8-3:「ありがとう。お兄ちゃん」

 なぜ、星凪がそんな言葉を口にしたのか。


 すべてを言葉にせずとも、丈士にはわかっていた。


 星凪は、丈士の命を救うために、最初から用意されていた、そして、今でも唯一の解決策を選ぶつもりなのだ。


 星凪はごく普通の女の子に過ぎなかったが、そんな選択をしても、不思議なことはない。

 なぜなら、星凪は3年前のあの日、二枝川の祟(たた)り神に水底(みなそこ)へと引きずり込まれながら、丈士が星凪を救うためにのばした手を、取らなかったのだ。


 丈士は、星凪を失ったショックのあまりその時の記憶を長い間忘却していたが、今ではその時の光景を鮮明に思い出すことができる。

 祟(たた)り神を倒し、因縁を清算した今でも、それは変わらない。


 星凪は、丈士がのばした手に、自身から手をのばせば、届いたはずだった。

 だが、そうしなかった。

 星凪は、丈士に向かってのばしかけた手を自ら引いた。


 自分が丈士の手をとれば、丈士まで祟(たた)り神の餌食(えじき)となってしまう。

 息ができず、苦しみながら、薄れていく意識の中でそのことを理解した星凪は、自身だけが犠牲となり、丈士を生かすことを選んだ。


 その時、星凪は、微笑んでいた。


 丈士が、その、星凪の死の瞬間を忘却していたのは、その、星凪の微笑んだ表情を目にしたからだ。


 それを思い出すたびに、星凪を救うことができなかった自分が、あまりにも不甲斐なくて。

 星凪が自分へ示してくれた思いやりの気持ちが、あまりにも苦しくて。

 丈士は、その過去と向き合うことができなかった。


「お兄ちゃん。……長生き、してね」


 星凪の唇(くちびる)は、もはや声として送り出すべき空気も肺に残っていない状態で、丈士に向かってそう言葉をつむいでいた。

 それは、丈士の人生ができるだけ長く、幸せに満ちたものであるようにという、星凪の最期の祈りだった。


 丈士が、星凪に確かめたわけではない。

 だが、丈士には、星凪がそう言った、あるいは、それと同じようなことを言ったという確信があった。


 そして、星凪は、今、あの時と同じことをしようとしている。


 自身だけが犠牲となり、消え去って、丈士を生かそうとしているのだ。


「そんなの……っ、ダメ、だ……っ! 」


 言わなければならない。

 なんとしてでも、言わなければならない。


 今、言わなければ、伝えなければ、丈士は、星凪に永遠にこの思いを伝えることはできないのだから。


「絶対……! 絶対、に……っ、方法は、あるっ! 満月……さん、だって、ゆかりちゃん……だって、治正さん……と、ハク、さんも! 力に、なってくれ……る! 」


 だから、諦(あきら)めてはダメなのだ。


 丈士はそう言おうとして、できなかった。

 無理にしゃべったせいで咳き込んでしまったからだ。


「……ありがとう。お兄ちゃん」


 むせている丈士のことを、悲しさと、切なさと、愛(いつく)しみのまなざしで見つめていた星凪は、やがて、静かにそう言った。


「いつもあたしのわがままにつきあってくれて、ありがとう。お兄ちゃん」


 それは、感謝という形をとった、別れの言葉だった。


「あたしのことを大切にしてくれて、ありがとう。お兄ちゃん」


 その言葉を、丈士は、悔しさと、憤(いきどお)りとが入り混じった、歪(ゆが)んだ表情で聞いていた。


 これでは、前と同じじゃないか!

 3年前のあの日、星凪が命を失ったその時と同じだ!


 自分は、星凪の犠牲によって、また、生かされようとしている!


「あたしのために必死になってくれて、ありがとう。お兄ちゃん」


 双眸(そうぼう)から涙をこぼしながら、右腕でそれを隠した丈士のことを、星凪はどこか満ち足りたような顔で、微笑みながら見つめている。


 自分と、丈士との間に存在した絆(きずな)。

 星凪の魂を、幽霊として、現世にとどめてしまうほどの強い絆(きずな)


 目に見えないそれが、確かにここに存在し、そして、途切れることがないと知って、星凪は喜んでいた。


 たとえ、自分が永遠の旅に出て、戻れないのだとしても、丈士と星凪の間にある絆(きずな)が消え去ることはない。

 それを知って、星凪は心の底から安心していた。


 丈士は、星凪に、考え直せと言いたかった。

 だが、今の丈士には、星凪を翻意(ほんい)させられるような言葉が思いつかない。


 何か月もかけて、結局、丈士は唯一以外の解決策を見出すことはできなかった。

 いろいろ理由はあっても、今となっては、それはただの言い訳にしかならない。


 丈士には、なにもできなかったのだ。

 あの時も、今も。


 そして丈士は、まともに言葉を伝えることもできないほどに衰弱しきっている。

 こんな状態では、星凪になにを言っても説得力などない。

 星凪は、丈士を救うために、最後の旅に出るという決意を変えることはない。


「あたしの兄ちゃんになってくれて、ありがとう。お兄ちゃん」


 星凪は、最後にそう言うと、満足そうに、嬉しそうに微笑んで、その双眸(そうぼう)から涙をこぼした。

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