第参部 第三話 絶体絶命
「義孝様、こちらの騎馬隊に向かって突っ込んでくる小隊があります!数は二百から三百ほど!」
中央からもたらされたその報告は、なんのことはない、別段緊急性もない戦況報告の中の一つであった。
その報せによれば、敵部隊の狙いは今まさに敵主力と削り合いをしている朝倉軍騎馬隊、その横腹とも言える位置。
均衡を保ち続けるのが目的であるこの乱戦地にあって、背後に憂いができてしまうのは決して得策ではない。
が、しかし。
追い風の現状や三百というその少なさも相待って、朝倉軍本陣はこの突撃を警戒するべきなのか否か、対応に迷いが生じていた。
「……妙だな、こんな位置をそのような寡兵でか?…誤報ではないのか」
「その通りだ。だいたい、そこに至るまでの周辺部隊は何をしていたのだ」
「ハッ……それが、周囲に展開していた部隊の姿が見えないとも報告が」
そのあまりの奇妙さに不思議がる側近たちだったが、そこまで大袈裟に対処するほどの脅威ではないとの結論に至り、この話はそこで流れる——かと思われた。
しかし義孝は、問題の部隊の”絶妙な少なさ”に逆に違和感を……そして、その裏に隠された真田幸村の意図を感じ取り、すぐさま手を講じた。
本陣を守っていた部隊のうち千人を、その小隊へのカウンターとして向かわせたのである。
一見するとこの采配は、幸村の飛び道具をすぐさま叩き落としにかかるような、鋭い一手にも思える。
しかしこれがのちに、越後連合軍にとって大いに裏目に出てしまう。
その異変を最初に感じ取ったのは、こちらに動いてきた幸村を、逆に絡め取るべく黒狼本隊の指揮を取っていた兼続であった。
三好伊三の出現自体は——というよりは、朝倉軍による援軍に対して幸村が強部隊を出してくることは、ある程度想定の範囲内。
では一体何が、兼続の直感に訴えかけてきたのか。
それは。
「……今すぐ、義孝に伝令を送れ」
呆然とした面持ちで突然そう言った主人に、本陣将校たちは困惑の色を浮かべながら言葉を返す。
「よっ、義孝様に……いったいなんと…」
すると眉間にシワを寄せた兼続は、自らも馬に跨りながら半ば叫ぶようにこう言った。
「あの千騎……敵の強部隊に対して、義孝が発した千騎の増援だ。あれが、まずい……!…幸村の狙いは恐らく——」
「と、殿……あれは一体…」
兼続の言葉を途中で遮る形で、朝倉本陣の方向を注視していた側近の一人が、そう呟くとともに矛を取り落とした。
それにつられるようにしてそちらに向き直った、兼続ら本陣将校の目に飛び込んできたのは。
「バカな、どうして……この戦場の軍容は、全て把握していたはずだ。…どうすれば、あの数の敵軍があそこに現れるんだ……!?」
『勇』の大旗を掲げて戦場の中を爆走する、三千ほどの敵部隊。
どこからとも無く現れたその謎の敵軍は……真っ直ぐに、ある地点を目指して突き進んだ。
「まずい、奴らはまさか……かっ、兼続様!」
「ッッ、間に合わなかったか…!」
朝倉軍本陣の無防備な背面へと。
実はそれこそが、朝倉軍本陣から千騎の援軍が動いた際に、兼続が危惧したまさにその通りの動き。
複雑に入り組んだこの寺野高地、地の利のある武田軍だからこそ可能となる戦術。
手薄となった朝倉本陣への、予め仕組まれていた伏兵による急襲であった。
「義孝様、お下がりください!……騎兵二十騎で殿についていけ!なんとしても殿をお逃しするのだ!」
「クソッ、この数……何千人いるんだ!…いったいどこから現れた!」
朝倉軍本陣の背後に、突如として襲いかかった三千もの敵部隊。
奴らはどこから来て、どれだけの規模なのか。
兼続は外から見ていたからこそ理解できたそれが、現場で相対している朝倉兵たちには何一つとして分かる術がないのだ。
というよりも、分かるはずがなかった。
義孝はおろか、兼続でさえもギリギリまで予期できなかったこの奇襲。
一見単純に見えるこれは、越後側の目が完全に幸村とその周囲に向いていた、ほんの一瞬の絶妙なタイミングを見計らって行われた非常に高度なものである。
これを実行するのは、『真田十勇士』の一人に数えられる英傑。
五年前の信濃・上田城決戦でも兼続を苦しめた勇将、海野六郎率いる部隊である。
義孝とて、彼らの存在は大戦前から認知はしていた。
しかしこの海野隊は本来なら、寺野高地からはるか西に外れた防衛線を受け持っていたはずの部隊である。
それが、越後の放っていた斥候に勘づかれることなく前線地を離れ、東の要地であるこの地に現れたのだ。
混乱の極める朝倉本陣にあって、一人それに気がついた義孝は——血の気が引く思いだった。
ただでさえ、本陣守りに置いてあったはずの騎兵千騎が出払った朝倉軍本陣。
万が一にでも敵の攻撃に晒されれば、そこには主君である朝倉義孝を守り切るだけの戦力など残ってはいない。
今すぐ精兵千騎を呼び戻すには、もう刻がない。
もしそれが叶ったとして、彼らと潰しあっている例の大男、三好伊三とその部隊がついてきてしまったなら。
この本陣は、本当にひとたまりも無く握り潰されるであろう。
いや、まさか。
動かさずとも。
この状況を仕組んだ敵将・真田幸村の目論見は、まさか本当に——。
ここで、義孝の予測が悪い方に的中してしまう。
真田軍中衛とぶつかり合っていた朝倉軍の騎馬大隊、彼らを止めるべく出てきたはずの三好伊三と彼の隊が、いきなり進路を変えてこちらへと向かってきたのだ。
唯一これを足止めできる可能性のあった朝倉本陣部隊は、それまで本命となる騎馬大隊を身を呈して守っていただけに、急激なその動きについていくだけの余裕が無かったのである。
こうして、五百にも満たない朝倉軍本陣は。
前を三好伊三、後ろを海野六郎という、最悪の挟撃に見舞われることとなる。
「よっ、義孝様……あの大男の隊が……背後の敵に呼応するようにこちらへ向かってきます!」
「なっ、何をしておるのだ騎兵たちは!容易く突破されているではないか!」
将校たちが騒ぎ立てる中、その中心にいるはずの義孝は対照的であった。
彼は、その頭脳が優秀すぎるが故に。
理解してしまったのだ。
ここから自力で脱出するなど、不可能であるということを。
そして、諦めてしまった。
朝倉軍は。朝倉義孝は、ここで終わるのだと。
事実としてこの時、義孝の置かれていた状況はあまりに絶望的。
敵将である海野六郎によって練り上げられたその包囲は、たしかに内側からでは決して切り開けないほど、強固なものである。
そう、内側からは。
しかしこの、ほとんど決していた大勢に待ったをかける漢が一人。
「……ッ、抜刀術!…『三ノ月・赤月の衝』!!」
尋常ではない包囲。
今にも義孝の首に刃が届きそうなほど狭められたその外側を、無理矢理にこじ開けて侵入する桁違いの剣技。
片腕を欠いて最前線を退いた主君を想い続け、その天賦の才に驕ることなく、彼は常に研ぎ澄ましてきた。
直江の——否。軍神・上杉謙信の懐刀。
「武将が諦めるなこの馬鹿が!……矛を取れ、義孝……巻き返すぞ!!」
直江兼続である。
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