第8話

 キッチンの流しで蛇口を開き、多めの水で顔を洗う。両手にいっぱいの水を三回ほど顔にかけて蛇口を閉め、流しの中を覗き込んだまま滴り落ちる雫を眺める。洗居あらいたかしはこのところ眠れない夜を繰り返していた。たいして難しい仕事ではないはずだったし、実際のところなに一つ難しいことはない。ただ引退した爺さんを監視するだけのことだ。なんの困難もないはずだった。しかしこの仕事を始めてから、洗居は寝られなくなった。


 洗居崇は荒井貴志としてターゲットの爺さん綿貫雄一に接触する。彼に重度の妄想患者である橘祐樹を遠隔監視する仕事を依頼し、洗居は彼を監視するのだ。橘の妄想を維持するために荒井貴志はさらに新井孝となって橘と会話する必要がある。説明を聞いたときにはそれほど難しいことじゃないと思ったのに、やってみると自分が誰なのかわからなくなってくるのだ。橘と会話する新井孝、綿貫と会話する荒井貴志、そして綿貫を監視する洗居崇だ。どれであろうとあらいたかしだ。それが洗居崇か荒井貴志か新井孝かという差があるだけだ。そんなことは大した問題ではない。文字にしなければ差などないからだ。ところがどうだ。自分の身体が自分のものではなくなったような感覚がある。こうして顔を洗ってみても、この雫をおとしている顔は本当に自分の顔なのか、ステンレスのシンクを見ているこの目は、本当に自分の頭蓋に入っている目なのか、たった今顔へと水を運んだこの手は、濡れた手が見えている、見ているのは自分なのか、それに手の側はどうだ、濡れているという感覚があるのか、わからない。洗居は自分が自分の体の中に入っているということを信じられなくなりつつあった。


 およそ二十年ぶりに五月女に再会したのはひと月半ほど前のことだ。五月女と知り合ったのは二十年近くも前、大学院へ進んだときだった。五月女は日本人形のような印象の、笑ったり怒ったりといった感情をまったく見せない女だった。どこか近寄りがたい雰囲気を持った女で特に誰かと仲良くしていたという印象がない。洗居はそんな五月女とともに高次脳科学研究室に所属していた。洗居は脳神経科学から来ていて、五月女は神経精神医学から来ていた。彼女は在学中一度も宴会のような場に来たことがないし、洗居とも必要最低限の言葉しか交わしたことがない。よくわからない人物だった。その五月女と、洗居はインターネットのコミュニケーションサービスで再会した。意外なことに、声をかけてきたのは五月女の方だった。二、三テキストメッセージをやりとりして、当然研究医になっていると思っていた彼女が総合病院の精神科で臨床に出ていることを聞いたのだ。


 尾定おさだ茂春しげはるから橘祐樹の一件が持ち込まれてきたとき、洗居はすぐに五月女に連絡を入れ、オンライン通話で助言を求めた。橘の症状は五月女の専門分野のものだと思われたからだ。その時およそ二十年ぶりに、画面ごしではあるものの、五月女の顔を見たのだった。五月女の印象は学生のころとなにも変わっていなかった。

「おひさしぶりです」と言った五月女は仕事後の白衣姿のままで、見覚えのある正円形の眼鏡をかけ、そのレンズの向こうから匠の筆で描かれたような極細の目でこちらを覗いていた。

「久しぶり。五月女さん、変わらないね」

「人はそう簡単に変わりません」

 五月女がにこりともせずにそう言い放ったのを受け取り、洗居はそうそうこの感じだ、と懐かしんだ。

「五月女さん、さっそくで悪いんだけど、私のところへ運び込まれた患者について助言が欲しいんだ」

 洗居は橘の症状と運び込まれた経緯について詳しく説明した。洗居と尾定が橘の世界では新井と長田として同じ会社で働いていることになっている、という点を強調し、橘の世界では現実の知人が別の役割を演じているらしいことを説明した。

「ひとまず、しばらく洗居さんと尾定さんはそのまま橘さんの世界の新井さんと長田さんを演じ続けてください。なるべく橘さんの妄想を壊さないようにしましょう。重症患者用の病室で、ウォールビジョンを使って橘さんが妄想の中で住んでいる部屋を再現します。なるべく彼の妄想世界を安定させるんです。彼が入り込んでいる妄想世界と現実世界にズレが生じると精神的に不安定になります。認識を正そうとして極端な行動に出る人も少なくありません。なるべく彼の頭の中にあるものと身体が知覚するもののズレを少なくしましょう」

 五月女はよどみなく説明した。

「でもそうすると橘は安定はするだろうけれど、妄想世界から戻ってこられなくなるんじゃないかい?」

「たしかに急には戻ってこられません。ただ一度安定させておいて、周辺の小さな要素から少しずつ矛盾させていき、認識を改めさせていくというやり方をしたほうが、時間はかかりますが安定して快方に向かわせられると思います」

「なるほど。ではそのようにやってみよう」

「そのうえで経過を観察することになりますが、あいにく私は臨床を離れられません。それにこの件ほど大きく妄想世界を構成した症例も見たことがなく、私の手には余るかもしれません。そこで、この分野で多くの経験をお持ちの綿貫先生に見ていただいたら良いのではないかと思います。洗居さんは綿貫先生を覚えておられますか?」

「綿貫先生? たしか精神病理の人だったかな?」

「そうです。私が学部生時代にお世話になった先生です」

「たしかもうけっこうなお年だと思うけど」

「はい。昨年教職を退かれて今は隠居されています」

 話しながら洗居は綿貫雄一のことを思い出した。五月女の恩師とも言うべき神経精神医学の教授だったはずだ。優秀な五月女をとてもかわいがって研究室にもときおり様子を見に来たりしていた。洗居自身は直接会話したことはなく、向こうも覚えていないだろうと思った。あの当時で頭髪はすでにほとんど真っ白だった。

「その橘さんは綿貫先生に診てもらうのが良いと思います。もちろん私の紹介だと言ってもらってかまいません。私の紹介だと言えば引き受けてくださると思います」

「なるほど。具体的にはどうしたらいいだろう。綿貫先生にここへおいで頂くのがいいかな?」

「いえ、私の方で遠隔監視用のソフトウェアを用意しましょう。それを使用して綿貫先生にご自宅から橘さんの様子を見ていてもらうんです。洗居さんと尾定さんはこれまで通り橘さんの妄想世界を維持してください。そのうえで橘さんのことは綿貫先生に見ていてもらう」

「わかりました。さっそく先生に連絡を取ってみますよ」洗居は手元でメモを取りながら言った。

「よろしくお願いします。のちほど綿貫先生の連絡先をお送りします」

「ありがとう」洗居が五月女と目を合わせて言うと、五月女は「それで洗居さんには一つお願いがあります」と言った。洗居はわずかに不安のような緊張のような感覚を覚えた。それがどういう種類の不安かわからないものの、身体が身構えるべきだと言っているような気がした。

「なんでしょう」

「洗居さんには、その綿貫先生を観察していただきたいのです」

「観察?」

 意図を汲みかねた洗居はぽかんとした。

「橘さんのことは綿貫先生に見ていてもらい、その綿貫先生の様子を、洗居さんに見ていていただきたいのです」

「それはまた、どうして?」

 洗居はその不思議な提案の意味を汲みかねて尋ねた。

「綿貫先生はずっと独身でおられるので老年の一人暮らしでいらっしゃいます。隠居後はほとんど誰とも会わない日々を送られていて少々心配なのです」

「それはええと、言葉は悪いけれど独居老人の生存確認をしろということ?」

「いえ、それほど単純なことではありません。綿貫先生は今回あの重症の橘さんを診ることになります。自宅で一人でああいう普通ではない人を見続け、他の人と交流しないという状況が続くと綿貫先生自身の精神にも良からぬ変調が起こるかもしれません。洗居先生にはその兆候を見逃さないようにしていただきたいのです」

「そうか。たしかにそういうリスクはあるかもしれないな。しかしご自宅におられる綿貫先生をどうやって観察するんだい」

「これもソフトウェアをお渡しします。そのソフトウェアを使用すれば、洗居さんのコンピュータから綿貫先生の様子を観察できるようになります」

「それって綿貫先生のコンピュータに侵入してカメラやマイクを乗っ取って情報をとるってこと? 法的にグレーなやつじゃないの?」

 犯罪まがいの行為についてあくまで事務的に話す五月女を見て洗居は戸惑った。この女を信用していいのだろうかという疑念が湧いた。

「グレーではなく歴然と黒です。でも先生はコンピュータにはあまり明るくないのでまず気付かれません。万一気づかれたら五月女が提供したソフトだと言ってください。綿貫先生はそれで何も言わないはずです」

 監視対象が親しい人物だから問題にならないということか。たしかにかわいがっていた教え子のやることだ。犯罪だってかばってやりたいと思うだろう。まして被害者が自分しかいないのであれば綿貫が文句を言うことは想像しにくかった。

「理屈はわかったけどね。あまり気は進まないね」

「ええ。その感じ方は洗居さんが正常である証拠です」

 五月女は表情ひとつ変えずに言った。それならあなたは異常ですよ、と洗居は声に出さずに思った。

「もし気になるようでしたら、橘さんの相手をするのが新井さんであるように、綿貫先生の相手をするときも別の洗居さんになったら良いかもしれません。綿貫先生向けの洗居さん、それは荒井さんあたりかもしれません」

「なるほど。それはいいね」

 もとより人は接する相手によって自分を使い分けている。名前まで変えないまでも相手によって態度を変えるのはむしろ当然だ。上司にも恋人にも同じように接するような人はいまい。それで洗居は綿貫向けに荒井を用意することにしたのだ。

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