入学するって言うけれど、それで何か変われるの?

 そうして、優菜は目を覚ます。何だか悪い夢を見ていたような気がする。視線を時計に目を向けると、目覚ましを掛けた五分前の六時二十五分を示していた。

 いつも通りの、目覚ましのアラーム鳴動設定五分前の起床。優菜にとっては、当たり前の儀式。それが今日も問題なく行われたことを喜ぶべきなのかどうか。それは、今日一日がどうなるかで決まるであろう。


 今日は四月一日。高校生活が始まる最初の日である。

 上半身を起こし、辺りを見渡す。見慣れない景色。心なしか空気まで違う気がする。昨日まで住んでいた所とは変わらないはずなのだが、目の前に広がる景色が変わるだけでこんなにも違うと感じるものなのか。

 今、優菜は生まれ育った地を離れ、私立星ノ杜学院の学生寮にいる。




 一年半程前に起こった出来事は、優菜にトラウマを植え付けるに十分だった。

 逃げ帰ったあの日から、優菜は学校に行こうとする度に、恐怖と虚無感に苛まれた。

 本当はこんなことではいけないのに…… 何度もそう思い、制服を袖に通し、鞄を持ち上げ、玄関に立った。

 だが、そこまでだった。そこから一歩も動けなかった。時には、動こうとして、その場に頽れることもあった。

 苦しむ優菜に、彼女の両親は「学校に行かなくてもいい」という決断を下した。ただ、条件が一つ。必ず高校に進学すること。それが優菜の両親の提示だった。

 優菜はその条件を飲み、登校しなくていい代わりに勉強にだけは力を入れた。中間、期末テストは、学校に無理を言って、休日に受けさせてもらった。学校側が協力的だったことは、優菜にとっても有難かった。

 そのお陰もあってか、公立高校にも問題無く進学できるというお墨付きをもらった段階で、再び問題が浮上する。地元の高校に通うという事に抵抗を覚えたのだ。見知った顔ぶれがいるここでは。このままでは進学しても、きっと高校には通えない。そう訴える優菜に、両親はまたしても条件を出した。


 優菜の両親は、子供の訴えを、望みを、希望を、無下にはしなかった。子どもの戯言だと一蹴しなかった。夢物語だと、現実を見ろと頭ごなしに判断しなかった。だが、必ず条件を出した。優菜の望みを叶える代わりに、両親の出した条件も達成すること。それが優菜の両親の子どもに対する接し方で、優菜もその条件を幾度となくクリアしてきた。その積み重ねがあったからこそ、今回の優菜の訴えについても彼女の両親はあっさり承諾した。

 条件は、自らの通う高校を自身で選ぶこと、そして、必ず卒業すること。

 優菜は承諾し、そして見つけた。私立星ノ杜学院を。自らが選び、過ごす場を。




 学生寮の一室は簡潔にできている。

 六畳一間に、小さなキッチン、ユニットバス、所謂1Kと言われる造りだが、高校生が住まう学生寮としては十分である。

 ユニットバスで身支度を整え、真新しい制服に袖を通すと、部屋を出る。

 十階建ての九階に優菜の住まうフロアはある。居住スペースは二~九階で、一階にはラウンジ、食堂、売店、十階にはランドリーや大浴場など、寮生が快適に過ごせる設備が整っている。


 エレベーターに乗り込み、食堂へと向かう。

 辿り着いた食堂には、何人かの生徒の姿が見られる。

 緊張した面持ちと、学生服の真新しさからして、皆、今日より星ノ杜の生徒になる者たちだろう。

 全国より生徒が集まる高校だ。恐らく寮に住まう生徒は初対面の者が多そうだ。

 かくいう優菜も見知った顔が無いことに安堵する。せっかく両親に無理を言って、他府県の、それも新幹線で三時間以上もかかる高校に進学したのだ。そこに見知った顔があっては、意味がない。

 周りを見渡すと、新しく生え揃った羊毛たちの中に、毛並みの整った群れも見かける。

 彼女たちは恐らく上級生だろう。緊張とは無縁の表情で優雅に朝食を摂る姿は、果たしてこの羊たちと同じ生き物なのだろうか。

 もしくは、ここにいる羊たちも、一年経てばあのように変貌するのだろうか。もしくは退化か。

 自身の一年前を忘れてしまったこの群れたちには、初々しい羊たちがどのように見えているのか。

 優菜は、来年になっても理解できないのだろう、と思った。


 朝食を摂り終え、一旦自室へ戻った優菜は窓より外を見下ろす。

 私立星ノ杜学院。

 港町のテーマパーク跡地に設立された、多彩なカリキュラムが人気の高校だ。

 六芒星型の校舎は、外周の三角の部分が校舎となっており、中心部は中庭となっている。

 優菜が今いる学生寮の窓下には、広大な中庭と、歪な三角形の校舎の一部が垣間見える。

 視線を室内に戻すと、机の上のタブレットに通知の光が灯る。

 本日行われる入学式。その前に集まる教室の通知だ。

 通知を確認したらタブレットを鞄にしまい部屋を後にする。


 学生寮を出ると、視界が桜色に染まる。

 この中庭には、学生寮の他にも、グラウンド、体育館、講堂、食堂と売店が立ち並んでいる。さらに、ここからは見えないが、聖堂なんてものもあるらしい。

 美しい光景に目を奪われながらも、校舎を目指す。


 クラスの集合場所である102教室に入る。

 教室内には複数の人影が見られ、その内の幾らかは、既にグループらしき集団が形成されている。

 あまり目立ちそうにない空席を見つけ、そこに移動しつつ、それとなくそれらの集団を観察する。

 一番大きなグループは直ぐに見つかった。その中心にいる存在が誰であるのかも。

 身長は優菜より少し低いくらいか。腰まではありそうな長髪を右耳辺りで一括りにしており、華やぐような笑顔と、活発なイメージを周囲に振りまいている。

 当然、優菜にとっては近寄りがたい、接点すら持てない人物だ。

 だが、優菜に焦りはない。


 星ノ杜学院は、高校では珍しい単位制の学校である。

 卒業するには必修科目の全単位と、選択科目の内から必要数の単位を取得する必要がある。

 また、クラス分けは一応されてはいるが、必修科目以外では集まることが無いため、クラスとしての活動は皆無である。

 優菜にとっては、自分の事を誰も知らないという他にも、クラスという単位が無いに等しい星ノ杜のシステムがとても好ましかった。

 今まで友達というものがいなかった優菜にとって、気兼ねなく学生生活を送れる場所。それこそが、星ノ杜を選んだ最大の理由である。


 今、群れを形成している羊たちも、授業が始まれば自ずと自身の牧草地に移動する。

 柵に囲まれた狭い空間で残り少ない草を巡って争う必要も無い。

 優菜がそう思い、空いている席に座ろうとした時。


「あーっ!」

 突然上がった雄叫びに柵内が静まりかえる。

 声のした方を見ると、先程のリーダー羊と目が合う。優菜を見つめる釣り目で勝気な瞳は、獲物を捕捉した狼を連想させる。そう、優菜には最早この咆哮の主が狼にしか見えなくなっていた。

 決して鈍いわけではない優菜に反応する隙を与えず、狼が襲い掛かってくる。

「あの時の、消しゴムちゃん!」

 その勢いに押し倒されそうになるのを何とかこらえる優菜。そんな優菜の踏ん張りと動揺も気にせず、目前で急停止した狼は手を握り、上下に激しくぶんぶんと振り回す。

「いやー、あの時は助かったよー!ほんとにありがとうね!」

 満面の笑みを向けてくる狼の顔に見覚えがあった。

「あ……もしかして入試の時の?」

「そうそう!あの時、君に消しゴムを分けてもらった!」


 今から二カ月程前の話。

 星ノ杜学院の入学試験が始まる直前、「消しゴム忘れた!」という大声が隣から聞こえた。声のした方を見ると、両手で頭を抱える受験生が一人。その表情があまりにも絶望的に見えたから、優菜は思わず、消しゴムを半分に切って渡したのだ。

「えっ!?いいの!?ありがとー!」


 そう言って満面の笑みを浮かべていたのは、紛れもなく、今目の前にいる狼だった。

「私、夏奈子!苗字は大庭だよ!よろしくねー!」

 何故か名前を名乗った後に、苗字を伝えてきた。

「わ、私は山之辺優菜。えっと、大庭夏な」「ストーップ!私のことは夏奈子でいいよ!間違っても、苗字と名前を続けて呼ばないでね!オーケー?」

「う、うん。オッケー。でも、どうして……あ」

 大庭夏奈子。おおばかなこ。大馬鹿な子……なるほど。

「頭の中で想像するのも無し!オーケー?」

 優菜の表情を見て釘を刺してくる。有無も言わさぬ勢いで。

「お、おっけー」

「よろしい!いやー、それにしてもお互い合格できてよかったねー!これから三年間、よろしくね、優菜!」

「う、うん、よろしく」

 夏奈子の勢いに既にタジタジな優菜だったが、彼女のあっけらかんとした性格のお陰か、狼という印象は薄くなり、人懐っこい大型犬のように思えてきた。

「優菜は通い?それとも入寮組?」

「あ、寮住まいだよ。夏奈子は?」

「私は通いだよ!電車通学!」

「へー、家は近いの?」

「ううん、電車で一時間くらいかなー?これから朝早く起きないとだし、大変だよー!」

 わんこちゃんと自然な会話を交わす。同年代の子とは久しぶりに話すということで、最初は戸惑っていた優菜だったが、夏奈子の人懐っこい笑顔と太陽のような明るさに、つい笑顔がこぼれる。

 もしかしたら……夏奈子となら、友達になれるかもしれない。優菜は本当にこの高校に来て良かったと思えた。


「新入生の皆さん、これから入学式が始まりますので、講堂に移動してください」

 開け放たれた入り口から、スーツ姿の教員が教室内の生徒に告げる。

「入学式だって!一緒に行こっ、優菜!」

 言うが早いか、優菜の右手を取って教室を飛び出す夏奈子。

「わわっ!夏奈子、待って待って」

「えへへー、ごめんごめん。ゆっくり行こっか」

 そのまま手を繋いで廊下を歩く。こんな風に同級生と手を繋いで歩く日が来るとは……優菜は嬉しいやら恥ずかしいやら、でも嫌ではなくて……こんな気持ちを何と呼べばいいのだろうか。

「あーあ、それにしても残念だったなー!」

 夏奈子が話しかけてきたので、優菜はこの気持ちのことを一旦保留とする。

「残念って、何が?」

「ほら!入学式の、新入生代表の挨拶だよ!」

「新入生代表の挨拶って、確か入試で一番いい成績を取った人がするっていう、あの?」

「そう、それ!私ね、数学の問題で一問だけニアミスしちゃったんだよねー!それさえなければ、絶対私が新入生代表だったのになー」

「え、じゃあそのミスが無かったら全教科満点だったってこと?」

 星ノ杜学院の入試問題は全体的に見れば、それほど難しくはなかった。成績が中の中程度の優菜が無事合格できたのも、その為である。

 だが、各教科で一~二問は、現役受験生では解けなさそうなレベルの問題が出題されていた。実際、優菜もその問題に関しては、全く分からなかった。

「自己採点ではねー!あーあ、なーんであんなニアミスしちゃったんだろー!」

「そ、そうなんだ」

 正直、優菜には信じられない話だが、夏奈子が嘘でもでたらめでもなく本当のことを話していると感じた。彼女とは知り合って間もないが、少なくともこんな噓をつくタイプには見えなかった。

 それに、今週末には実力テストがある。成績は全員に発表されるので、この事に関しては直ぐに真偽の程が知れる。

「でもまー、代表に選ばれなくて良かったこともあったし、いっか!」

「ん?それって?」

「勿論!優菜とこうして再会できたことだよ!」

「え、ええーっ!!」

 焦る優菜に、満面の笑みを向ける夏奈子。ぎゅっと力が込められた手のひらから彼女の喜びが流れ込んでくる。

 二人並んで校舎を出る。優菜の顔は、中庭に咲き誇る桜に負けないくらい聴色ゆるしいろに染まっていた。



―interlude side ????―


 四月一日。天気予報では晴れ。風も穏やかで、過ごしやすい春日となるでしょう。

 今日は星ノ杜学院の入学式。そして、私にとっても、特別な一日です。

 何故なら、今日は、私があの子と会うことができる日だからです。

 朝食を学生寮の食堂で取り終えた私は、制服に身を包み、講堂へ向かいます。

 今日の入学式では、大役を任されています。その最終打ち合わせが終われば、いよいよ入学式の始まりです。

 あの子も参加している式は恙なく進み、いよいよ私の出番です。教員のアナウンスで名前を呼ばれた私は「はい」と、決して大きくはありませんが、よく通る声で、できればあの子の耳に心地よく響くようにと、返事をします。

 壇上の真ん中まで歩き、新入生が着席している客席の方へ体を向けます。

 明るく照らされた檀上とは対照的に、最低限の光源しか当てられていない薄暗い客席は、小学生の時に習っていたピアノのコンクールを思い出させます。

 薄暗いとはいっても、壇上から新入生の顔は見えます。思わず、あの子の顔を探そうとしてしまい、考え直します。

 今の私は、一個人としてではなく、大役を任されてここに立っています。個人的な感情で動いていい時ではありません。

 心配しなくても、あの子とは、入学式の後に会うことができます。自身にそう言い聞かせて、大役に挑みます。

 薄暗い闇からは、小さなざわめきが起きていますが、気にせず言葉を紡ぎます。

 叶うのならば、今の私の姿が、あの子の目には、光り輝く存在に映っていますように。

 言の葉を紡ぎ終え、最後に一礼をし、微笑みながら壇上を後にします。

 いよいよです。いよいよこの後、ようやくあの子に会えます。思わずテンションが上がってしまい、最後に茶目っ気を出してしまいましたが、あれくらいなら許されるでしょう。

 さあ、待っていてください、優菜ちゃん。これから私と、楽しい学園生活を送りましょう。


― interlude end―



 入学式は順調に進み、次は生徒会長の歓迎の言葉だ。

『続いて生徒会長からの歓迎の言葉です。生徒会長、ルミ・ティッキネンさん。』

 教員のアナウンスで呼ばれた名前と「はい」と講堂に響き渡るハスキーボイス、そして、壇上に登場した生徒会長の姿に、新入生側から驚嘆の言葉が漏れる。

 透き通るような白い素肌と、紅い瞳。ポニーテールに纏めている髪は壇上のスポットライトの光に白く輝いている。

「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます」

 流暢な日本語で、歓迎の言葉を述べる。その間、優菜は壇上から目を離せないでいた。


 歓迎の言葉を終え、最後に一礼する。ポニーテールをたなびかせながら、切れ長の目にうっすらと笑みを湛えて、小さく手を振りながら壇上を後にする。そのお茶目な一面に、またしても新入生側がざわめきだす。

「ふわー、すっごい美人さんだったねー」

 隣に座る夏奈子が、若干控えめなボリュームで同意を求めてくる。

 確かに、生徒会長は美しかった。姿形だけではなく、声色や話し方、所作、その在り方全てが。しかし、それと同時に優菜の心の中で警鐘が鳴り響く。

 あれは、人ならざる存在なのではないだろうか。その美貌で人を虜にし、その手の内に抱かれたものは帰っては来られなくなる。

 馬鹿げた妄想だと優菜は思い直す。彼女は留学生で、優菜自身、外国人を目の当たりにすることなく生きてきたから、そんな風に感じるのだろう。

 そう思い直して、しかし心の疑念を完全に払うことができない。

「優菜?どうしたの?大丈夫?」

 優菜の不安を感じ取ったのか、夏奈子が顔を覗き込んでくる。

「う、うん、大丈夫……生徒会長、美人さんだったね」

 夏奈子に心配をかけてしまった。優菜は、申し訳ない気持ちになりつつも、心配してくれる彼女の優しさに感謝しつつ、繋いだ右手に軽く力を込めた。

 そうした事でふと思ったのだが、夏奈子はいつまで優菜の手を握っているつもりなのだろうか。

 実は、教室を出た時から今まで、ずっと握りっぱなしである。時折、優菜が彼女の方を見ると、嬉しそうに腕に寄り添ってきたりもする。

 夏奈子はスキンシップが好きなのだろうか。優菜が教室に入ってすぐの時は教室の中心にいたが、周りとは適度な距離を保っていた気がする。

「さて、次は新入生代表の挨拶かー」

 そう呟いた夏奈子の視線は既に壇上へと向かっていた。先程は新入生代表にならなくて良かったと言ってはいたが、やはり気になるのであろう。

 優菜にとっても、気になる事ではある。夏奈子の話が本当だとすると、今年の新入生代表は全教科満点を取ったという事になる。一体どんな人物なのだろうか。

『続きまして、新入生代表の挨拶です。』

 教員のアナウンスが講堂に響き渡る。繋いだ右手に熱と緊張を感じるのは優菜の気のせいではないだろう。

 だが、次の教員のアナウンスを聞いて、今度は優菜に熱と緊張が迸る。


『新入生代表、粉雪魅由さん』


「え?」


 聞き間違いだろうか。聞き間違いであろう。聞き間違いであってほしい。

 繋いだ手に力が入る。「優菜?」突然強く握られた掌を感じ、心配そうな声を上げる夏奈子。だが、今の優菜には届かない。

 壇上に現れた人物に見覚えがある。肩にかからない程度に切り揃えられた絹のような黒髪。愛くるしい容姿だが、どこか冷たさを感じさせる瞳。

 粉雪魅由。それは、優菜の中学時代のトラウマの象徴であり、これから始まる高校生活を壊しかねない劇物でもあった。


「優菜、大丈夫?」

 隣を歩く夏奈子が心配そうに優菜を覗き込んでくる。

 入学式も終わり、優菜たちは最初に集まった教室へ移動中だ。この後は、星ノ杜学院で過ごすためのオリエンテーションが行われる予定なのだが……

 だが、優菜の心の中はそれどころではない。

 これからどうすればいいのだろうか。とりあえず粉雪魅由に会って、あの事は話さないでとお願いするか。彼女は聞き届けてくれるだろうか。そもそもどうしてこの学校に入学しているのか。偶然か、それとも……

 優菜の中でそれらの考えが堂々巡りになっている。この調子だと、バターが出来上がってしまうのも時間の問題だろう。

 そもそも、星ノ杜を受験する事は、必要最小限の人間にしか伝えていない。即ち、両親と、中学校の担任のみだ。両親が話すわけがない。では、担任が話したのだろうか。だが、三年生の時の担任は、不登校だった優菜に対しても真摯に向き合ってくれた。この人がいなければ、優菜は高校に進学すらできなかったと思う。そんな人が情報を漏らすだろうか。優菜には到底考えられなかった。

「辛いなら保健室に行く?私も付き添うよ!」

 夏奈子は優しい。その優しさが優菜には嬉しくもあり、同時に恐怖も呼び起こしていた。

 もし、夏奈子が中学時代のあの事を知ったら……まず最初に最悪の場合を考えてしまうのが優菜の悪い癖だ。こんな自分が嫌いだ。だが、早々変われるわけでもない。優菜の自己嫌悪は悪循環を生む。分かってはいても、それを止めることはできない。


 その時。

 廊下のざわめきが一瞬静まった。

 何事かと顔を上げる優菜と夏奈子。その視線の先に、粉雪魅由の姿があった。

 粉雪魅由の視線はこちらを捕らえている。優菜を、そして夏奈子を見比べて。表情は硬い。

 優菜は声を上げようとして、言葉に詰まる。粉雪魅由がこちらに近づいてくる。隣にいる夏奈子の緊張が、握りっぱなしだった右手から伝わってくる。夏奈子にとっても、新入生代表となった粉雪魅由には思うところがあるのだろう。そんな二人の困惑を気にすることなく、粉雪魅由は、優菜の正面まで来ると、膝を折り、頭を下げる。


「お会いしとうございました、魔王様。これより先は、魔王近衛隊隊長である私が常にお傍に仕えさせていただきます」


 何を言っているのだろう。優菜には全く理解できなかった。

 廊下は静まり返っている。周りの生徒達も何が起こっているのか全く理解できていないようで、次の動きを見守っている。

 だが、優菜もどうすればいいのか分からない。粉雪魅由は片膝で座り込み、頭を下げてじっとしている。

 暫くの静寂の後、最初に動いたのは夏奈子だった。

 優菜の手を放し「魔王?」と一言。信じられないというような顔で、優菜を見つめてくる。

「え、えーっと」言葉に詰まる優菜。何なんだろう、この状況は。「はい、魔王様です」粉雪魅由が顔だけを上げる。いや、勝手に魔王扱いされても困るんだけど……

「魔王って、あの魔王?人間を滅ぼしてやるとかいう、あの?」

「滅ぼす?魔王様はいずれ世界を混沌の闇へと導くお方です。人間如き、いちいち気にかける価値もありません」

 優菜の困惑を余所に話が勝手に進んでいく。周りの生徒たちも、突然始まった得体のしれない何かを固唾を飲んで見守っている。

 もし、この中心にいる三人の中に粉雪魅由がいなければ、他の生徒たちもそれほど興味を示さなかったのだろう。むしろ、突如始まった茶番を笑うか、呆れるか。だが残念なことに、新入生代表が関わっていることで、この意味不明な茶番は、注目の的となっている。

 誰もが行く末を静かに見守る中、この奇妙な静寂を破ったのは、またしても夏奈子だった。

「ふ……ふふふ……ふふふふぁあははは!!」

「か、夏奈子……さん?」

 思わずさん呼びになってしまう優菜。そんな優菜を睨みつける夏奈子の視線は、最初に感じたリーダー羊でも、襲い掛かってきた狼でも、ひたすら懐いてくる大型犬でもなかった。


 鬼。


 優菜には、獲物を見つけ、残忍に笑う鬼だと感じた。

「ついに見つけた!魔王を!私が倒すべき敵を!」

 絶叫。今までの底抜けに明るい太陽のような陽気さは微塵も感じられない。そこにあるのは、至上の喜び、歓喜の絶叫。

「覚悟しなさい魔王!あなたは!私が!勇者である私が!今度こそ倒す!」

 夏奈子の宣言。自身を勇者だと名乗る夏奈子の燃えるような瞳には、優菜も、粉雪魅由も、映ってはいなかった。


 何が起こっているのだろう。夏奈子が、優菜を睨んでいる。いや、優菜ではない。その視線の先にいるのは、果たして何者なのだろうか。

 ふと、袖を引っ張られる。粉雪魅由だ。

「ゆ、優菜ちゃん、どうしましょう?ま、まさか勇者が現れるなんて、お、思いもしませんでした」ものすごく小さな声で、優菜に訴えてきている。

 焦っている。すごく焦っている。この状況は彼女にとっても想定外だったのか、ひたすら焦り、優菜に助けを求めている。

 だが、助けてほしいのは優菜も同じだ。こちらを鬼の形相で睨む夏奈子。その原因となった粉雪魅由は、突然の勇者の登場に混乱している。

 というか、どうして名前にちゃん付け?確かに同じ中学出身で、同じクラスにもなったこともあるが、彼女とは名前で呼び合うような仲ではなかった。ああ、それよりも、今は夏奈子の誤解を解かないと。でも、あの獲物を見るような鬼の瞳で睨み、いつ襲い掛かってくるかもしれない雰囲気を醸し出している相手に言葉が通じるのだろうか。優菜にも粉雪魅由にも、周りで行く末を見ている者たちさえも、どうしていいのか分からない最中、

「何事です」よく通るハスキーボイスが響く。その場にいる全員が、その声の主に視線を向ける。耳にしたら誰もが無視できなくなる声色の主。生徒会長、ルミ・ティッキネンがそこに居た。


「新入生の皆さん、今は廊下で談笑をする時間ではありません。各自、指定された教室へ向かってください」

 羊飼いの鞭の音に、羊たちが行動を開始する。あっという間に、優希の周りにいた生徒たちが、それぞれの教室へ向かっていく。

 その流れに逆らって、夏奈子が飛び出す。

「魔王が現れたのに、それどころじゃないよ!あれをなんとかしないと!」

 優菜と魅由を指差しながら生徒会長にそう訴える瞳には、狂気を孕んでいる。その気迫にたじろぎながら生徒会長が優菜と魅由を見つめる。

「魔王……?優菜ちゃんが?」

 一瞬驚きの表情を浮かべた後、よく分からないという風に小首を傾げる生徒会長。

 というか、またしても名前にちゃん付けで呼ばれて、困惑する優菜。そもそもどうして名前を知っているのだろうか。

 頭の中がはてなマークで一杯の優菜を見つめていた生徒会長だったが、深いため息をついてこの場に残った三人を見渡す。

「はぁ……馬鹿なこと言ってないで、教室へ移動なさい。粉雪魅由さんに大庭夏な」「ストーップ!私のことは夏奈子と呼んでください!くれぐれも、苗字と名前を続けて呼ばないように!オーケー!?」

「お、OK.」夏奈子の剣幕に思わず返事をしてしまう生徒会長。オッケーの言い方もネイティブっぽくてかっこいい。

そして、先程まで鬼の形相だった夏奈子は、わんこちゃんに戻っている。もしかして、名前の呼び方のやり取りで正気に戻ったのだろうか。

「と、とにかく、あなたたちも教室へお行きなさい」少し照れた様子で場を収めようとする生徒会長。「でも!」と食い下がる夏奈子に、「あなたたちが教室に戻らないと、オリエンテーションを始められません。何か問題があるのなら、後で話を聞きます。魔王がどうとか以外の話なら、ですが」にべもなく告げる生徒会長に、夏奈子も渋々といった感じで教室へ戻っていく。

「確かに、このままでは皆さんに迷惑が掛かってしまいます。優菜ちゃん、私ももう行きます。でも、また後で会いに行きますから、教室で待っていてください」

 魅由も自分のクラスの教室に向かう。というか、また後で来るんだ。複雑な気持ちになる優菜。

「山之辺優菜さん」

 最後に残った優菜に生徒会長の優しい声がかかる。

「何か困ったことがあれば、いつでも生徒会室に来なさい。私はいつでも待っていますからね」

「あ、ありがとうございます。でも、どうして私の名前を?」

「あら、日本の学校の生徒会長というものは、全校生徒の顔と名前を憶えているものでしょう?何かの文献で読んだわ」

 お茶目に微笑む生徒会長の口元から、八重歯がきらりと覗く。

 それ、文献というか、小説とかの創作物じゃ……この人だけはまともだと思ったが、やはりどこかずれている気がする……自分の周りに集まった変人たちを思い、頭が痛くなる優菜であった。




 オリエンテーションでは、全生徒に支給されたタブレットと、それにインストールされている星ノ杜学院のアプリの使い方を教わった。そのアプリで履修登録等、学院内の様々な手続きができるので、今の内に使い方を覚えておかないといけないのだが……

「じーーーーー!」

 隣からの熱い視線、いや、警戒する眼差しは、オリエンテーションが終わってからも優菜に向けられている。

 一番最後に教室に入ってきた優菜の隣に夏奈子は座った。優菜は先程の誤解が解けたのかと思ったのだが、そんな甘い考えは一瞬で消え去っていた。

「あ、あのー、夏奈子さん?」

「気やすく名前で呼ばないでくれる!?魔王の分際で!!」

 このように取りつくしまもない。

 オリエンテーションが終わりしばらく経つが、こんなこともあって優菜はいまだに教室に残っていた。

 そして、教室に残っているのは、優菜と夏奈子だけではない。同じ教室でオリエンテーションを受けていた新入生たちも、半数は教室に残っていた。

 当然のように、教室に残っている羊たちの関心は、優菜と夏奈子に向けられている。

 先程の廊下での出来事は何だったのだろうか?これからまた何か起こるのではないか?そんな期待するような視線を向けられても、優菜としてはこれ以上何も起きてほしくない。


「かーなーちゃーん。いるかねー?」

 その時、一人の生徒が教室に入ってきた。

 小さい。それが彼女の第一印象だ。

 ゆるふわでボリュームのある髪の毛は、腰を優に超えており、少し眠たげな大きな瞳が彼女の幼さをより一層強くしている。まるでアンティークな西洋人形のようだ。

 周りの羊たちからも、「え、新入生?」「先輩……じゃないよね?」「中等部ってあったっけ?」などの声が上がっている。

「うわーん、賢者ぁ―!大変だよー!」

 教室に入ってきた西洋人形の元へ勢いよく向かいながら夏奈子が喚く。

「賢者?」「勇者の次は賢者か……」「賢者来た!」羊たちのざわめきが大きくなる。

「こらこら、人前で賢者と呼ぶんじゃあないよ」

 勢いよく夏奈子に抱き着かれながらも、賢者が冷静に訴える。

 というか、賢者かぁ。賢者と呼ばれて否定しないところを見ると、この子も変な子なのだろう。話し方も独特で見た目と釣り合っていないし。次々と現れる変人たちに優菜の頭痛は酷くなる一方だ。

「それどころじゃないんだって!魔王!ついに魔王が現れたの!!」

 あれ?デジャヴかな?こちらを指差してくる夏奈子の姿に、優菜はそう思わずにはいられない。

「魔王だって?」

 眠たげな視線がこちらを向く。夏奈子に抱き着かれながら、というか夏奈子を引きずりながら、優菜の元に歩み寄ってくる。

「ふぅむ……」じろじろと観察される。その間も夏奈子は賢者に抱き着きながら、優菜を睨んでくる。

「あ、あの……」穴が開くほど観察されている。ふむふむ、だの、ほうほう、だの言いながら。

 ひとしきり観察をした賢者は、「なるほど、確かに魔王だ」と言った。

「いやいや、待って!!」「やっぱり!」優菜と夏奈子の声が不協和音を奏でる。

「魔王と分かった以上は容赦はしない!さぁ、賢者!今こそ魔王を倒そう!」

「いや、だから、私は魔王じゃないってば!賢者さんも適当なこと言わないでよ!」

 こんな訳の分からないことで倒されたくはないし、ここは何としても誤解を解きたいところだ。でもどうすればいいのやら。

「まぁまぁ、落ち着きたまえ、二人とも」

 賢者が落ち着いた口調で告げる。いや、あなたのせいで落ち着けなくなってるんだけど。

「魔王がいるのに落ち着いてなんていられないよ!」

 夏奈子はもうやる気満々だ。いつ飛び掛かってきてもおかしくないくらい興奮している。

「まぁまぁ夏奈ちゃん、落ち着いてよく聞きたまえ」賢者はそんな夏奈子の頭を撫でたり肩を抱いたりして落ち着かせようとしている。その姿は賢者ではなく猛獣使いのようだ。

「ふーっ、分かった。賢者の、言うこと、聞く」

 夏奈子は片言になりながらも、落ち着いてきている。それを見てか感じてか、賢者が次の言葉を発する。

「確かに彼女は魔王だが、同時に人間でもある」

 え、どういうこと?「ん!?どういうこと!?」優菜の疑問を夏奈子が口にする。

「つまり、彼女は異世界から転生してきた魔王という事さ。分かりやすく言えば、彼女の中には魔王の魂が眠っている。その魂が目覚めない限りはただの人間ってこと」

 なるほど、そう言われると分かりやすい。「なるほど、そういう事だったのですね」優菜の思考を口にする人物がまた一人。

「わわっ」「む、魔王なんたら隊隊長!」「おや、誰だい君は?」

 粉雪魅由の登場に、三者三様のリアクション。

「なんたら隊ではありません。魔王近衛隊隊長です」

「いや、そこは訂正しなくてもいいから」と優菜がか細く呟く。

「ふむ、君が?」先程優菜にそうしたように、今度は魅由をじろじろと観察しだす賢者with夏奈子。というか、いつまで抱き着いているんだろう。

「ひっ、な、なんですか?」じろじろ見られて、怯える魅由の視線は優菜に向けられている。助けて、と。先程の廊下での出来事といい、突発的な出来事に弱いようである。

「ふむ……まぁ、そういうことにしておこうか」

 魅由への観察はものの数秒で終わった。視線から解放されて、安堵の溜息を漏らす魅由。

「まぁ、ここで長々と話すのもなんだし、良かったら食堂にでも行かないかい?私は喉が渇いた」

「そうだね、賢者。さっきの話、詳しく聞かせてくれる?」優菜をジト目で睨みながらも賛成する夏奈子。

「え、えーっと、私は……優菜ちゃんが行くなら……」動揺しながらも、訴えかけるかのように優菜をじっと見つめる魅由。

「優菜ちゃんっていうのか。ならば優ちゃん、君もいいかね?」勿論君も来るのだよ、と優菜を見上げてくる賢者。

 ここで断れるようには、優菜はできてはいない。

「わ、分かりました。行きます」




 食堂はフードコート形式になっており、メニューも豊富に用意されている。

 今日は入学式という事で、食堂自体は閉まっているが、フードコートと自動販売機は稼働している。

 入学式を終えた新入生とその保護者の姿も何組か見られる。

 因みに優菜の両親は、残念ながら入学式に参加はできなかった。両親も残念がってはいたが、実家から遠くの地に進学したのだから仕方が無いことだと割り切っている。

 そして、この三人も、保護者らしき人は見かけない。もしかしたら、式には出席していたのかもしれないが、その辺りの事は優菜には知る由もない。

「さて、ではまず自己紹介から行こうか」

 各々、好きな飲み物を自販機で購入し、テーブルに着いたところで賢者が提案する。特に異も無いので黙って成り行きを見守る優菜。

「まずは私からだね。私は智賢。叡智の智に賢いと書いて[ともさか]さ。気軽に智ちゃんと呼んでくれたまえ」

「智賢さん……智ちゃん?あの、お名前は?」

「おっと、名前のことは聞いてくれるな。それは、」「智の名前はあさがおだよ!」

 魅由の疑問に、同時に答える智ちゃんと夏奈子。またしても不協和音が響く。

「夏奈ちゃん?今、私は名前には触れないでって言おうとしたんだよ?なのに、どうして言っちゃうのかね?」ぎぎぎ、と、隣に座る夏奈子に首を向ける賢者、もとい、あさがお。

「えっ!?だって智の名前はあさがおでしょ!?」あさがおの不満に満ちた態度を臆ともせず、けろっとした感じで夏奈子が答える。

「に、二度も言った!?夏奈ちゃん、そういうとこだぞ!君ってやつは、そういうとこだぞ!」

「ええっ!?智、なんでそんな怒ってるの!?」

 どうやら夏奈子は、あさがおが自分の名前に対して触れられたくない事に全く気が付いていないようである。あさがおの必死の抗議にも、夏奈子にはまるで通じない。まさに暖簾に腕押し状態だ。というか、自分の名前の呼ばれ方にはやけに敏感なのに。もしかしなくても夏奈子は天然の様である。

「だ、だ、だから君ってば、大馬鹿な子なのだよ!むぎゅ!!」

「ぎゃー!言った!大馬鹿って言った!」

 遂にはNGワードを言ってしまったあさがおのほっぺたを両手で押さえつける夏奈子。

「大馬鹿?おおばかなこ……あっ」夏奈子の名前の秘密に気が付いた魅由が、その場に塞ぎ込む。肩を震わせながら「おおばか……なこ……ふふっ……ふふふふっ……」大受けである。

「そこっ、想像するのも無しで!」

 あさがおのほっぺたを開放して、びしっと魅由を指差す夏奈子。

「と、ともかく、私のことは智ちゃんって呼んでくれたまえ」

 ほっぺをさすりながらも何とか進行するあさがお。でも、どうしてそんなに名前を気にするのだろう、と優菜が疑問に思っていると、

「ちなみに、嫌いなタイプは、自分の子どもに平仮名四つの名前を付けちゃうようなやつさ」

 どうも、触れてはいけないところのようだ。優菜としては、あさがおって名前は可愛いと思うのだが、思うところは人それぞれなのだろう。

「この学院へは通いで、電車で大体1時間くらいかな。趣味は読書。夏奈ちゃんとは、小学校からの幼馴染なのだよ」

 その後は落ち着いた雰囲気を取り戻し、自己紹介をし終える。


「さて、次は夏奈ちゃんどうぞ」

「あ、うん。ってそこ、いつまで笑ってるの!」

 いまだに顔を伏せってぴくぴくしている魅由。「ご、ごめんなさい。でも……ふふふっ」

「あーもー!私は夏奈子!苗字は大庭!苗字と名前を続けて呼ばないように!」

 勢いよく自己紹介を始める夏奈子。

「智と同じで通い!好きなことは体動かすこと!でも球技はちょっぴり苦手かな~?朝はお米派だよ!」

 夏奈子の自己紹介からは明るく裏表の無い性格が伺い知れる。これで自分が勇者だとか言い出さなければ……本日何度目かの溜息をつく優菜。このままでは、一日の溜息新記録を樹立しそうである。


「なら次は、君の番だが、できるかね?」

 夏奈子の自己紹介が終わり、あさがおが魅由の肩を揺する。

「は、はい、もう大丈夫です、多分」涙目になりながらも顔を上げる魅由。愛くるしい顔が紅葉し、色っぽさを感じる。だが、深呼吸を一つすると、いつもの粉雪魅由に戻る。

「私は粉雪魅由です」

 魅由はそう言って言の葉を紡ぎ終える。

「え、それだけ?」思わず夏奈子が突っ込む。「はい、それだけです」何も問題が無いかのように答える魅由。自己紹介が名前だけなんてのは、優菜からしても異様だと感じる。

「なるほど。まぁいい」だが、あさがおは納得したようだ。今のやり取りに彼女の中では納得できる要素があったという事だろうか。優菜には全く理解できない。


「では、最後は君だね」

「は、はいっ!」思わず声が裏返る。そんな優菜に三つの視線が集まる。

 期待と、高揚と、観取。優菜は、この自己紹介の主役が自分であるかのような錯覚に見舞われる。

 だが、そんなことは無い。この個性的な三人に比べたら、自分は一般的なただの一生徒に過ぎない。先程魅由がしていたように深呼吸一つ。

「わ、私は山之辺優菜。寮暮らしです。えっと、趣味は……あ、高校野球が好きです。毎年見てます。あとは……特に無いかも……えっと、よ、よろしくね」

 言えた……ところどころ噛み噛みだったが言えた。そのことについ誇らしくなってしまう。


「そして、私の魔王様です」

 そんな優菜の誇らしげな気持ちは、魅由の発言によって一瞬で吹き飛んだ。

「はっ!そうだった!魔王だった!」

 今まで忘れていたかのように、夏奈子が吼える。というか、忘れていたのだろう、確実に。

「ふむ、そのことについては話さねばなるまいな」あくまで冷静、マイペースなあさがお。

「そうだよ!見た目は人間、中身は魔王だっけ!?」

「違います。優菜ちゃんの中に魔王の魂が眠っている、です」

 夏奈子のうろ覚えを、正確に訂正する魅由。

「その通りだ、みーちゃん」

「みーちゃん……って、わ、私のことですか?」

 突然のみーちゃん呼びに狼狽える魅由。と思ったら、「みーちゃん……ふふっ、悪くはありませんね……」ぼそっと呟く。どうやら気に入ったようである。

「んー、それってどういうことなの?」夏奈子だけは理解が及んでいないのか、悩ましげな声を上げている。

「言葉の通りさ。優ちゃんは人間だけど、異世界から転生してきた魔王が体の中にいて、そいつは今眠っているのさ」

「んー、じゃあ今のうちにやっつけちゃおうってこと!?」

「いやいや、どうして君はいつも乱暴な解決法を選ぶのだね?」

「だって、眠っているなら簡単にやっつけられるよ!?」

 シュッシュとパンチを繰り出す夏奈子。「野蛮です」その様を見て、ぽつりとつぶやく魅由。

「眠っているものを殴ったら起きてしまうかもしれないじゃあないか。そうなった時の事は考えているのかね?」

「う……それは……」

「それに、魔王と戦う時は仲間を揃えてからとも言っておいた筈だが」

「仲間?」優菜の疑問に、「そう。即ち、戦士、僧侶、魔法使い、賢者の四人さ」RPGでありがちな職業を言い並べるあさがお。

「という事は、今はまだ賢者しか揃っていないという事です?」

「然り。そして、魔王を倒すには仲間の協力が不可欠。今の勇者パーティは魔王と戦う準備すら整っていないという事さ」

 魅由も自然と会話に加わっている。彼女は自身の事を魔王近衛隊隊長と言っていたが、本当の事なのだろうか?真偽の程はどうあれ、優菜の事を魔王と呼ぶのは、どう考えてもあのノートが原因だろう。今は実家の勉強机の鍵のかかる引き出しの奥底に眠っているあのノート。あれを見せれば、夏奈子の誤解は解けるだろうか?できればもう二度と引き出しから出したくないのだが……

「でも、そうしてる間にも魔王が目覚めちゃったらどうするの!?」

「その点は安心したまえ。私の見立てでは魔王はまだまだ熟睡状態さ。だから、私たちが気を付けなければならない点は一つだけ。それは、優ちゃんの心さ」

「私の……心?」あさがおの発言に動揺を隠せずに言葉に詰まる優菜。

「今の魔王は、自ら起きることはできない状態にあるとみていいだろう。おそらくだが、転生するためにかなり消耗したのだろうね」

「という事は、外部からの働きかけが無ければ目覚めることは無いという事ですか?」

「然り。そして、外部からの働きかけというのが、優ちゃんの心という訳さ。魔王は人間のマイナス感情を力に変えることができる。即ち……」

「優菜が悪い子にならなければ大丈夫!って事?」

「概ね当たりだ。二人とも理解が早くて助かる」

「なーんだ!じゃあ大丈夫だね!優菜は悪い子じゃないし!」

 夏奈子が心から安堵したかのように優菜に笑いかける。

 それだけ……なのだろうか。あさがおの話は。それだけのはずだ。それだけであってほしい、と優菜は心から思う。

「そして、これからも悪の道へ踏み出さないように、私たちで見守っていこうではないか」

「待ってください。それでは困ります」

 無事解決したと緩む空気の中、魅由が異を唱える。

「魔王様には是非とも目覚めていただかなければなりません。なぜなら私は、」

「まぁまぁ待ちたまえ、みーちゃん」

 魅由の反論に口を挿むあさがお。一瞬むっとした表情を見せるが、みーちゃんと呼ばれるのが嬉しいのか、複雑な面持ちの魅由。

「みーちゃんは魔王近衛隊隊長と言ったが、ならば君の仕える魔王とは一体誰の事だね?もしその魔王が目覚めたとして、君は何がしたんだい?人類の抹殺?それとも、世界の破壊とか?そもそも、本当に魔王がそんなことを望んでいるとでも?」

 その一瞬の躊躇いを好機と見たか、あさがおが一気に畳みかける。

「そ、それは……」

 あさがおの怒涛の質問に答えられずに、思わず優菜の方を見る魅由。優菜もそんな魅由を見つめ返す。優菜としてはこれ以上話をややこしくしてほしくはないわけだが、魅由にそれが通じるのだろうか。

「ふむ……ならば優ちゃんはどうなのかね?君は自分の中に眠る魔王を起こしたいと思うかい?」

「え?私?」

 答えを出せない魅由を見て、今度は優菜に問いかけるあさがお。優菜としては、魔王を起こすとか以前に、そういった事に関わりあいたくないのだが。

 三人の視線が優菜に集まる。疑念と静観と僅かな期待。

「私は……よく分からない……です」

 消え入りそうな優菜の言葉に三者三葉の表情。だが、優菜としてもどう答えていいものか分からない。そもそも魔王云々は、完全に優菜の妄想であり、忘れたい出来事でもある。

「ふむ。ならば、この件は一旦保留としよう」

「えー!そんなんで魔王復活しちゃったらどうするの!?」

 智ちゃんの結論に夏奈子が嚙み付く。

「そうならない為にも、私たちはこれから仲良くしていこうって事だよ。優ちゃんが悪い子にならないように頑張ろうじゃあないか」

「でも!」

「それとも夏奈ちゃんは、優ちゃんとは仲良くしたくないのかい?」

「したいよ!仲良く!」

 あさがおの問いかけに即答する夏奈子。好意の剛速球に照れる優菜と、複雑な面持ちの魅由。

「ならば問題あるまい。みーちゃんも保留って事で、とりあえずは仲良くしていこうって事でいいかね?」

「……はい」

 戸惑いながらも素直に頷く魅由。

「ならば、これから私たちは仲良し四人組だ。では連絡先を交換し合おうじゃあないか」



―interlude side Asagao―


 新都市交通から鉄道に乗り換えて一息つく。

 帰宅ラッシュより少し早い時間帯の新快速の車内は程よく込み合ってはいるが、二人とも何とか座席に座ることができた。

 六駅先の地元に着くのに一時間弱。

 ふと、右肩に掛かる重みに目を向けると、早速夏奈ちゃんが静かな寝息を奏でている。

「全く、呑気なものだ」

 小さく呟きつつ、ブランケットを夏奈ちゃんの膝に掛ける。

「んー、えへへ……」

 下半身の暖を確保した夏奈ちゃんが、可愛らしい寝言を発する。完全に安心しきった様子で眠る夏奈ちゃんの顔を眺めながら、今日の出来事を反芻する。

 魔王……遂に魔王が現れてしまった。正しくは自称魔王か。優ちゃんは自称していなかったが。出来れば一生現れてほしくはなかった。中学三年を過ぎた辺りで、例の病気的な意味でも、もう現れることは無いだろうと安心していたのだが。本当に魔王が現れた時のために予防線を張っておいてよかったと心から思う。流石に、戦士、僧侶、魔法使いは現れないだろう。これ以上例の病気の罹患者か、悪乗りする人が現れませんように。

 そういえば……あの時の優ちゃんの動揺はなんだったのだろう。私が[優ちゃんの心]と言った時の優ちゃんの表情は明らかにおかしかった。

 何か気になる事でもあったのだろうか。或いは何か隠し事があり、それに触れようとしてしまったとか。まさかとは思うが……

 冗談にも程がある仮説に、頭を横に一度だけ振る。

 どうやら私も疲れているようだ。こういう時に考え事をしても仕方がない。

 鞄から読みかけの文庫を一冊取り出す。ふと、夏奈ちゃんの頭越しに景色を覗く。過ぎ去る風景は早く、これからの学院生活を示唆されているかのように眩く映った。


― interlude end―



「ふう」

 優菜は、部屋のユニットバスでシャワーを浴び、軽く水分補給した後、ベッドに腰掛ける。

 右手に持つスマホのSNSアプリを見ると、三人の名前と一つのグループが新たに追加されていた。

「はぁ……」

 先程からこの画面を見ては、溜息を零す優菜だが、本人にその自覚は無い。

 夏奈子、智ちゃん、粉雪魅由という名前が友達の欄に、その三人に優菜を加えたグループが一つ。グループ名は、Shikiし~ず、という名前で表示されている。

 先程、名付けの親に名前の由来を聞いてみたところ【私たち四人の名前には季節に関する文字が入っているだろう?だから四季とseasonを組み合わせてみたのさ。】という答えが返ってきた。

【確かに私と魅由は夏と冬で分かるんだけど、優菜と智は?】

【優菜の菜は菜の花の菜だろう?菜の花と言えば春の花だからね。私は業腹だが、朝顔から取ったのさ。】

【朝顔って、夏に咲く花じゃないの?】

【朝顔の開花時期は七月から十一月ですよ、優菜ちゃん。】

【それに季語としては、朝顔は初秋に分類されているのだよ。】

【じゃあ智が秋担当だね!】

【業腹ではあるが。】

 グループでのやり取りを眺めて、再び溜息をつく優菜。スマホを持ったまま、右手を重力に引っ張られるままにベッドにどさっと着地させる。そのままの姿勢でぼーっと天井を見上げる。思いを馳せるは、先程の食堂でのやり取りだ。


 智ちゃんの[優ちゃんの心]という発言を聞いた時は思わず焦ってしまい、その後の会話はあまり覚えていない様子の優菜だが、マイナス感情という言葉が出ていたのは鮮明に思い出せる。

 その言葉は、優菜に、中学二年生二学期二日目の出来事を想起させる。

 優菜には一つ、親にさえも秘密にしていることがある。それは、他者より向けられるマイナス感情に非常に敏感だという事だ。とりわけ憎悪への感受性が高く、心だけでなく体調さえ崩してしまう程だ。

 あの時もそうだった。教室の黒板に書かれた大きな文字も、小ばかにするような雰囲気も、教室のバカ騒ぎの原因となったものを責めるような視線も、申し訳なさそうに教室の隅で震える肩でさえも、優菜の心を一ミリも動かすことは無かった。

 ただ一つ。優菜に対して憎悪を向けるたった一つの存在。その存在が優菜を苦しめた。


 江島美希。


 彼女はクラスの中心人物で、所謂一軍と呼ばれる中でも最上位に位置しており、優菜にとっては話しかける事も、話しかけられる事も無いような存在だった。

 そんな相手から向けられる一方的な憎悪が、優菜を不登校にまで追いやった。

 だが、優菜は江島美希を恨んだりしなかった。寧ろ、こうなってしまったのは自分に責任があると考えた。自分がもっとクラスで目立たないようにしていたら。もしくは、江島美希の気に障るようなことをしなければ。

 この事に関して言えば、優菜に落ち度は全くないのだが、こんな風に考えてしまうのが良く言えば優しいところ、悪く言えば後ろ向きなところでもある。

 しかし、なぜ江島美希は優菜に対して、あれほどまでの憎悪を向けたのだろう。それだけは未だに謎のままである。


「はぁ……」

 止めよう。これは考えても仕方のないことだ。優菜は自分にそう言い聞かせる。今は、これからの事を考えなければ。思考を切り替えた優菜の頭に浮かんだのは、夏奈子だ。

 夏奈子はどうやら勇者らしい。よく分からないけど自称していたし、智ちゃんもそのように言っていた。再び溜息。せっかく仲良くなれるかなと思った相手が、こんな地雷を隠し持っていたとは……

 勇者と魔王、か……そういえば、あの廊下での一件。夏奈子は魔王に対して憎しみを持たなかったのだろうか。優菜が参照したあのアニメでは、勇者は魔王に対して深い憎しみを抱いていた。

 だが夏奈子に睨まれた時、優菜のマイナス感情センサーは一切反応しなかった。寧ろあの時の彼女は……ようやく獲物を見つけた喜びに狂う鬼の様な相貌を思い出し、背筋が冷たくなる優菜。そもそも、本当に夏奈子は勇者なのだろうか。勇者と言えば……と、次に智ちゃんの顔が頭に浮かぶ。


 夏奈子が勇者で、智ちゃんが賢者。彼女たちは、優菜のあのノートの事を知らない。という事は、本気でそうなのか、思い込んでいるのか、もしくは、あの頃の優菜と同じような病気に現在進行形で罹患しているかだ。話し方も独特だったし、そういう事なのだろう。正直、魔王だの勇者だのとは関わり合いたくない。だが、今後もこの二人とは付き合っていくことになるのだろう。例え優菜が離れようとしても、どこまでもついてきそうだ。今しばらくは、優菜の悩みは尽きそうにない。


 悩みと言えば、魅由もだろう。彼女は、本当に何を考えているのかが分からない。

 中学生の時の魅由は、可憐な容姿に、成績優秀、運動神経抜群という非の打ちどころの無い人物で、その事を鼻にかけない慎ましさを備えた、深窓のお嬢様といった印象だった。

 そして、優菜にとっては、唯一あのノートの中身を見た者であり、その事をクラスメイトに、恐らくは江島美希に話した存在でもある。だが、優菜は江島美希同様、魅由の事も恨んではいなかった。

 あの日、優菜は魅由にあのノートの事を内緒にしてほしいと伝えたが、肝心の返事を待たずに逃げるように教室を飛び出していた。あの時、しっかりと約束を取り付けていれば、あんな事にはならなかったのかも知れない。そう、全ては自分の行いが招いた結果だと、優菜は考えている。

 だから、入学式後の廊下で魅由が跪いてきた時は本当に驚いた。それでも最初はからかわれているのかとも思ったが、その後の態度を見る限りは真剣にやっているように見えた。

 彼女は優菜に何を求めているのだろう。それが分からない内は、優菜もどういう態度で接していいのか分からない。


「はぁ……」

 一日の溜息の最多記録をまた一つ更新して、優菜は布団に潜り込む。

 もう寝よう。明日も学校だ。今日一日で通う気力を全て奪われてしまったが、親との約束もある。とにかく明日からは卒業する事だけを考えて生きていこう。なんとも後ろ向きに気持ちを切り替えて、静かに目を閉じる優菜。




 やがて、静かな寝息と共に、優菜の意識が眠りにつく刹那、私に五感が宿る。

 優菜の静かな呼吸が鼓膜に響く。鼻腔を擽る優菜の匂い。歯磨き粉の微かなミントの味が食感を灯す。目は閉じたまま、右手の小指を軽く握りこむ。その指から優菜の体温が私に流れ込んでくるのを感じる。


 私は山之辺優希。

 山之辺優希は、魔王である。




 私の、この世界での初めての目覚めは暗闇の中、胎内だった。

 その時、私が思い出せた感情は、とある者への哀愁と、人間への激しい憎悪。

 とにかく、人間が憎い……全てを焼き尽くしても尚燃え盛る恩讐の炎が、私の心を支配していた。

 次に思い出したのは、自分が異世界で魔王と呼ばれる存在だったという事だ。

 その世界では人間と魔族とが泥沼の戦争をしていた。

 人間は個体としては余りにも脆く、魔族の敵ではなかったが、数の多さと、その多様さから生まれた技術力により、戦いを拮抗させていた。

 やがて、人間の中で勇者と呼ばれる存在が現れると、戦いは徐々に人間側の有利となっていった。

 そうして、最後の決戦。魔王と勇者の直接対決は、どうなったのだろう。その辺りの事は思い出せない。いや、思い出したくないのか……

 だが、私がこうして新たな命として生まれ変わったという事は、魔王は負けたのだろう。

 本来ならそこで滅びるはずの私がこうして生まれ変われたのは、転生の秘術のお陰だ。


 だが、不思議だ。私は人間に対して、これほどまでの憎悪を感じたことは無かった。寧ろ、人間など魔王である私からすれば取るに足らない存在。そんなものに対して感情を働かせること自体があり得ない事だった。

 だが、今の私からは決して枯れることのない憎悪が今もなお湧き出してくる。これほどまでの憎しみを、人間はどのようにして私に与えたというのだろう。私の思い出せない最後の戦いで何かあったのだろうか。その出来事自体が、思い出せない枷となっているのかもしれない。


 記憶が戻ってくるにつれ、今の自身の状態も把握できるようになる。

 今の私は力の殆どを使い果たしており、こうして胎内に留まるしかない。

 そして、私が宿る胎児には、生まれながらにして身体的な欠陥があった。このままでは、生まれる前に命を落とすことになるだろう。

 このまま滅びるしかないのか。いや、まだ手はある。形成されたばかりの瞳を闇に向ける。そこには、もう一つの命が存在していた。この胎内に宿る命は二つ。双子の片割れだ。

 このもう一つの命を奪えば、この欠陥を癒すくらいの力が得られるかもしれない。悪く思うな。未成熟な右手を伸ばす。その時、右手に触れる感覚。片割れの方も、こちらに右手を伸ばし、触れてきた。

 互いの指先が互いの掌に絡みつく瞬間、私の心に走り抜けた想いは、憐憫、同情、そして、狂おしいほどの愛惜だった。最早、人間への憎しみなど居残る場所などどこにもない。ただただ、目の前に存在する命こそが私の全てだと思えた。私が人間への憎悪と共に思い出した、かけがえのない感情。それが今、私と共にいる。私と手を取り合ってる。私が失ったであろう片翼が、こうして新たな命として生まれようとしている。


 ならば、私はこのまま潔く消えよう。右手の力を緩める。だが、繋いだ手が離れることは無かった。


 繋がれた右手に熱が宿り、心が伝わってくる。共に生きよう、と。私は再び、右手に力を込める。


 そうして……私、山之辺優希は、山之辺優菜と共に生きる道を選んだ。


 あれから十五年。私は優菜と共に生きてきた。

 もっとも、優菜は私の存在を知らない。胎内での事も覚えてはいないようだ。

 だが、それで構わない。私はこうして優菜と共にいる事が何よりも幸せなのだから。この体は優菜のもので、私はその中で優菜の幸せを願い続けることができればいい。そう思っていた。


 だから、こうして優菜が眠りにつく僅かな時間に私が浮上してくる事は想定外だった。

 事の始まりはあの日、中学二年生二学期二日目。学校から逃げ帰った優菜は体調を崩し、そのまま寝込んでしまった。優菜の意識が闇に落ちる瞬間、私はこの世界で初めて自身に五感が宿るのを感じた。突然の五感の感覚に思わず目を開いてしまい、優菜の意識が強制的に覚醒すると、リモコンのスイッチが切られたかのように、私から五感が切り離された。


 その日から、優菜が眠りにつくほんの一瞬だけ、私は優菜の体を動かせるようになった。だが、目を開くのは勿論、体を大きく動かせば、優菜が目を覚ましてしまい、私はコントロールを失う。

 だから、今の私にできることは、こうして目を瞑ったまま、優菜の体温を感じる事だけ。

 やがて、優菜が完全に眠りにつくと、私から五感が失われる。この感覚は、一年半たった今でも慣れることができない。それは恐らく、私が優菜という存在を一番感じられる時が失われるからだろう。だが、それで構わない。私は、優菜と共に生きると決めた。それが私の存在理由であり、この世界に望む全てなのだから。

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