第壱部 第六話 二つの大局

やっと空が色を帯びてきたころ、直江兼続は足元の悪い密林の中で馬を引いていた。


すると、兼続から少し離れた前方を同じく馬を引きながら歩いていた橋本雄一郎が、後ろに振り返りながら声を上げる。


「すぐ前に崖だ!2時の方向に坂になってる場所があるから、そこから降りるぞ!」

「全員聞こえたか、前方に崖があるから各隊まとまって俺たちについてこい!…っと危ねえ」


足元に迫り出していた木の根に足を取られる。馬の手綱がなければ顔から突っ込むところだった。


松明を焚きながら、夜の森をひたすら馬で駆けてきたのだ。

年齢の割には戦の経験豊富な兼続といえど、体力の限界である。

そんな様子を見かねたのか、すぐ横を騎馬しながら通り過ぎる男たちがこちらに声をかけてきた。


「こんな所でへばっているようではまだまだだな、直江の坊主!」

「剣の腕だけじゃなく体力もつけないと、俺らの主人としては認められねえなあ」


元気そうにちょっかいをかけてくる彼らが身に纏っている鎧は、兼続や雄一郎ら親衛隊の物ではない。


肩や腰、兜などさまざまな場所に施された銀装飾と、胴部分に彫り込まれた虎の文字。

輝虎から与えられた白虎隊1000、それも結成当初からの古参ばかりを集めた精鋭中の精鋭である。


そう。借りたのではなく与えられた、だ。


これは事実上、兼続が輝虎から見て1000人単位の部隊の頭として足る存在だと公式に認めたということである。もともと兼続の私兵団として率いていた直江親衛隊250と合わせれば、その数は1250人。そこまで領土が広くない越後軍内では、結構な大所帯の隊長となったわけである。


しかし配下に加わったとはいえど、彼らが先代国主の為景の時代から、対越中の前線を荒らし回った精兵たちであることに変わりはない。


果たしてお前は、輝虎様の元を離れてでも仕えるに値する男か。


彼らの不遜な態度が、言外にそう問うのだ。


「お前ら、いつか泣かせてやるからな…!」

「おーその意気だ、やってみろよガキンチョ」


既に地団駄を踏みそうなほど悔しがっている兼続に、容赦なく降り注ぐ大人たちからの煽り。


…この部隊ほんとに大丈夫かなあ。


一連のやり取りを全て聞いていた、これから副長を務めることになる橋本雄一郎は静かに胃を痛めた。


1000人単位とは言っても1000人が一斉に動くわけではなく、現在兼続たちを含めて動いているのは200人ほど。残りの隊員のほとんどは、森の中で食料代わりに動植物を漁ったり周囲の警戒にあたったりと様々だ。


しかしここで、二隊の間に存在する実力の差が浮き彫りになる。


直江親衛隊の中には一時の仮眠を取る者が出始めたのに対し、元白虎隊の隊員の中で眠気を訴える者は一人としていない。


理由は明白で、なんといっても基礎体力、戦場での経験値の差がありすぎるのだ。

彼らにとっては夜通し活動することなどいつものこと。感覚が壊れていると言ってしまえばそれまでだが、いずれにしても凄まじい体力だ。

これから兼続は彼らの新しい長としてこの生粋の戦馬鹿たちに、自身が輝虎を超え有る人物であると証明しなければならないのだ。


鳥の鳴き声もにわかに響き始め、朝の森を眠気に耐えながら負けじと歩を進める兼続の目に、ある物が飛び込んできた。

咄嗟に後ろへ合図し、敵の哨戒に注意するよう呼びかける。


眼前に悠然と聳え立つのは、険しい山の中に居を構える巨大な山城。


あれが、この部隊の作戦目標の一つ。

朝倉の本拠地である一条谷城に続く3つの山岳地帯、その一帯を束ねる朝倉五将の一人、朝倉時景が治める賀岳城である。


その堅牢さは天下に存在する様々な城の中でも指折りであり、この数年間に他国が賀岳城を攻略すべく幾度も大群を送り込んでは、その度に甚大な被害を受けて逃げ帰るのみ。

攻略の糸口すら掴めなかったことで知られる、難攻不落の巨城。


だれが呼んだか、”人呑みの深山”。


しかしここを抜ければ、馬の足なら一日足らずで朝倉の本拠地、一条谷に着く。

兼続はフラつく足取りで馬に跨ると、グビッと水を煽りながら息も絶え絶えに言う。


「雄一郎…すぐに、準備させろ。…このまま奇襲を仕掛ける」

「…おい待て待て兼続、お前もだいぶフラフラだし俺たちも限界だ。馬も疲れ切ってる。一旦休んだほうがいい」


図星を突かれ、兼続は思わず唸り声をあげた。

雄一郎の声に反応すらできない。喉に鉛でも詰められたかのようだ。目が霞む。

兼続とて、今自分が気力だけで動けている状態だというのはよく分かっている。

しかし、それだけ急ぐ理由が彼にはある。


「輝虎様の頼みなんだ……早く、落とさないと…」

「…だよな、でもとにかく休め。あんな頑丈そうな城落とすには、まずはお前が万全じゃなきゃな」


親衛隊の副長であり親友の頼みだ。兼続はしぶしぶ木陰に入って腰を下ろすと、瞬く間に深い眠りに落ちていった。 

それを見届けてから、雄一郎は改めて山城に向き直った。通常の山城といえば山の構造を利用して所々に城壁や罠を散りばめておくものだが、これは全体がぐるりと30尺超ほどの城壁で囲われている。


ここからでは視認できないが、おそらく城壁に近づけば近づくほど罠も増えてくるだろう。


「越後に行った朝倉本隊に大半の兵が付いていったとは言え、まだまだ城壁守りが6000はいそうだな」

「それに敵将は越前きっての知略の将と来たもんだ。…これを本当に、2日で落とせんのかよ」


斜面から転がる岩になす術なく押し潰される図が容易に想像され、雄一郎は長いため息とともに天を仰いだ。



この時点で、国境が破られたと同時に越後を出発してから既に丸一日が経過している。

越後の方も、今ごろ一日目が始まる頃だろう。

森に入って数時間。入る前に大まかな位置を確認し、そのタイミングで輝虎に向けて出した早馬が向こうに着くのは、おそらく日没になるだろうか。


「頼んますよ、輝虎様。……今日、明日であっさり負けるなんてことは無しですからね」



越後領内で行われている越後軍と朝倉軍の戦いは、既に2日目に突入していた。

依然として中央軍でぶつかりはするものの、朝倉側に初日ほどの勢いはない。初日に将の一人である宗正と、今回のような山地を舞台とする戦いにおいて主力となる歩兵団をかなりの数失ったことが、孝景の判断から思い切りを奪っていた。


しかしここですごすごと引き下がるような男なら、彼は越中までもを含む大領土の支配者にはなっていない。


中央からは攻めあぐねると分かるや否や、孝景は残る三将に号令を出した。


「……損害は気にするな。好きに動け」


それは至ってシンプルな、ともすれば思考放棄のような言葉だったが。


彼らは知っている。こうなった自分たちは手強いと。


事実、輝虎はこの戦いの三日目にそれを身をもって味わうこととなる。



「朝倉の奴ら、昨日に比べてだいぶ勢いも無くなってるぞ。もしかしたらこのまま勝っちまうんじゃねえか」

「それなら楽でいいよなあ。たく、前線の部隊は武功立てまくって大儲けだろうな……羨ましい限りだぜ」


人目も憚らずそうぼやくのは、2日目になって余裕ができた中央後衛から、警戒のために左右の山地に配置された予備隊たちだ。

しかし陽が頂天から少しずつ傾き始めても蹄の音一つ聞こえず、暇を極めた彼らはこのように雑談に花を咲かせている。


敵を殺したこともない予備兵たちにとっては、こんな後方での仕事など退屈で仕方がない。


しかし、平穏とは。

壊されて初めてその貴重さを知るものである。


「こんにちは」


いきなり背後から掛けられる、若い男のものらしき声。と同時に、腰に走るドンッという衝撃。

体を支えられなくなって前に倒れてしまう。


「お、おいアンタ何すんだよ!…あれ茂吉、なんでお前まで倒れてんだよ」


先程まで正面に立って話していた友人が、喉を抑えて苦しそうにのたうち回るのが見えた。


ヒューっ、ヒューっと苦しそうに呼吸するたびに、抑えた手のひらからドクドクと滝のような血が溢れ出る。

助けようと体を起こそうとするも、どういう訳か腰から下に力が入らない。

不思議に思って腰の方を見ると、そこに見えるのは真っ赤に濡れた地面。腰があると思っていた場所には、鎧に包まれた人間の下半身がぶよぶよとした断面をこちらに向けて落ちていた。


「えれ……あ、あれえ…おれのあし…」 


その言葉を最後に、男は息絶えた。

2人を殺したのは、山賊のような格好をした二人組の若い男。1人は転がっている死体の上半身をゲシゲシと足蹴にしながら、子供のように目を輝かせて言う。


「兄者、今の死に方見た!?すげえよ、下半身ないの気づいてないとか初めてだ!」

「痛みを感じさせないほど鮮やかな切り口。…また腕を上げたな弟よ」

「兄者も、あの一瞬で喉を掻き切るなんてカッコ良すぎるって!」

「しかしお前が殺したいと言うから寄り道したが……あの鉄砲馬鹿よりも早く首級を挙げねば、殿に示しが付かんぞ。我が弟、二郎平よ」

「分かってるって。……朝倉の将として仕事はするからさ!頑張ろうぜ、一郎平の兄者!」

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