第弍部 第二十三話 上杉謙信

影虎の一撃を受けた輝虎は、その瞬間に体中の力が抜け、そのまま落下して地面を転がると。

刀を握る手に力を込めることすらもはや叶わず、深いため息を吐きながらゴロリと天井を向いて寝転がった。


深々と斬り付けられた背中、その傷口から熱が抜けていくかのような感覚に陥りながら、輝虎は、ゆっくりと闇の底へと落ちていき——。


「俺はこの5年、片時もお前のことを忘れたことはなかった。……輝虎。…逝く前に、俺の質問に答えろ」


影虎に抱き抱えられたことによって、そのまま沈んでいくはずだった彼の意識はギリギリで留められた。


「……んだよ、俺はもう眠いんだ。……早く済ませろ」


輝虎とて、もう自身の状態は察していた。

背中に受けたこの傷は、間違いなく彼の命を奪うのに足るもの。

致命傷であると。


水底にいるように耳に響く影虎の声を子守唄にしながら、輝虎の意識は着実に眠りへと向かっていく。


それでも最後の力を振り絞って、彼は弟へと向き直る。


「……なぜ今になって、俺を殺しにきた。…お前がその気になれば、正体を明かして越後を取り戻すことも容易かったはずだ」

 

その言葉に、輝虎は目を見開くと。

今度は堰を切ったように笑い出した。


今まで見せていた、歪み切った笑みではない。

まるで今この瞬間だけ幼少期の彼に戻ったかのような、どこか幼さすら感じられる笑顔。


「……フッ、いや…悪い悪い。つい分かりきったことを聞くもんだからな」


口調も、今までとは一転して爽やかで軽快なものだ。

死の淵に立ち、ようやく憎悪の念を捨て去ることができた兄の姿を見て。


胸が締め付けられる感覚を覚え、影虎は、ふっと目を逸らした。


そんな影虎の様子を見た輝虎は、澄んだ両の眼で弟の目を追うように見つめると、再び口を開いた。


「……俺は、死に場所が欲しかっただけだ。…それに、お前やジジイ……憲政様を巻き込んじまったことは、悪いと思ってる」


その言葉に、影虎はハッとして兄に向き直る。


だから輝虎は、左目の未来予知を使わなかったのだ。


最初の打ち合いから違和感はあった。

そしてその違和感は、この部屋で受けた最初の一刀で確信に変わった。


5年前は剣の技量で押し切れたが、今の2人の剣技は恐らく五分と五分。


初めから向こうが”その気”なら、そもそも二日目の上杉軍本陣でこの首は地に落とされていたはず。


愕然とする影虎の腕の中で、輝虎はどんどんとその温度を失っていく。


「……影虎。約束は覚えてるか」


懸命に動かした口から発されたその言葉は、消え入るように小さく、儚い。


「……ッ、覚えてるさ……忘れるわけがない。天下統一。…俺たちの夢だ」


「…そうか。なら、いい。……満足だ。……そうだ。なあ影虎、一つだけ……俺の頼みを聞いてくれないか」


ふっと満足気に笑った輝虎だったが、何かを思い出したかのように、外套の内側をまさぐり出す。


すると輝虎は、外套の裏側に縫い合わせられていた布の欠片を千切ると、それを輝虎の手にしっかりと握らせた。


「輝虎、これは…」


「…向こうで……伊達政宗として生きていた時に、つけられた幼名だよ。…これを、持っていってくれ。……俺が生きていた事を、お前に覚えていてもらいたいんだ」


「……分かったよ、輝虎。…この後悔を、怒りを抱きしめて……俺はどこまでも強くなる。夢を叶えられるくらい……たとえ、どんな手を使っても」


「……フッ、もう…何言ってるか……分かんねえ、よ……死に体が………」


その言葉を最後に、輝虎は事切れた。


ついに二階まで火が回り、いつ柱が崩れてきてもおかしくない大広間の中で。

瞳いっぱいに涙を溜めた影虎は、力の限り輝虎を抱きしめた。


足元まで炎が迫るのにも構うことなく。

腕の中の兄が冷たくなるまで、ずっと。



齢十八にして、その人生の5年間を異国の地にて復讐のために費やし。

壮絶な運命に翻弄されながらも、己の中の光を照り輝かせて生き続けた漢。


伊達政宗こと、長尾輝虎。


信濃・上田城決戦の五日目。

上田城城内、長尾影虎との一騎打ちの末討ち死に。




もはや中に入ることすらできないほど炎に包まれた上田城の外で、兼続ら越後兵たちは主が出てくるのを今か今かと待ち続けていた。


「……クッソ、まだなのか…いくら何でも遅すぎるぞ!」


「落ち着け兼続、この中に入ってもこんがり焼けちまうだけだ!今は待つしかねえ!」


辛抱たまらず突入しようとする兼続を5人がかりで羽交い締めにしつつ、炎に燻る城内の様子を見守っていた越後兵たちの目の前で。


立ち込める煙と豪火の中から、止血した左腕を押さえ、右肩に憲政を担いだ影虎が現れた。


「とっ、殿!よくぞご無事でした!本当に、よくぞ……!」


「輝虎様!そっ、その腕の傷はいったい……おい医療班を呼んでこい!はっ、早く手当てを!」


騒ぎ出す越後兵たちに何の言葉を返すことなく、影虎は力の抜け切った憲政の体を石畳の上へとおろした。


「て、輝虎殿……憲政様は……殿は、生きておられるのですか……」


恐る恐る口を挟んだのは、憲政の側近である一人の男。

しかしその言葉に、影虎はただ首を横に振った。


「……そっ、そんな……殿……ッ…」


「ふぐっ……うあああ…!!憲政様……!」


周囲を取り囲む上杉兵から漏れ出る嗚咽が、その場に響き渡る。

そんな空気の中、一人の白虎隊員が影虎のそばまで駆け寄って来て口を開いた。


「……主よ、こちらをお使いください。すぐに左腕の止血を」


「…傷はいい。……それよりも、状況は。各戦線の状況はどうなっている」


影虎のその言葉に、今まで部下や雄一郎によって押さえつけられていた兼続が起き上がって答える。


冷や汗の浮かんだその表情からして、恐らく……いい報せではないだろう。


「ハッ、それが……マズいことになりました」




二人の双子の一騎打ちに、5年ぶりの決着がつこうとしていたその時。


信濃国の西端、二日目の終わりから正規軍が展開している上杉軍右翼でも、異変が起こっていた。


もう侵攻してくることはないだろうと考えられていた織田軍が、大挙して再侵攻を開始したのである。


中央軍の防衛線もズタボロになり、左翼が挟撃を受けるのも時間の問題かと思われていたこの窮地にまさかの凶報。


7割ほどが武田軍を止めるために内地へと戻っていた西側防衛線に、もはやそれを止め得るだけの戦力は残っておらず。


これにより、上杉軍右翼は総崩れとなった。


そして同盟軍左翼を率いる織田信長は、すぐさま中央軍の戦場へと一万の援軍を送り。


一挙にその流れへと飲み込まれる形で、中央軍も敗走を余儀なくされた。


そしてそれはつまり、信濃を護るために心血を捧げてきた上杉軍の”敗北”を意味する。


しかしここで現場の将たちは、本営からの——彼らの主人である上杉憲政からの指示を待った。


降伏か、徹底抗戦か。


当然最後の一兵まで戦い抜き、一人でも多くの敵を道連れにしようと覚悟を決めていた彼らの元に、本営から届いたのは。


“全兵上野国へと撤退”の報せであった。


そしてその報せを聞いた全ての将は、全員その場で涙を流した。


上杉軍に長く使えてきた彼らは知っているのである。

血の気が多い上杉軍本営からなんの説明もなくその指示が出されるのは、ただ一つの出来事が起こった時のみ。


憲政が戦死した時である。


そして、そこからの上杉軍の動きは早かった。

彼らはすぐさましんがりを務める部隊を決めると、全軍での大規模な撤退を開始したのだ。


避難民がいるにもかかわらず、その速度と洗練された逃げ足は、追っている同盟軍が目を疑うほどの速さであった。


しかしこれにより、左翼も含めた各戦線がそれぞれ崩壊。


信濃国は、三国同盟の前に陥落した。




その大きな退却の流れの中には当然、影虎ら越後軍も含まれていた。


この五日間各所で奮戦した彼らは、そこで流した血が、仲間の犠牲が無に帰してしまったことを受け止めきれず、ただただ呆然と越後への帰途についていた。


するとその先頭で集団を率いていた影虎のもとへと、一人の騎馬が追いついてきた。


直江兼続である。


しばらくの間、二人の間に言葉は無かった。


しかしその不思議な静寂は、この男によって破られる。


「……あいつは、最後に俺に名前を残して逝ったよ。兼続」


突然口を開いた影虎に驚きつつも、兼続はすぐにそれに答える。


「…あいつ、って……誰のことですか?輝虎さ——」


「もうその名で呼ぶな、兼続。……これから俺は、憲政様の跡を継いで関東管領に就かなければならないからな」


自身の言葉を遮って放たれたその衝撃の一言に、兼続は馬上からひっくり返りそうになるのを堪えて言う。


「ええっ……そ、それじゃあ……これから本国に帰って、名前を考えるんですね」


瞳に暗い炎を灯した彼は、その言葉にフッと笑みを浮かべると。

懐から古びれた布の欠片を取り出して、応えた。



「……上杉、上杉謙信。誰よりも誇り高き男の名前だ。…俺はこの名と共に……天下を目指すぞ」



あっちでよく見ていろ、輝虎。


全部だ。


全部、俺がこの手に収めてやる。


民も、土地も、法も。



お前を壊したこの世界を、俺がこの手で壊す。





第弍部「輝る日、堕ちる影」編



























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