第二十九話 まがい物の矜恃(一)
「馬鹿な!」
砕け散る黒い樹木の塔の下、咄嗟に飛び出した言葉を止めることができなかった。
天を貫いていた黒結晶の木が、青白く光る亀裂を走らせた後、跡形もなく粉々に砕けて散っていた。
これでは。このままでは、大虚が食らいつくことなんて望みようがない。
印を切った。
手ごたえがなかった。先ほどまで、たしかに自身の呼びかけに応じていた黒結晶の魂魄が、何一つ反応を示さなかった。
正確には、拒否。たしかにそこにある気配の中、何一つ自身へ返ってこない。何の反応もないことが、無視よりも強い確かな意思を感じさせていた。
なぜだ。なぜこのようなことが起こった。
だが先ほどの、すべてを貫くような強烈な虹色の光。あれは——
収束した光の中、宙に浮くものが見えた。
膨れ上がった真っ白な狐に、見知った人間がまたがっているのが見えた。
真っ白の髪。契約を結んだ証。
「
「乗れ」
鈍く虹色に光る昴宿が、
目の前にある真っ白な昴宿の頭が、すでに明星の体と同じほどの大きさになっていた。耳と尾の、それぞれの特徴的な形に気が付かなければ、もはや大型の白狼といっても差しつかえのない大きさだった。
明星が、昴宿の背を見たまま、しばらく固まっていた。
「どうした?」
自分に向く明星の視線に気が付いた望天が、声を上げた。
「髪が」
明星の言葉に、望天が髪をつまんだ。数本、とかすように指で抜いた髪の毛を、顔の前に広げてまじまじと見た。
明らかに、望天の顔が嫌そうな表情に変わった。
「なんか一気に老けた気分だな」
「元からだろ」
「やめろ」
明星の軽口に、反射的に望天が真剣な調子で答えた。
「この年になると気になるんだよ」
望天を無視した明星が、自身の右手を見ていた。
手のひらの上、人の頭ほどの黒結晶が、青白い炎を放ちながら浮いていた。
「なあ。これはどうしたらいい?」
「それはもう、お前のものだ」
望天が、静かに口を開いた。
「お前が持つべきだ」
明星が、再度黒結晶を見た。
浮いたまま、滑らかに光を反射していた。その奥で、ちらつくように青白い炎が静かに燃えていた。
「その黒結晶は、お前と根底の部分でつながってる。お前が持ちやすいよう、好きなように念じればいい。思った通りの形になるだろう」
「明星」
不意に、下から声がした。
昴宿が、頭を下げたまま、明星を見上げるように声を出していた。
「お前はもう、お前の左手に持つ天狐の骨、その本来の力を引き出すことはできない。理由はわかるな?」
明星が、無言でうなずいた。
「お前の中に、いるんだな」
「ああ」
明星が、決意したかのように一気に左手を黒結晶の中へ突っ込んだ。
吸い込まれるように、何一つ抵抗もないまま左手が黒結晶の中へ溶けた。
熱した飴のようだった。まるで最初から、柔らかいものでできていたかのように、一瞬でその形をぐにゃりと変えた。突っ込んだこぶしに吸い付くように黒いものが纏った後、端々が一瞬で水平に広がった。
左手の中に、真っ黒な、青白い光を内から放つ一本の弓ができていた。
「へぇ」
望天から、面白いものを見るかのような声が出た。
「弓にしたのか」
明星が気恥ずかしそうに視線を外した。
「これが一番しっくりくるんだよ」
明星が、弓を手にしたまま、目の前で頭を下げていた昴宿の耳をつかんだ。地面を蹴り、体を反転させながら飛び乗るように昴宿の首にまたがった。
ゆっくりと昴宿が首を上げた。
「準備はいいか」
視線の先、遠く。天まで生えていた黒い樹木が砕けて消えた。
十二年前、都へ落とした大虚の成れの果て。それがあのような形になり、黒結晶へ戻ったかと思うと、さらに別の形に変えている。
黒結晶を左手にまとう小さな生き物――
見間違えようがなかった。
照明弾に照らされた大虚の上、全身を、白い法衣で包んだ何かが立っていた。
異様な法衣だった。頭上からかぶされた、連結した一枚の布を巻くような法衣だった。その異様な法衣よりもさらに際立った異様さが、顔を覆う一枚の真っ白な布だった。表情を読むことも、何もできなかった。
小さく、近くで術が発動する気配がした。
大虚の上に立つ白い法衣の者の横、宙に、人の手を広げたほどの青白い環ができた。
水平に広がった環の中から、何かが滑り落ちるように、大虚の上へぬるりと現れた。
顔を布で覆った、桃色の法衣を着た身長の高い女だった。
「
「どういうことなんです?」
大虚の上で、桃色の法衣を着た女がにらむように遠くを見ていた。
「あなたの魂魄が解放されたのを感じてきてみれば、とんでもないことになってますね」
「ああ」
白い法衣の者が、ゆっくりと腕を上げ、遠くを指さした。
「まずいことになった。鍵となる黒結晶、まさかこういう形で奪われるとは思わなんだ」
指し示す指の先、砕け散った広場の石畳の上に、鈍く虹色に光を放つ白い大きな獣。
そしてその上に乗る、左手に黒結晶を纏った草木妖の若木。
「あの天狐、先日私の複製体を砕いたものです」
「そのようだな」
「まさか、あの子供が草木妖だとは思いもしませんでした」
「あのように生れ出たものを初めて見た」
白い法衣の者が、手から一本の杖を生やした。
ゆっくりと、前のめりに倒れ込むように体を杖に預けた。
「我々となるべきものを、肉の壁に閉じ込め人となしている。本来なるべき存在を否定し人の真似事をさせるなど、到底容認できるものではない」
桃色の法衣の者が、眼下を覗き込むよう、大虚の上で足を進めた。
「どうしますか。あの黒結晶が無ければ、我々の計画はここで終わってしまう」
「こうなった以上、この虚を黒結晶と変え、本物の代わりにここに打ち込む」
「できるのですか? このまがい物で」
「魂魄量でははるかに劣る。到底、同じようには扱えぬ」
白い法衣の者が、杖を突いた。
「だが、我々には、ここに至るまでに用意してきた同胞の亡骸が無数にある。足りなければ足すだけだ。それに——」
白い法衣の者が、ゆっくりと桃色の法衣の者のほうを向いた。
「まがい物にはまがい物にしかできないことがある。そうではないか?」
「まあ、そうですね」
桃色の法衣の者が、静かに胸の前で印を切った。
自身の周りに、青白い、一つの水平に広がった環ができた。
宙に現れた環から、同じように何かが、滑るように落ちてきた。
桃色の法衣の者だった。
すでにいた女と全く同じ格好の生き物が、全く同じように黒い環から現れていた。
「まがい物の意地として、私が足止めを受け持ちましょう。あの気性の荒い星の君が、この虚を結晶化するまで悠長に待ってくれるとも思えません」
初めからいた桃色の法衣の者が、袖から一つの小さな鈴を取り出した。虹色に鈍く光る、水晶のような小さな鈴。振るように回すが、何一つ鈴は音が鳴らなかった。
鈴を鳴らす桃色の法衣の者の隣、新たに出現した同じ風体の女が、自身の胸の前で印を切った。
青白い光が走った。
はるか眼下、大虚の下で、青白い巨大な環が二つ、一瞬で広がった。
突き上げるように何かが吹き上がった。
青白い巨大な環の中から、自身が乗る大虚と変わらぬ、真っ黒な巨大な何かが這い上がるように突き出してきた。
甲高い、金切り声のような音が大気に響いた。
「それに——」
二体の桃色の法衣の者が、舞うように足場を蹴った。羽をつけた種が浮くように、新たに呼び出した大虚にそれぞれが飛び乗った。
「私は、先日あの連中に細切れにされたばかりなのです。多少は嫌な目でも見て頂かないと、納得というものが出来ませんので」
白い法衣の者が杖を捨てた。自身の顔の前で両の手を合わせる。
青白く光り始めた両の手の先、遠く、その隙間から、虹色に光る白い獣が一直線に向かってくるのが見えた。
「では、始めよう」
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