第10話
「それでこのコミュニケーションに関する部分だけどさ。やっぱ投稿されたものに対して他の人からのコメントは得られた方がいい。でもコメント欄で無知で軽率な連中が場違いな演説をぶつことは許しがたい」
橘の声がどこか遠くの方で聞こえているように感じた。耳が自分の身体から離れてしまったような感覚だ。
「ああ、その通りだ」
話の内容はよくわからなかったけれどどうでもいい。最初からこれは橘を妄想の中に入れておくための打ち合わせだ。話している内容などどうでもいいし、そもそも橘は意味のある会話をしているわけではない。
「そういうコメントのフィルタリング機能を付けたいと思うんだ」
橘が遠くで話している。なにか答えなければ、と洗居は思ったのだけれど頭の中にはなに一つ言葉が浮かばなかった。浮かばないままとりあえず声を出した。
「あー」すると次の言葉は無意識に発せられた。
「それは橘の得意分野だろう」
さらに堰を切ったようにあとから言葉が押し寄せて流れ出ていった。
「狂ったメンタリティのフルモンティをフィルタにかけてドリップすればすっぽんぽんだ」
橘はちょっとびっくりしたような顔をしてしばし黙り、急に大口を開けてけたたましい声で笑い出した。
「いいよ新井。乗ってきたじゃないか。その通りだ」
「インポテンツなコンテンツにインチキなジャスティスを振り回すパッパラパーども」
洗居は画面より上に視線を上げて叫んだ。その視線の先には壁しかなかった。彼はかつてない高揚を感じていた。
「その通りだ。おい新井」
「なんだ」
「これはもうこんなコンテンツ投稿サービスなんてケチくさいものをやってる場合じゃないぞ」
「じゃあどうするんだ」
「もっと新しいサービスを始めるべきだ。時代が求めているぞ」
「なにをだ」
「オンライン噛ませ犬だ」
二人はモニタ越しに顔を合わせたまま三秒ほど沈黙し、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハと揃って気ちがいじみた笑い声をぶちまけた。
「それだ。それこそが求められている」
「その通りだ。噛みつきやすいアカウントを作っていろんなサービスに投稿する」
「その噛ませ犬に似非ジャスティスどもが噛みつく」
「一網打尽」
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハと笑いながら洗居は息ができなくなり、ぼとぼとと大粒の涙をこぼした。
「どうした、感動したのか」
「ああ、その通りだ。久しぶりに感動して涙が出た」
「そうだろう。やるべきだ噛ませ犬サービス」
「やるべきだ」
「噛ませ犬に噛みついてくるやつらをかき集める」
「集めろ集めろ」
「集めた後どうする」
「燃やせ燃やせ」
「殺せ殺せ」
わははわははと大騒ぎしながら自分が満たされていくのを感じ、そうかおれは空っぽだったのかと洗居は気付いた。なんて充実しているんだ、橘と話しているだけでこいつとなら世界を正せるという気がしてくる、今までおれはいったい何をしていたんだ、橘が病気だと? 、笑わせるな、世界の方がずっと病んでいる、吐き気をもよおすようなやつで溢れかえっているじゃないか、おれはやっと真実に気付いたんだ。荒井は恍惚として自分の内側に芽生えたものを噛みしめた。
画面の中でひきつった笑いを見せていた橘が落ち着きを取り戻して言った。
「いやあおまえ、話の分かるやつだったんだな。もう少し頭が固いのかと思ってたよ」
「よく言うよ、おれはずっとおまえの話をいくらわけがわからなくてもちゃんと聞いてきたんだぞ」
「わからないのはわかってない証拠だ」
「間違いない」
モニタ越しに笑い合っていると、映っている橘の顔がわずかに変化した。洗居は画面を凝視した。
「おい、橘、おまえ顔をどうしたんだ」
「顔がどうしたって?」
橘の顔は次第にしわが増え頭髪はみるみる白くなり顎には白いもののまじったひげが生え始めた。
「おい、おまえ見る間に年老いていくみたいだぞ」
「落ち着け、そんなことがあるもんか」
声もさっきまでの橘のものとは違っているようだった。画面に映っていた橘の顔は連続的に変化して老人のものになった。洗居は目を見開いた。
「わ、綿貫、先生?」
「おお、これは荒井さんじゃないかね。なにかあったのかね、髪が乱れているし、それに汗だくのようだが。どうしたんだい」
「え?」と言って洗居は髪に手をやった。髪は汗でぐっしょりと濡れていた。着ているシャツにも大きく汗染みができている。相当な量の汗をかいたようだ。洗居はなにが起こったのかを思い出そうとしたけれど記憶が曖昧だった。
「ええと、あの、ぼくはですね、あー、あの橘、橘とですね、通話をしていたはずなんですが」
「橘さんと? 橘さんは相変わらずデスクに向かって何か作業をしているが」
綿貫に言われて洗居ははっとした。
「綿貫先生、橘は、橘は今同僚の新井と話していませんでしたか?」
「新井? 新井は荒井さんなんじゃないのかね」
「そうです。だから今橘は新井と話していなかったかなと思ったんですが」
「橘さんは朝からずっとなにか作業をしていて、今日は誰とも通話はしていないようだが」
洗居は混乱した。たった今まで橘と会話していたはずなのになぜか会話の相手は綿貫になっていた。綿貫は橘を監視していて、橘は誰とも通話していないという。だとしたら洗居がたった今通話していた相手は誰だったのか。まてよ、綿貫を監視していたのは自分ではなかったか、と洗居は思い出した。通話画面から目を離して綿貫の監視画面を見ると、綿貫はいつものように虚ろな表情で画面を見つめていた。
「先生、綿貫先生」
洗居は監視画面と通話画面を交互に見ながら言った。
「なんだね」
通話画面の綿貫が答えた。監視画面の方の綿貫は動かず、虚ろな表情のまま相変わらずモニタを眺めている。おれが監視している綿貫とおれと話している綿貫は別人だ、と洗居は思った。もしかすると綿貫を監視している自分と綿貫と話している自分も別人かもしれない、いや、そもそも監視しているのは洗居崇で会話しているのは荒井貴志だったか、でも会話はもともと橘としていたはずで、だとすると会話していたのは新井孝ではないのか。
「綿貫先生、つかぬことをお伺いしますが、先生はいま私と話し始める前に誰かと通話していましたか?」
洗居は混乱しながらもなるべく平静を装って言った。
「いや、
綿貫の言葉を聞いて洗居は自分の身体がねじれて右足が左肩から生えて左目が右耳に埋まり胃が裏返しになって喉から生えたペニスが肛門にささっているような気がした。急に意識と身体が離れて互いに勝手に動き始めた。
「さすが。さすがは綿貫先生。腐れ鯛焼きつんぼの桟敷、向こう三軒鹿の糞ですな」
「はっはっは、なかなか面白いね荒井さんも」
綿貫は大口を開けて笑いながら背もたれに寄り掛かった。監視画面の綿貫は動かずに画面を見つめたままだった。画面で大笑いしている綿貫はきっと違う綿貫であろう。洗居にもいろいろいるのだから綿貫がいろいろいたところでなにも不思議ではない。二つの画面の二人の綿貫を見比べながら洗居は妙に納得した。
「やっとわかってきましたよ先生。橘の症例もそうなんですね。相手とのリレーションの中で構成された人格がハレーションを起こして本来の充血した陰核と乖離する。それによって多層的精神が同音異字的異次元をいじくりまわし、情動的尿道が暴走状態となる。結果、ビヘイビアドリブンなセブンイレブンが交尾したカナブンとネイピア数のバルケッタに収まることになる」
「さよう。だから温泉卵のカルボナーラが尻の穴から逆噴射することになる」
「ははあ。ではあながち間違ってもいないわけですね」
「穴だけにな」
洗居は大いに満足して深く頷いた。綿貫との通話は切断され、画面に静寂が戻った。
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