第12話
エアコンの効いた暗い部屋で、いくつものインジケータが闇夜に散りばめられた星のようにちらついていた。たくさんのファンの回転音が狭い空間を埋め尽くし、静寂を閉め出している。床に転がっている球体が点灯し、闇夜に現れた月のように辺りを照らす。月が現れると星々は声を潜める。部屋の中央付近に置かれた殺風景なデスクは四本の脚と天板だけでできていて、天板には何枚ものモニタとキーボードとマウスが乗り、足元にはコンピュータの筐体が並んでいる。それぞれの筐体からは血管のようにケーブルが這い出し、室内に設置されたさまざまな機器とつながっている。筐体の背後には
床に転がった球体の明かりで天井に投げた影を揺らしながら
「さようなら洗居さん。それともようこそかしら」
中指で丸眼鏡の位置を直しながら上体を戻し、円形のレンズの奥から雛人形のような目でモニタを見回した。中央に大きめのモニタがあり、その周囲に小ぶりのものがいくつも並んでいる。小さなモニタでは彼女自身の作成したプログラムが走り、データの回収や整理を自動的に行っている。中央のモニタには洗居崇の顔が表示され、その顔が数秒おきに少しずつ変化していた。
2020年代の初頭に蔓延した感染性のウィルスにより、人々のコミュニケーションの形が大きく変化した。なるべく直接会うことを避け、インターネットを通じてオンラインで通話するというスタイルが急速に普及した。世界中に張り巡らされたデータネットワークに、急に人間の顔や音声のデータが大量に流れ込むようになったのだ。一般的な通話用のソフトウェアでは通信が暗号化されているため、流れているデータを横取りしても中のデータを解読することはできない。しかし自分と直接通話している相手の情報は集めることができる。そこから顔と声のデータベースを作ることが可能になるのだ。さらに竿留は病室の監視ツールという形で通話情報や監視状況を収集できるソフトウェアを作って洗居に渡し、綿貫雄一の通話情報から表情と音声のデータを集めた。そのようにして集めたデータを使って四月朔日祐一を作り出したのだ。この四月朔日と橘を会話させ、それを綿貫に監視させる。身に覚えのない自分の登場で綿貫は苦しみ、次第に狂っていく。橘がそうだったように。
竿留はコンピュータを操作して橘の病室を映し出した。荒井としての洗居によって綿貫へデータを送信するために入れられたソフトウェアが、同時に竿留のところへもデータを送ってくる。竿留は病室の映像に向かって語りかけた。
「橘くん。あなたと過ごした日々のことはときどき思い出すのよ。あなたは私の駒の一つに過ぎなかったけれど、無自覚な正義を無自覚に非難する矛盾したあなたが私は好きだったの。ほんとよ。今もあなたの隣には私がいるのでしょう」
画面の中では橘祐樹が虚空に向かって身振りを交えながらなにかを話している。
「あなたには私が見えるのね。早乙女結花としての私が。五月女友果であり竿留夕夏でもある私の一部が」
さらにコンピュータを操作すると、もう一つ窓が開いて別の橘が表示された。
「ごくろうさま
竿留はぶつぶつと語りかけるようにしゃべりながらコンピュータを操作した。画面では橘の顔が滑らかに動いている。竿留は傍受した映像と音声のデータから本人のように表情をもって会話できるプログラムを作り出したのだ。それを使うことでまるで本人のように相手と会話をすることができる。
「映像通話で画面に映っているのはネットワークの向こうから届いたデータにすぎないのに、それが知っている相手のように見えるというだけで本人と会話していることを疑いもしないおめでたい人々。はじめましての相手だって、名乗った通りの相手だと信じちゃう人が多いのよ。呆れるわよね、立花くん」
画面に向かって話しかけながら手元のマウスを動かすと画面の中では橘であり立花でもある顔が立体的に回転した。
「立花くんが橘くんの部屋を背景にして画面に登場したら、洗居さんは病室にいる橘くんと会話してると思い込む。画面に映ってるのが橘くんのデータから作られた映像と音声だなんて思いもしない。実際に話すのが私であっても、他の誰かであっても、人工知能であっても、洗居さんが感じるのは画面に表示されている橘くんの顔とスピーカーから聞こえる橘くんの声。洗居さんはそれが別人の意志で動いているなんて思いもしない。自分は新井さんと荒井さんを使い分けているのに、相手もそうかもしれないとは思いもしない。これも橘くんの言う無自覚の優位よね。カモフラージュしているのは自分であって、自分も欺かれているかもしれないとは思いもしない」
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