吸血鬼 後編

「助けでも呼ぼうとしたのか? 残念だったなぁ?」


 まるで野兎をいたぶっている狐のようだ。


 そのニヤニヤした顔を殴りつけてやりたい。



 私はせめてもの抵抗として怒りを集めてキッと岸を睨んだ。


「おお怖い怖い。でも、気が強い女も俺は好きだぜぇ? 泣かせたくなる」


 私の抵抗も逆に気に入られてしまい、岸はそのまま掴んでいる腕を引き私を抱きしめるように腕を回す。


 そうして回した腕が、抱えるように頭を掴み倒された。



 首が、露わになる。


「っ!!」



 まずい。

 まずいまずいまずいまずいまずい!!



 さらされた首に、熱くてねっとりとした息がかかった。


「ああ、この状態でも分かる。極上の香り……味はどんなだろうなぁ?」


 恍惚こうこつとした声が鼓膜に響く。



「ゃ……ぃやだっ……」


 自分の声じゃないような、か細い声が出る。


「ダーイジョーブ、痛いのは最初だけだって」


 味見でもするかのように舌が這う。


 そして……。



「すぐにキモチ良くなる」


 その言葉を最後に、彼の牙が突きたてられた。



「くっああぁぁ!」


 咬まれた痛みに悲鳴が漏れる。


 あまりの痛みに涙が滲んだかと思うと、次の瞬間には痛みより熱が集まってきた。



「うっ……やぁ……な、に……?」


 何が起こっているのか分からず、私はただ疑問を口にする。


 岸は、じゅくっと私の血を吸い飲み下してからその疑問に答えた。



「なんだ、知らねぇの? 吸血鬼に咬まれると、性的な快感を得られるんだぜ?」



 性的な、快感?



 熱でぼうっとしてくる頭で考える。


 このおかしな感じが快感なんだろうか?


 でも、どんなに変な感じがしても気持ちがついていかない。



 恐怖と、不快感。

 そして何より岸という吸血鬼への拒絶感が、快感なんていうものを弾いていた。



 ただただ、体がおかしくなっているようにしか感じない。


「っはぁ……ヤバイ、美味過ぎる。あんたは本物の“花嫁”のおまけだろ? 何でこんなにかんばしいんだ? 何でこんなに……俺を酔わせる?」


 間近で視線が合う。


 彼の目が、妖しく揺らめくのが分かった。



「すげぇイイ顔してる」


 熱い吐息とともに、首の血を舐めとられる。


 ゾワゾワっと、変な感覚と嫌悪が混ざった。



 でも、一通り舐めとられた後はドクドクと血が流れ出ていた感覚がなくなる。


 どうなっているのかは分からないけれど、咬んで出来た傷は塞がったようだった。



 そのまま血が流れ出ないことには安堵するけれど、状況的には全く安心出来ない。



 血を吸って満足するのかと思いきや、岸の目は妖しく私を捉えていた。


 頭を抱えるようにしていた腕が解かれたと思ったら、今度はそのまま左頬の辺りをガシリと強めに掴まれる。



 少し離れたことで良く見えるようになった岸が、私を獣のような目で真っ直ぐ見ていた。


「っ!」


 喉が引きつって声も出ない。



 今の岸の目は吸血鬼だからとか血を吸われたからとか、そういうのとは違う怖さがある。


 もっと単純な、男としての怖さ……。



 私の血をつけたままの口角が上がる。


「“花嫁”だから気になるのかと思ってたんだけどなぁ……。お前の血、ヤバ過ぎ。……その顔も、ソソられる」


「やっ」


「全部俺のものにしたくなった」


 その言葉の後、ずっと掴まれていた右腕がやっと放された。

 でも、その手は腕の代わりに私の太ももを撫でる。



「やっダメっ!」


 両手で岸を押し返そうとするけれど、男女の違いなのか彼が吸血鬼だからなのかビクともしなかった。



「いいぜ? 抵抗しろよ。無駄な抵抗してるあんたすげぇソソられる」


 言葉一つ一つが耳を犯しているかのようだ。



 嘘、やだっ!


 

 岸の顔が、また近付いてくる。


 態度とは裏腹に、真剣な目が真っ直ぐ私だけを求めている様に見えた。


 その様子にはドキリとするけれど、言葉よりも行動で示そうとする岸にはやっぱり恐怖の方が勝る。


 それに、ニヤリと意地悪な笑い方をする彼にはむしろ拳をくれてやりたい。


「名前……確か聖良だったなぁ?」


「な、にを……っや!」


 太ももを撫でていた手が内側の柔らかい部分を撫で始めて、さらに拒否しようと岸の胸を押す。

 ……びくともしなかったけれど。



「可愛いなぁ、聖良」

「っ!」


 言われ慣れていない言葉に、こんな非道な相手だっていうのに心が反応する。


 みんなには可愛い外見だとは言われたけれど、こんな風に真っ直ぐ求める様に言われたわけじゃ無かったから……。



 それでも、こんな奴になんて好きにされたくない。


「はな、してっ!」


 こんな相手に心が揺れてしまった事も否定したくて、より強く拒否した。


 でも、やっぱりびくともしなくて……。



 更に近付いた顔が耳に直接語りかけてくる。


「聖良……その血も身体も、俺が全部奪ってやるよ」


「っ!」


 言葉通り奪われると思った私は、せめて大声を出そうと震える唇を開く。


「ぃっ……」


 そして声を出そうとした時だった。


 バアァン!


 鍵のかかっているドアが大きく鳴る。



 ガンッ!

 ガァンッ!


 ドアを蹴りつけてでもいるんだろうか。

 大きな音は何度も響く。


 でも横開きのドアとは違ってここのドアは片開きドアだ。

 しかも鍵がかかっている。


 ただ蹴りつけただけじゃあ開かないだろう。



 そう思ったけれど……。



 ドガァン!



 ひと際派手な音を立ててドアが吹っ飛んだ。


『聖良!!』


 二つの声が重なって聞こえる。


 真っ先に飛び込んできたのは嘉輪。

 そして田神先生だった。


 必死な表情の二人に泣きたくなってくる。


 助けに来てくれた。

 それが嬉しくて、申し訳なくて、目じりに溜まっていた涙がこぼれる。



「チッ、邪魔が入っちまったか」


 忌々しそうに舌打ちをした岸は、それでも私の耳にその唇を寄せた。


「今日のところはここまでだ。でも忘れんなよ? お前の血を初めて飲んだのは俺だってことをな」


「あんた! 聖良から離れなさいよ!」


 岸が言い終えたのと嘉輪が叫ぶのは同時だった。



 嘉輪がこっちに来る前に、岸は私から離れて窓のある方に飛びのく。


「純血の姫が相手じゃあいくら“花嫁”の血を飲んでても分が悪いな。ここは逃げさせてもらうぜ?」


 そう言い残すと、邪魔な資料の山を押しのけて窓を開け、止める間もなくそこから出て行ってしまう。


「正輝! 行って!」


「分かってる!」


 正輝くんも来てくれていたのか、嘉輪の呼びかけに応じてすぐに窓から岸を追いかけていく。



 岸の姿がなくなって、私はやっとまともに呼吸が出来た。


 息を吸って、吐くと同時に体の力が抜ける。



 倒れそうな私を抱きとめてくれたのは嘉輪だ。


 ギュッと抱きしめてくれて、安心する。



「遅くなってごめんね」


 悲痛そうに言った嘉輪に、違うと言いたかった。


 私の警戒心が足りなかったんだ。

 せめて、この部屋に入る前に誰か他の人を呼んで来れば……。


 後悔が後を絶たない。



 私を思ってあんなに自己防衛しろと言ってくれたのに。


 そう一番言ってくれていた嘉輪を悲しませてしまった。



 それが一番辛い。


「嘉輪がそんな顔、する必要ないよ? 私の警戒心が足りなかったのが悪いんだから」


「でも、血を吸われちゃったんでしょう? 痛いし、怖かったでしょう? そんな思いしてほしくなかったのに……」


 私より泣きそうな顔になっている嘉輪に、申し訳なさと一緒に嬉しいなとも思う。



 会ってからまだ一週間も経ってないのに、こんなに気遣ってくれるなんて。


 ホント、嘉輪っていい子だな。



「嘉輪が助けてくれたから大丈夫だよ。ありがとう」


 そう言って抱きしめ返すと、「バカ……」と涙声で言われてしまった。



「聖良ちゃん⁉」

「聖良先輩⁉」


 その時、嘉輪達より少し遅れて俊くんと津島先輩が駆け込んできた。


 二人も来てくれたんだ。


 私はそうホッとしたけれど……。



「っあんた達遅いのよ!!」


 泣きそうだった嘉輪が、激高げっこうした。


「聖良はあんた達を頼って行ったよ? なのに何であんた達が守ってなかったの⁉」


「っ!」

「そ、れは……」


 強く非難された二人は言葉に詰まる。


 私は慌ててしまった。



「ちがっ、二人は悪くないよ」


 私が大人しく俊くんを待っていれば良かっただけなんだ。


 それに津島先輩に関しては彼の教室にすら行っていない。

 それで守ってほしいとか無理な話だ。


 そう伝えたんだけれど。



「そんなの関係ないわ。吸血鬼はね、あなたと愛良ちゃんの気配は学区内程度の距離なら分かるのよ。それくらい、あなた達の血の力は凄いの」


 だから、私が三階や一階の三年の教室付近にいたことは分かっていたはずだ、と。



「それなのに、様子を見に行くことすらしないなんて……」


 そう言って嘉輪は二人を睨みつけていた。


 俊くんと津島先輩は何も言わない。


 きっとちゃんと理由があるんだろうけれど、この状況だと何を言っても言い訳にしか聞こえなくなっちゃうだろうから。



「とにかく、聖良さんを保健室に連れて行こう」


 膠着状態の私達に、田神先生がそう声をかけた。



 あ、呼び方戻ってる。



 さっき、嘉輪と飛び込んできたときは呼び捨てだった。


 ……私の聞き間違いじゃなければだけど。



 普段さん付けしている田神先生が必死の表情で呼び捨ててきたからちょっとびっくりしたんだよね。



「この子も連れて行かないと」


 そう言って気絶して倒れている女子生徒を見ると、田神先生は俊くんと津島先輩を呼んだ。



「悠斗、俊。この子を運ぶのを手伝ってくれ」


「あ、ああ」

「はい」


 そうして女子生徒を二人に任せると、田神先生はまた私に寄り添ってくれた。



「聖良さん、立てるか?」


 そう言われて田神先生の手が背中に当たった瞬間――。


「っ!」


 私は思わずビクリと大きく震え、抱きとめてくれていた嘉輪にギュッとしがみついた。



 ほとんど無意識の行動で、あれ? となる。


 でも田神先生の固い手が触れた瞬間、怖いと思ってしまったんだ。



「聖良……」


 嘉輪を見るとまた悲痛な表情。



「……聖良さん……」


 田神先生を見ると、辛そうに顔が歪められていた。



 それを見て、私は自覚する。



 多分私、今男の人が怖くなってるんだ……。

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