男と彼女

夢星 一

閉所安堵症

 仕事から帰った男を出迎えたのは、スーツケースだった。


 いつもはクローゼットの中に仕舞われているはずのスーツケースが、ポツンと居場所を追い出されて恨めしそうに廊下に出ている。旅行の予定はなかった。

 キッチンを覗くと、蓋のされたフライパンが、火の止まったコンロの上に乗っている。ふたを開けると、薄ピンクの水の中に、桃が沈んでいた。


 普段なら、おかえりと優しい声がするはずなのだが、今日は静かだ。


 冷蔵庫に買ってきたものを入れた後、ネクタイをほどきながら、男はチラと奥の部屋を見て、先に手を洗いに行った。

 最初の頃こそ、自分のいない間にどこかに行ってしまったのかと怯え、半狂乱になりかけたりしながら、部屋の中をぐるぐると歩き回っていたのだが、今ではもう理解している。

 彼女はどこにも行っていないし、この家にいる。そして男が探しに来るのを、笑いながら待っているのだ。


 ほどいたネクタイをソファに放り投げてから、男は奥の部屋に入った。ドアが開く音の直後、身じろぐような音が右側から聞こえた。



 男は息を吸って、部屋を入ってすぐ右側に見えるクローゼットに向き合った。この部屋のクローゼットは二つに分かれており、片方はそれなりの広さを持っているのだが、その隣のクローゼットはとても小さい。ロングコートなどをかけるのにピッタリだと、ハンガー掛けがついている。実際、普段はコート類をかけ、残った下の隙間に、あのスーツケースを入れいている。

 

 だから、あのスーツケースがあるはずのスペースに、別の誰かがいるということだ。

 取っ手に手をかけ、焦らすように小さく揺らすと、笑い声が中から洩れた。つられて笑いながら、クローゼットを開けると、やっぱりそこに彼女はいた。


「ただいま」

「おかえり」



 狭い空間で、シーツを巻き付けて、頭の上からシスターみたいに被って、ニコニコと笑っていた。

 床に投げ出された手にはスマホが握られ、イヤホンジャックから伸びたイヤホンは彼女の耳に繋がっていた。何か音楽でも聴いていたのだろう。彼女はイヤホンを片耳外した。



「毎回見つけるの早くなってるね」

「そりゃあね。スーツケースが恨めしそうに置かれていたから」

「なるほど」


 クスリと笑って、彼女は顔を上げた。コートの裾や、ワンピースの裾のレースが彼女の顔にかかり、擽ったそうにしている。頬を撫でられているような気持ちになるのだと、彼女は以前言った。


「入る?」

「狭くて無理だよ」

「頑張ればきっと」

「きついって」


 彼女のいるスペースは、とても狭い。細身の彼女がピッタリ収まるような横幅しかなく、両手のひらを壁に当てようとしても、そのために必要な、わずかな腕の伸びすらままならない。

 そんな狭い空間が、彼女は大好きで、よくその中に入っては考えに沈むのだ。彼女のための狭い空間で、好きな音楽を聴いて、シーツにくるまって、コートの裾に頬を撫でられながら、男を待つ。

 

「狭いところが好きだね」

「安心するでしょ」

「閉所安堵症だ」

「新しい言葉」

「君といるとなぜか浮かんでくるんだよ」


 満足そうに笑った彼女が手を伸ばすので、男はその手をつかんだ。


「キッチンにあったあれは何?」

「桃のコンポート」

「いいね」

「ヨーグルトに入れて、明日の朝ごはんにしようと思うの」

「豪華だ」


 頭からかぶっていたシーツがずり落ちたので、男はそれを彼女の頭にかけなおした。

 顔を覗き込むと、彼女は小首をかしげて男を見上げた。


「今何考えてる?」

「結婚式のベールみたいだな、って」

「他には?」

「君の目が好きだな、って思って」

「あはは」


 面白そうな声で笑い、彼女はシーツを男の頭に向けて投げた。男の視界が真っ白になる。


「あ、これあのシーツか」

「死人ごっこのね」

「……一人葬式はやだよ」

「私もいや」


 男はシーツを畳んで、小脇に抱えた。


「あ、そうそう。プリン買ってきたよ」

「固いの? それともゼラチンの?」

「両方」

「さっすが! 半分こね。私も固い方ちょっと欲しい」

「それでいつも一口食べて、ゼラチンの方が良いって言うのにね」

「いいじゃん」


 プリンを食べる時のお決まりの会話をして、声を抑えながら笑い合う。プリンが待ち遠しいのか、裸足の足跡をかすかに鳴らしながら、先に進む彼女の背を、男は見送った。



 ふと、彼女のいた小さなスペースを見る。

 40センチちょっとしかない横幅に、1メートルもない奥行き。ここが彼女の安置所。


 

——1人でいるのは寂しい。でも広い空間で1人でいるのはもっと寂しい。


——だから狭い所に入る。そうすると、1人でいる事に理由がつくから。



 数少ない、彼女の弱音の言葉を思い出している男の耳に、堪えきれない笑いを含んだ彼女の声が入った。




「ねえ、プリン間違って冷凍庫に入ってるよ」

「それはまずい」


  男は我に返って、キッチンへと小走りで向かった。



 


 

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