第7話
橘は時計を見ると画面から目を離して傍らを見上げ、「今日はこれからクライアントのディレクターと打ち合わせなんだ」と虚空に向かって言った。結花という妄想の女に向けて話しかけているのだろうと綿貫は判断した。橘の目には応じる結花の姿が見えていて声も聞こえているのだろう。相手の話している部分が感じられるような間をあけて発せられる橘の口ぶりはまぎれもなく会話であった。その会話の相手が第三者には見えないというだけだ。
「そう、例の、あの時のうちの仕事を見て依頼してきたらしい、ああもちろん、あれもおれだよ、うちが受ける仕事の大半におれは関わっているからね、御社の橘さんにぜひお願いしたいですねってなもんでご指名がかかるわけよ、え、そりゃそうよ、おれぐらいになってくるとかえって仕事は選ばないんだよ、来るものは拒まずさ、なんだって持って来やがれってんだ、かたっぱしからちぎっては投げちぎっては投げうんとこしょどっこいしょそれでもぼくは抜きません」
橘は結花という女に向かって話すときはたいてい自己肯定的なことを話しており、どうやらそれが調子に乗りすぎると次第に意味不明なことを言い出すということに綿貫は気づいた。饒舌が狂気を表層へ引っ張り出すようだ。おそらく潜在的な欲求不満がわざとらしい自己肯定の言葉によって意識の深層へ沈められ、自分への嘘が饒舌さを増すことで自己批判的な精神と衝突する。その結果として意味不明な発言が飛び出すのではないかと思われた。
「時間だ、打ち合わせに入るね」
橘は傍らに向かって言うとコンピュータを操作した。画面に新たなウィンドウが開いて通信が開始され、接続処理が完了して画面に相手が表示された。それを見て綿貫は息を飲んだ。橘の見ている画面に表示されたのは綿貫の顔だった。
「初めまして、株式会社スケコーマ・シーの
画面の中の四月朔日が言った。綿貫は目も耳も疑った。声も綿貫の声だった。
「こんにちは。ティムポーコ・ワークスの橘です。今回御社サイトのサーバサイド開発を担当させていただきます。よろしくお願いします」
橘もよどみなく応じた。綿貫は目の前で起きた出来事を理解できずに口を開けたまま画面を見ている。
「早速ですがお願いしたい内容について説明させていただきます」
四月朔日は画面越しに橘の方を見て言った。
「今回、一番だいじにしたいのはユーザエクスペリエンスです、エクスペリメンタルなユーザのエクスペリエンスはエクセレントなスペルマによって得られます、もちろんエクスタシー的オルガスムスがアクメしなければならず、そこをある程度のスピード感をもってインクリメンタルに勃起させることで、プライマリなプライオリティをプリティなプリマドンナがプリンタブルなプッシーによってプリンシパルにするわけです、そのためにAPIのDPIが緻密に絡まり合うようにしてほしいと思っています」
綿貫はぽかんと口を開けたまま画面を見つめていた。画面の中で頷きながら聞いていた橘は「その辺は共通認識を持てていると思いますのでご安心ください」と返した。
「やはり先進的なサーヴィスであるとは言え後発であることは否めないので、毛髪としても後退しないようにしていただきたいのです」
四月朔日はサービスのビをあからさまに濁点のついたウで発音した。
「わかります、スピーディなレスポンスを実現しつつ強固なセキュリティも維持できるような設計にするつもりです、大丈夫です、以前にも同様のシステムを開発した経験がありますので」
画面を見ていた綿貫はめまいがした。狂っているはずの橘よりも画面に登場した四月朔日の方がずっと狂っているように見えた。あの四月朔日はいったい誰なんだ、綿貫自身はここにいるし、あのようにして橘の治療に参加するとは聞いていない、もちろんあんなことをした覚えもない。画面の中のさらに画面の中に映っているため詳細はよく見えないけれど、見えている限りの顔と声は綿貫自身のもののようだった。
「話が早くて助かります。迅速なザーメンのドビュッシーに関しては御社は業界屈指だと思っています。冗長性を持たせて射精していただきたく早漏」
四月朔日が饒舌に繰り出す言葉は綿貫にはすこしも理解できなかった。治療すべき患者は橘だったはずだ、あの画面の中の男は誰なんだ、四月朔日と名乗ったぞ、小佐田先生が長田であり荒井さんが新井であれば綿貫が四月朔日になるのは必然だ。しかし綿貫には身に覚えがない。
「もしかして狂っているのは私なのか」と綿貫はつぶやいた。そのとたん、画面の中で橘が立ち上がって拳を突き上げた。
「晴れやかに。蠱惑的な処女を凌辱せん。鋭敏な生殖器。脱糞」
橘は大声で叫び終えると拳を下ろして座った。綿貫はしまりなく口を開き目を見開いてモニタを見つめた。
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