしばらくしたら、わたしは梨奈と呼ばれるようになっていた。うれしいけれど……」
「きさまに女房の代わりが務まる、ってか。バカげた話だ」
「失礼ね。だから、わたし、こんど生まれ変わったら、ひとになる。絶対にッ!」
「まぁ、精々気張れや」
「ご挨拶ね」
2時間後。
玄関ドアが開く音がする。
「アッ、帰ってこられたみたい」
「待て。おかしい」
「どうして?」
「自転車の音がしなかった」
「そうね……」
しばらくすると、リビングに入ってくる足音が。
「足音が小さい。それに……」
「歩幅も狭いわ。女性みたい……」
「あいつか」
「そうかも」
「驚かせてやるか」
「あまりむちゃはしないで」
足音はリビングに入ると、窓際の床に置かれている水鉢のそばへ。
そのとき、♂琉金が水面近くで大きく跳ねた。
しかし、足音の主は何も気づかなかったようにリビングからキッチンに入った。
「ダメだったじゃない」
「おかしいな。鈍感なンだ。いま、キッチンで何をしている?」
「冷蔵庫を開けて……ペットボトルを出した……」
「それから?」
「携帯の着信音が鳴っているわ。彼女がスマホをとりだし、耳に当てた……」
「だれと話している?」
「シッ、静かにして……相手は……いい、そのまま話すから……『いま?……あとすこしよ……ええ、でも、カギはないから……エッ、そうなの。じゃ、試してみる……わかった。あなたも、早く、きて……じゃ』切れたわ」
「おかしな電話だな」
「おかしいどころか、彼女は大きなウソをついているわ」
「電話の相手は、主か」
「ご主人が外から掛けてきたの。でも、彼女、まだ家の中に入っていない、と言っていた。カギがないようなことを言って」
「ドアは開いた」
「カギのありかを知っていた。だから、難なく、ここまで……いまはキッチンにいるのに、それを隠している。どうして?」
「カギのありかを知っていることを主には知られたくないようだ」
「そのようね。まだそれほどの関係ではないのに、それほどの関係になりたがっている。だれかさん、みたい」
「だれかさん? おれのことかッ」
「どうかしら」
「きさまは、うぬぼれて……」
「シッ! こっちに来たわ」
女性は水鉢の前にかがむと、水面を覗きこんだ。
「こんにちは。初めまして」
梨奈は迷惑そうに、長い尾を左右に一度だけ揺らした。♂琉金は、慌てて円筒状の隠れ家へ逃げ込む。
「わたしは、リナ。リナと呼ばれている」
エッ。梨奈は驚いて娘の顔を見ようとしたが、かろうじて踏みとどまった。視線を合わせてはいけない。知らんぷりだ。しかし、水草の陰からそっと……。
梨奈は自問自答する。
「どうして、わたしと同じリナなの?」「ご主人が名付けた? まさか」「あなたはだれかに似ている。どこかで会っている。ご主人好みだけれど、わたしは好きになれない」
すると、
「そろそろ、カレが帰ってくるから。じゃ……」
リナは立ち上がる。
「おい、あいつはどうやって玄関ドアのカギを開けたンだ?」
♂琉金は、隠れ家に戻ってきた梨奈に尋ねた。
「カギはかかっていなかったンでしょう」
「かけ忘れた、っていうのか」
「わざと、ね」
「不用心なやつだ。娘と示し合わせたってことはないのか?」
「それは、あるかも……ただ、あの娘は……」
「メールを寄越した娘だろッ?」
「違う。メールの娘はここに一度来たけれど、もっと若くて、顔も違った」
「じゃ、別口か。主はいい腕をしていやがる」
「自転車の音だわ……」
スタンドを立てる音がして、まもなく玄関ドアが開いた。
この家は戸建て、間取りは3LDK。公道に面した建売住宅5棟の左端の一軒にあたる。
この家の主・聡が15年前、妻と購入し、ローンは一昨年、払い終えている。しかし、妻がいないいま、3LDKは広すぎる。かといって、妻の代わりは考えられない。
「ただいま。と言ってもだれもいないよな。でも……、いいか」
エッ、梨奈は驚く。
リナにかかってきたさっきの電話はご主人からじゃなかった。ということは、あの娘もいろいろ別口があるのだ。それにしても、どこに消えたの?
主の足音が廊下からリビングに入る。手にはレジ袋が。
主は水鉢の前に屈むと、
「ポンプと食べものを買ってきた」
そう言って、袋を破り、粟粒大の食べものを掌に少量とり、水面に落とし入れる。
しかし、梨奈は隠れ家から出ていかない。♂もだ。
さらに主は電源を抜き、エアポンプを買ってきた新品と取り替える。
エアがこれまで以上に勢いよく泡を立てる。
そのとき、スマホの着信音が。
主は水鉢のそばに屈んだまま、受信する。
「はい……エッ、ホントですか……ええ、それでいいンです……待ってください、いま行きますから」
主は急いでリビングを出た。足音は玄関に走る。
玄関ドアが開く。
「こちらでよろしいですか?」
女性の声だ。柔らかな、しっとりした響き。
「はい。どうぞ」
「こんなにお近くとは。存知ませんでした」
「わざわざ……ありがとうございます」
「わたしはこれで……」
「エッ、お勘定は?」
「さきほどいただいています」
「そうでしたっけ」
「何かありましたら、お寄りください。お待ちしています」
「はい。近いうちに必ず」
「失礼します」
玄関ドアが閉じる。
梨奈は♂琉金にささやく。
「わかったでしょ?」
「何が?」
「いま、来たひと?」
「ウム?」
「もう忘れたの。ダメね」
「小出しにしないで早く言えッ」
「蔭川のお嬢さん」
「アッ、あの声、そうか」
「思い出したでしょ。蔭川のお嬢さんが配達に来たのよ。けれど……ご主人が来るわ」
主が小さなレジ袋を手に水鉢の前に。
「カモンバを持ってきてくれたンだ」
そう言って、袋から取り出した水草を水面に泳がせる。
「きみたちも知っている咲里(さり)さんだ。いままでは結婚してときどきしかお店にいなかったのだけれど、戻ってきたらしい。これから、蔭川に行く機会がふえると思う。じゃ、またあとで」
主は立ち上がり、リビングを出た。
「ご主人、咲里さんが好きみたいね」
「みたいじゃない。完全にイカレている。困ったもンだ」
「でも、さっきのリナはどこに行ったの? ご主人は、リナが待っているとは思っていなかったわ……ヘンよね」
「妙だ。おい、窓を見てみろッ」
リビングの窓の外は駐車スペースになっているが、車はなく、自転車があるだけ。ところが、そこに人影が……。
「リナが中を覗いているわ」
「顔を窓ガラスにくっつけて、おれたちのほうを見下ろしている……気味悪い娘だ」
「何か言っているみたい」
リナが窓ガラス越しに話しかけてくる。
「さっきは驚かせてごめんなさい。わたしはちょっと気が多いのね。だから、失敗ばかり。ご主人、楽しそうにしているけど、何があったの? 蔭川のお嬢さんと怪しいの?」
すると、梨奈は水面に浮きあがり、
「わかったッ! あなたのこと」
♂琉金はびっくりして梨奈の後を追い、
「おい、きさまは人間と話ができるのかッ」
すると、梨奈は落ち着き払い、
「リナは、公園のノラよ。彼女の目を見て思い出したわ。目だけは変わらないのね」
「ノラって、ときどき、駐車スペースのほうをうろついて、おれたちを狙っている……」
「そう。待って……リナ、あなた、どうして人間の姿をしているの?」
リナは意味ありげな笑みを浮かべながら、
「知りたい?」
「知りたいわよ」
「じゃ、教えてあげる」
リナはこの家から徒歩数分、バイパス脇にある小さな公園をねぐらにするノラ猫だったが、毎日縄張り内を巡回するうち、この家の主人が好きになってしまった。
リナは元々気が多い性格であちこちに好みの♂を見つけていた。ところが、この家の主・聡と出会ってから、自分がノラであることを不条理だと考えるようになった。
わたしは昔人間だった。それが何かの罪を犯したためにノラになってしまった、と信じた。
すると、聡と出会うたび、人間になりたいという強い願望にとりつかれた。願望はまもなく欲望へと飛躍し、リナはその欲望のがんじがらめになった。
苦しい、逃げたい、どうにかしてほしい。リナは聡に会うたび、目でそう訴えた。
しかし、聡にはまるで通じない。
そこでリナは、このあたりを縄張りにするノラのボス、自称ナストリーネに相談した。
ナストリーネは当年19才。人間でいえばもうすぐ百歳に達しようかと思われる♂の老ノラだ。
ノラは年を重ねると、やがて「ネコマタ」と呼ばれる妖怪になる、とまことしやかに語る地方もあるが、ナストリーネはまさにネコマタにふさわしい風貌を備えていた。
とにかくでかい。ごみ収集場に捨てられていた量りにうっかり乗ったことがあり、そのとき針が「15」のあたりを揺れ動いたという。
顔も手も足もすべてが大きい。ヒゲは口の左右にある最も長いもので20数センチまで伸び、鋭く光る眼光と、黒と薄茶の縦じま模様の毛並みと相まって、暗闇で遭遇すれば、獰猛な虎と見まがう恐れは十分にある。
しかし、リナはナストリーネのお気に入りだった。リナがナストリーネの柔らかな腹部をなめてやれば、たいていのことは聞き入れてくれた。
そこで、リナは「人間になりたいの」と、ナストリーネの腹部に抱かれたとき話してみた。
すると、老ノラは、
「条件はあるが、出来ないことはない」
と、うれしいことを言う。
その条件とは、ノラが人間になると、その時間の100倍、ノラ自身の寿命が短くなるというもの。すなわち、リナが一日人間に化ければ、リナの寿命は百日減ってしまう。2才のリナがあと12年生きるとして、12年の100分の1は⇒0.12年。これは約45日。人間のままでいれば、45日しか生きることができない計算だ。命が尽きれば、泡となって消える。
リナはそれでもいい、と答えた。ノラのまま、つまらない一生を終えるよりも。
すると、ナストリーネは、次のようにささやいた。
「ノラが人間になるのは簡単なことだ。好きな人間の耳の穴をなめればいい」
そこでリナは、聡の寝室に忍び込み、彼の右耳の穴だけでなく、念のため左耳の穴までなめてみた。
「リナ、わたしも好きなひとの耳の穴をなめればいいのかしら?」
梨奈はリナの長い話を聞き終えると、すぐにそう尋ねた。
すると、リナは、
「ノラは耳の穴だけれど、あなたたちはどうかしら……ナストリーネに確かめてみるわ」
リナはそう言って立ち去った。
そのようなチャンスは滅多にあるものではない。リナに教えられてから、どれだけ月日はたっただろうか。
深夜。
梨奈は、♂琉金が深く眠っているのを確かめた。このところの日課になっていることだが、この夜はなぜか胸騒ぎがしてならなかった。
リビングのデジタル置時計が、「2:22」を表示したときだった。
階段を踏む足音が聞こえる。やわらかに撫でるような。
梨奈に緊張が走る。このときを待っていたかのように、梨奈はそっと隠れ家を出ると、カモンバをかき分けるようにして、水面近くを静かに進む。
足音の主はわかっている。梨奈はこれ以上ない覚悟で、足音が近づくのを待った。
さかのぼること、8日前の午後8時過ぎだった。
聡が女性を連れて帰宅した。リナの告白から、2ヵ月はたっていただろう。
聡の顔が少し赤い。酔っているようだった。連れの女性の顔を見て、梨奈はびっくりした。
梨奈が予想したリナではなかったからだ。
蔭川のお嬢さん、咲里(さり)だった。
二人は水鉢をそっと覗いてから、リビングでウイスキーを飲み、そのまま寝室にあがっていった。そして、咲里は、翌日から一日置きにやってきた。三日前からは、この家に居続けている。
そう、二人の同棲が始まっているのだ。
梨奈は怒った。奥さんが亡くなってまだ半年だというのに……。聡という男は節操がない。咲里も同罪だ。適齢期を終えようとして焦っているのか知らないが、聡の亡妻に対して恥ずかしくないのか。梨奈は、亡妻の名をいただいているせいか、亡妻の怒りが乗り移ったようだった。
梨奈はリナを通じてナストリーネに相談した。その結果、うまい解決策が見つかった。梨奈はそれを踏まえ、いま実行しようとしている。
階段を降りリビングに入った咲里は、なぜかまっすぐに水鉢の前へ。
梨奈は頭をかしげる。こんなことはこの数日なかったことだ。
梨奈は、咲里を水鉢に招くため、あれこれ作戦を練っていたのだが、その必要がなくなった。
リナから聞いた、ナストリーネのことばが蘇る。
「金魚が大好きな相手のハートを掴みたいのなら、相手の鼻の穴を舐めろ。反対に、憎い相手を懲らしめたいときは、相手の鼻の頭をかじる。間違っても、相手の唇には触れるな」
「もし、触れたら」
「それは知らないほうがいい」
梨奈は咲里が許せないと思う。しかし、その真意は、聡の亡妻をないがしろにしているというより、梨奈のジェラシーが勝っている。
咲里は、梨奈の思惑も知らずに水鉢の前に屈みこんだ。ところが、その表情が尋常ではない。
カモンバの陰で待ち構えていた梨奈は、咲里の恐ろしく寂しげな顔を見て、はやる気を削がれた。
「わたし、お別れを言いに来たの」
「エッ」
梨奈はカモンバの間から顔を出し、咲里を見つめる。
ナストリーネの「憎い相手の鼻の頭をかじる」という指示に、ヒビ割れが生じる。
咲里のかわいい鼻が見える。いまなら失敗しないでやれるッ。梨奈はそう確信したが……。
「咲里さん、どうしたの?」
梨奈は何も考えずに話しかけていた。冷静になれば、ことばが通じるとは思えないのに……。
「わたしは明日まで。もう、生きていけなくなるの」
「どういうことよッ!」
「あなたにだけ打ち明けるのよ」
梨奈は息を呑んだ。咲里の瞳がダイヤモンドのようにキラキラと輝いている。
「わたしはあなたと同じ仲間だったの」
「エッ!」
梨奈はそのときことばが通じていることに気がつき、「仲間」ということばで納得した。
「たくさんの仲間と蔭川にやってきたのは一年ほど前のこと。あなたも知っている通り、蔭川のご主人も奥さんを亡くされたでしょう。それでもご主人は毎日わたしたちをやさしくお世話してくださる。わたしはいつの間にかご主人を好きになっていたの。たまらなく……」
「そんな……」
梨奈も蔭川の店主を知っている。
蔭川の主人はかなりの老齢だ。この家の主と比べれば、20才は上だろう。奥さんを亡くして十年以上になると聞いている。
心のやさしいひとだが、梨奈にとっては、それだけのひとだ。
「咲里さん、それで?」
梨奈は、咲里に対して抱いていた決意を跡形もなく忘れていた。
「ときどき店の前にやってくるナストリーネに相談したわ」
ナストリーネの縄張りは広い。しかし、あの姿で蔭川近辺までぶらつくのは骨が折れるに違いない。梨奈は、ナストリーネのタフさに呆れた。
「それで?」
ナストリーネがどんな知恵を授けたのか。とにかく、梨奈と同じ仲間だった咲里が人間の姿になったのだから、ネコマタにしか知りえない、それなりの術があるのだろう。
梨奈は、咲里の次のことばを待った。
「ナストリーネはね、こう言ったの。好きな相手の鼻の穴をなめればいい。ただし、間違っても、唇には触れるな、と……」
梨奈がリナから聞いたことと同じだ。ということは、ご主人の鼻の穴を舐めれば、梨奈も人間の姿になれるってこと? しかし、厳しい条件がある。
「人間の姿になっている間は、十倍速く時間が進み、それだけ寿命が短くなる。そのため、わたしの寿命は400日になってしまったの」
人間になったノラは百倍速く時間が過ぎるが、梨奈たち金魚は十倍。梨奈が蔭川に来る半年以上も前のことだ。
「咲里さんはそれでもいい、と思ったンでしょう?」
「そうよ。だから、やってみた」
「でも、いまは後悔している?」
「明日の夜明けが、400日目なの……」
「エーッ! 咲里さん、あと数時間しかないッ」
「蔭川のご主人は、梨奈がこの家に来てまもなくご病気になられて、いまは病院におられる。わたしは、お店の番もしなければいけないから、ご主人につきっきりというわけにはいかない。それにわたしの命はあとわずか。わたしは考えた。わたしの代わりがつくれないか、と……」
咲里は一瞬、ことばを切り、梨奈を鋭く見つめた。
「なに、どうしたの。咲里さん」
「梨奈、お願いがあるの。わたしの唇にキスして……」
梨奈は咲里に対して、少し前まで感じていたジェラシーが、愛情に変化していることに気がつかないでいる。
「キスくらいなら……」
しかし、ナストリーネのことばを思い出す。
「間違っても、唇には触れるな」
梨奈は恐る恐る、咲里に問いかける。
「咲里さん。ナストリーネが言ったのでしょ。唇はタブーだって」
「そう。よく聞いて。わたし、ナストリーネのことばを実行しようとして、ちょっと失敗したの」
失敗? 人間の姿をしているじゃない。梨奈は首をかしげる。
「あの日、ご主人は久しぶりに実家に戻ってきた娘さんと一緒に、わたしたちの世話を始めた。ご主人は水槽の掃除、娘さんは食べ物をそれぞれの水槽に落としていった……」
咲里は遠くを見るように話す。
「わたしはご主人の鼻の穴に狙いを定め、そのチャンスを待ち続けた。そして、娘さんがわたしのいる水槽に来たとき、突然、ご主人に実行する前に、予行演習をしておいたほうがいい、とひらめいたの。だから、娘さんの顔が近くにきた瞬間、彼女の鼻をめがけて水面から跳びあがった。そうしたら……」
「そうしたら?」
「早くキスしてッ。キスしてくれないと教えられないわ」
咲里はずるそうな笑みを浮かべる。しかし、梨奈は、深く考えず、
「いいわよ」
と答え、咲里の形のいい唇に跳びつき、キスをした。
その瞬間、梨奈の脳裏に天啓のごとく蘇った。
「間違っても、唇には触れるな」。
キスは、相手の唇に触れること……。梨奈はうっかりしていた。しかし、うっかりではすまされない。どうなるかは「知らないほうがいい」。ナストリーネのことばだ。
事態は瞬時に変化した。
梨奈が咲里にキスした直後、梨奈の視界は180度逆転した。同時に、残る四つの感覚もこれまで味わったことがない別世界になった。
梨奈は、水鉢を見下ろしている。水鉢には琉金がいる。梨奈にそっくりの姿形をしている。その琉金が口を開いた。
「梨奈、わたしが娘さんに、鼻をめがけたつもりが、誤って唇にキスしたため、こうなったの。鼻の穴を舐めて人間になるつもりが……」
「エーッッ!」
咲里は蔭川のお嬢さんにキスをして、お嬢さんと魂が入れ替わった。梨奈も咲里にキスして、魂が入れ替わった。
「でも、わたしの命は夜明けに泡となって尽きることには変わりはない。生き物の摂理に逆らったのだから。あなたはわたしに代わって蔭川のお嬢さんとして生きて欲しい。ただし、あなたも寿命はあと、400日ほどになってしまったけれど……」
梨奈は人間になることを夢みていた。人魚姫が脚をもらって人間界に入ったように、♀琉金に似た女性になれるものと思っていたが、思いもしなかった形で、蔭川のお嬢さんになってしまった。
直前まで、嫉妬から咲里を憎んでいたが、話すうちに打ち解け、心を許した。だから、魔力が働いたのだろう。
「梨奈、梨奈……」
「咲里さん……」
咲里が水鉢の中から話す。
「命が短くなったことを後悔しているのでしょ」
「いいえ、わたしはうれしい。これからはご主人と親しくお話ができます。咲里さんには申し訳なく思っています」
「よかった。それから蔭川のお嬢さんのことだけど……わたしがキスする前に、お嬢さんの魂は、わたしたちの仲間と入れ替わっていたのかも知れない。確かめたことはないけれど……」
そうだとしたら… …。梨奈は咲里の意図を鋭く感じ取った。
「咲里さん、ご心配なく。わたしの命が泡となって尽きる前に、わたしにキスしてくれる仲間を見つけ、お嬢さんの跡を託します」
(了)
金魚姫 あべせい @abesei
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます