第弍部 第五話 怪物・信長の一刀

武田軍がまだ、八ヶ岳の防衛線に足止めされていた頃。


信濃領の西側、最も外敵への警戒が薄かったその部分を縫うようにして、15000ほどの軍団が信濃領内に侵入した。


彼らが掲げるは菊の紋。

三国同盟の一角、織田氏率いる尾張の正規軍である。


甲斐の武田軍55000に対してその数は比較的少なく見えるものの、他の二軍に比べて障害となる城や中規模都市が少ない西側を進むには、15000という数はうってつけである。


接敵がなかったおかげか、ほとんど足を止めることなく走り続けた織田軍はすでに、信濃の本拠地である上田城まで馬の足で一日たらずの位置まで歩を進めていた。


「こうなればもはや、上田城は殿の前に落ちたも同然。この戦の第一功は、我らが織田軍となりそうですね」

「おお、全くその通り!…そういえば、此度の三国同盟の盟主は武田信玄公なのですか、殿」


織田軍後方、本陣に控える将校たちの会話である。

殿と呼ばれた、後ろに束ねた髪を靡かせている青年が口を開く。


「ちげえよ、盟主はもう一国の方だ。…まさかあんな条件で信濃に喧嘩ふっかける国がこの日の本にあるなんて、思いもしなかったけどな」


あんな条件。

織田家に古くから仕える側近らにも知らされていない、この戦争の目的。

そして勝利後の、利益の取り分のことだ。


「武田ではなく、あの国が盟主を……ではやはり、ついに関東圏進出を目論んでのことでしょうか」


その言葉に青年はフッと笑うと、何か滑稽なものでも見たような顔で、嘲るように言う。


「ただ上杉憲政の首が欲しいんだと。……まったく、どう歪んだらあんな目になれるんだろうな」




「敵襲、敵襲ーーッ!!敵は騎馬隊、北西の方角からまっすぐこちらへ向かってきます!数は4000ほどで、もう距離はほとんどないと!」


前方から大急ぎで馬を走らせてきた物見の報告に、緩んでいた軍内に再び緊張が走る。


「し、しかしこちらの方が四倍近くも多いぞ。殿、すぐに蹴散らして先を急ぎましょう!」


臣下たちの言葉はもっともだが、男の脳裏には強い違和感が残る。


「…待て。俺たち以外の二軍だけでも12万はいるはずだぞ。そんな中で俺たちの侵入を察知し、しかも貴重な戦力である騎馬隊を割くか…?」

「それでは、さらに第三勢力の介入があるということですか!?」


その言葉に頷きながら、矛と刀を鞍から取り出した青年は臣下たちに言う。


「その可能性が高いな。……おい、『雷鬼』を呼べ。俺が出る」

「な、殿自らですか!?…それに雷鬼とは、殿の私兵団ではないですか!つまり、相手はそれほどだと…」

「他国から出発して俺たちに追いつくのであれば、ただの騎馬隊じゃない。…そういう相手を討ってこそ、名が売れるってもんだ。これから天下を統べる漢……織田信長の名がな!」




「なあ義銘、織田軍って強いのか?尾張なんて聞いたこともないぞ」

「俺も聞いたことがない。しかしそんな相手だからこそ油断は禁物だ。……と、父上が言っていた」

「お前は本当に父親が好きだよなあ。…お、見えてきたぞ。じゃあ俺戻るから、序盤にあっさり死ぬなよー」

「なぜお前はそんなに縁起でもないことを言うんだ!…お前こそ、今日はこの三ヶ月の練兵の成果を見せるときだぞ!真面目にやれよ!」


あ、あまりにも不安だ……!


自分の言葉には何も返さず、ふらふらと手を振りながら自分の部隊へと戻っていく友の背中を見ながら、義銘はキリキリと胃を痛めた。


開戦からはやくも十数時間が経過し。

そしてついに、織田軍本隊と義銘ら騎馬隊は平原地帯で相見える。


ドガラと蹄の音を立てながら、信長が隊列を離れて一人前に出た。

そんな奇妙な状況ながらも顔色ひとつ変えない織田軍に対し、一方で越後側からはざわめきが起こる。


「俺が織田軍総大将、尾張国主の織田信長だ。お前たちは信濃の兵じゃねえな。隊長、腰抜けでないなら俺の前に出てきて名を名乗れ」


その言葉を聞いた義銘だったが、当然前に出るわけがない。

そんな安い挑発に誰が乗るものか。


「ちょ、かね……え、ええ!?隊長なんで出てっちゃうの!」


真横の友軍から悲鳴のような声が上がる。

いやいやまさか、そんなことあるはずが……恐る恐る、目線だけ横に向けてみると。


すぐ隣に馬を並べていた友が、なんと前に出て行ってしまったのだ。


こうなっては、義銘も前に出る他ない。


自らの隊、赤龍隊にいつでも飛び出せるように指示を残しつつ、少し出遅れながら義銘も前に出た。


品定めするような目つきでこちらを見てくる、信長と名乗った男。 

強いのか弱いのか、よく分からない気配。


なるほど、今まで出会ったことがない類の将だ。


「……越後の将、赤龍騎馬隊の北畠義銘だ」

「へえ、北畠…なるほどねえ。あの北畠義道の倅ってわけか。どうりで強そうだ……それで、そっちは」


信長は、義銘の隣に立つ男へ視線を移す。

おそらくつい最近仕立てたのだろう、味のある銀色に光る鎧の胸には、こちらを睨みつける狼の顔が彫刻されている。


そして右手の小手には、「愛」の一文字。


間違いなく、只者ではない。

越後といえば最近朝倉の越前を破って名が広まった小国だが、まさかそんな国に、北畠義道以外にもこんな奴がいたとは。


「同じく越後の将が一人。精鋭騎馬隊『黒狼』の直江兼続だ」

「……自分で精鋭って言うか?ふつーよお」


自信に満ちた兼続の声に呼応するように、黒狼隊の軍旗がバタタタっと風に揺れる。黒を基調とした旗の中心には、「狼」の一文字が銀色に輝く。

前身である直江親衛隊に新戦力1500を加えた、総勢2000の騎馬隊。

兼続の新しい手足、直下兵団「黒狼」である。

越前との大戦が終わってからの三ヶ月間のあいだに、兼続たちは大きく成長していた。

なにより大きいのは、もともとの直江親衛隊500と新たに加わった元白虎隊の1000、さらに中央から派遣された精鋭騎兵500の戦術的な定着。

今までと比べてもより大胆で、より迅速に大規模な作戦を展開できるようになったのだ。

そんな彼らに、輝虎が直々につけた名前が黒狼という名前だ。


そしてそんな兼続の黒狼隊は、同世代の義銘を隊長に持ちながら同規模の軍容を持つ赤龍隊と共に、一ヶ月半ほど練兵に明け暮れる日々を過ごし。

二隊は、詳細な打ち合わせが無くとも精密な連携が取れるほどにまでになったのだった。 


そして今日が、そんな二隊の三ヶ月ぶりの実戦である。

「なあ義銘、ここは譲ってくれないか」

その兼続の言葉に、義銘はそう来ることは分かっていたという具合に大きなため息をついた。

「…仕方ない、承った。それに、それができるようにこの三ヶ月間があったんだからな。そのかわり死ぬなよ」

「誰に言ってんだよバーカ。……おっと悪い、待たせたな」

「ふっ……いいぜそんなもん。俺は強いやつと戦えれば、それでいいしな」

どちらからともなく、兼続と信長、両者間の距離は徐々に縮まっていく。

そしてついに、お互いの馬どうしの頭がぶつかりそうになるほどまで接近したところで、二人は同時に馬の足を止めた。

「…っし、存分に殺し会おうぜえ!直江か——」


「悪く思うなよ、時間がないんだ」


これから、大将どうしの壮絶な打ち合いが始まる。

そんな場の空気をぶち壊すように、一瞬にして振り切られる刀。

それは、必殺で知られる兼続の抜刀術だった。


不意打ちだとか、卑怯だとか。

そんな言葉など彼の辞書にはないかのように、至近距離から繰り出された容赦のない「月光 」。


だがしかし。

刀から伝わる感触がおかしいことに気づいた兼続は、今しがた斬ったはずの信長に向き直る。


悪い予感は、的中していた。

こちらが気づいた時にはもうすでに、振り下ろしのモーションに入っている信長。


どうして、月光を喰らって生きている。


その思考を一度投げ捨てると、この体勢から交わすことは不可能と判断した兼続は瞬時に刀による防御に思考を切り替えた。

兼続のその判断は、概ね正しかったと言える。


ただし、相手が織田信長でなかったなら。


「で、俺が何を悪く思うって!?」

防御はしたはずなのに。眼前で砕け散る愛刀。

兼続は理解した。

この男の前には、技巧も駆け引きも関係ない。あるのはもっと単純な、そして最も厄介な———。


「……兼続ッッ!!!」

遠くで、義銘の声が聞こえる。


しかし時すでに遅く。信長の一刀が、兼続の胴体を袈裟に大きく斬り裂いた。

鎧の隙間から夥しい量の血液を垂れ流し、崩れ落ちる兼続。


そのあまりの圧勝劇に、敵味方のどちらも声すら発せないただならぬ空気の中。

彼の名を呼ぶ義銘の叫び声が、幾度も静寂の中に再び響き渡るも。


馬上に倒れ伏した兼続には、もう何一つ。

光すらも、届いてはいなかった。

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