第二十三話 十二年の目覚め(三)

 一瞬だった。

 望天ぼうてんも法衣の男も、何一つ反応ができなかった。


 青白く照らされた狭い石造りの部屋の中、中央に浮かぶ黒い石から、一瞬の間に無数の真っ黒な腕のようなものが生えた。


 触手のような黒い筋が、岩でできた天井へ突き刺さるように立ち上った。突然の動きに何一つ身構える間もなく、黒い触手が何の抵抗もなく吸い込まれるように岩を貫通していくのを見た。


 反応ができなかった。あまりに一瞬の出来事だった。吸い込まれるように浸透していった触手が、天井から「何か」を掴んだまま、螺旋を描き引きずり込むように落ちてきた。


 まるで捕食だった。

 一瞬で黒い結晶が膨らみ、何かを飲み込んだ。


 一瞬だった。

 目の前で起こった現象に、望天と法衣の男が反射するかのように印を切っていた。


 二人を包む青白い膜ができると同時に、「何か」を飲み込んだ黒結晶のとげが二人ごと部屋を貫いた。


 急速に膨らんだ黒結晶が、内側から部屋を破壊するように爆ぜた。






「貴様、何をした!」


 肥大化した昴宿ぼうしゅくの尾が、人の壁に潜む監正かんせいをひねりつぶす勢いで巻きつきにかかった。


 圧殺するかのような勢いの尾の渦の中、青白い何かが密着を阻んでいた。小さく両の手を組み突き出す監正の手前、青白く光る透明の膜が、尾と監正の間を強く覆っていた。


「今のはうろだったぞ……!」


 激高する昴宿に睨まれた中、監正の額から汗がにじみ出ていた。


 監正を取り巻く昴宿の尾が、一段と収縮する力を強めた。小柄な監正の身長はあろうかという幅にまで肥大化した尾が、監正を握りつぶすべくまとわりついていた。


「答えろ! 明星めいせいをどこへやった!」


 瞬間、大部屋全体が、跳ねるように何かに突き上げられた。


 地面が、まるで何かを消化するかのように動いていた。大きな何かが、強烈に建物を下から突き上げている。地震のように規則的に続くのではなく、何か、まるで生きている巨人が、地面の下から表面を叩き割る連撃を打ち込むように突き上げてきていた。


 昴宿から舌打ちが漏れた。


 監正へ巻き付けていた尾を離し、大部屋の机を蹴り飛び跳ねた。壁面をぶち抜きになっている大部屋から飛び出し、月光の元、かがり火のたかれた広場へ弧を描くように着地した。


 広場もまた、揺れていた。激しい揺れに耐えきれず、かがり火が燃えたまま倒れていた。火の粉を飛ばした薪が、金網からこぼれるように地面へ落ちている。遠くで大声を張り上げる人々が、我先に建物から飛び出してくるのが見えた。


 大きな、嫌にきしむ音が響いた。同時に、石で敷き詰められていた広場が実を割るように二つに裂けた。


 石畳の下、顔をのぞかせた割れ目の中から、水晶のように鋭く、とげを持つ黒い何かが、勢いよくその体を伸ばし生え始めた。


 昴宿が勢いよく宙へ跳んだ。建物の高さを超えるはるか空、眼下で、黒い水晶のとげが、まるで勢いよく氷った黒いつららが重力に逆らい伸びるかのように急速に空まで突き上げてきた。


 昴宿が、浮いていた。

 目を見開いたまま、着地もままならずただ夜の中を滑空していた。


 次の行動を決め込むことができなかった。人間のときを超えるはるか長い時間を生きてきた昴宿にとっても、初めて見る光景だった。


 黒い、いばらの塔だった。

 宮中内、もっとも高い位置にある時の鐘を超え、黒いとげをもつ結晶が、まるで巨大ないばらの垣を作るかのように生えていた。


 青白い炎が走った。


 裾に向けて広がる黒い樹木の根元から、稲光のように青白い光が走った。外側から樹木の先端へ向けて、輪を描くように青白い光が集約していく。黒い樹木の最上段、空を掴むほどの高さの先端にたどり着いた光が、空へ向かって一直線に立ち昇った。


 先端から放たれた青白い稲妻が、跳ぶ昴宿の位置をはるかに超え、天高く空の中心で球体にまとまっていった。小さな光のけし粒になるまで圧縮されたかと思うと、一瞬で膨れた。


 空に、宮中を飲み込むほどの巨大な、青白い環が出来上がっていた。


 滑空していた昴宿が、環の下からその中心を睨み据えた。


 環の中は、夜空に続いていなかった。月も星も、本来あるべき場所になかった。環の中は完全に別の闇になっていた。


 真っ黒な何か。それが真っ黒な穴から落ちてくるのがわかった。あまりに巨大な物体が、ゆっくりと空から降ってくる。


 ゆっくりではなかった。通常の速度なのだ。ただ、あまりに馬鹿でかくあまりに高い位置から落ちてくる。それがただゆっくりに見えただけだ。


 黒い大きな物体が、宮中の建物が密集した区画に落ちた。瓦、木材、ありとあらゆるものを吹き飛ばしながら、すべてを薙ぐような衝撃波が走った。波にのまれた宮中の灯りが、消し飛ばすような風で一瞬で吹き消えていった。


 上空の環が、役目を終えたかのように収縮していった。小さな光だけを残し弾けるように消えたときには、真っ黒な巨大な何かが、建物を砕き覆いかぶさるように残っていただけだった。


 瞬間、甲高い、金切り声のような音が大気全体に鳴り響いた。


 昴宿はまだ滑空を続けていた。直感が、いつになく危険だということを伝えていた。即座の着地を許さなかった。


 空にそびえたつように生えた黒い樹木の中腹へ、ゆっくりと降り立った。


 これは、うろだ。

 兵部からの転送陣を出た際に見た、あの宮中にのしかかったまま動きを止めていた大虚が、今呼び出されたのだ。


 四方、花火が打ちあがるような音が響いた。かがり火が消され、真っ暗になった宮中の暗闇が、一気に黄色い明かりに照らし出された。


 照明弾だった。いたるところから球状の光が打ち上げられていた。はるか上空で、橙色に光る玉が、強い光を発しながら緩やかに地面へと落ちていく。この夜の闇の中、消えたかがり火よりもはるかに強い光が連続でいくつも打ちあがっていた。


 より一層、見えてしまった。

 今まで闇に溶け見えなかっただけの黒い塊が、その輪郭をはっきりと見せつけるように照らし出されていた。


 光を浴びた、巨大なナメクジのような形をしていた。


 大虚が、再度、甲高い咆哮のような音を大気に鳴り響かせた。


 昴宿もまた、毛を逆立たせ全力で吠えた。


 間に合わせなければならない。

 見知った気配を、足元から生える巨大な黒い樹木の中、その奥深くから確かに感じていた。







 黒く伸びた結晶を、望天が断ち切るように刀を振った。水晶のように表面が反射する中、切りつけた刀から聞こえた音は、乾いた石を割る音ではなく思ったよりも鈍い、木を切るような音だった。


「よっ」


 黒い、いばらのように絡み合った黒結晶から、望天と、その左手に引きずられるような体で法衣を着た男が出てきた。


 運よく生き残った。あの中でよく生き残った。そんな気がした。

 黒結晶の爆発から逃れ出た先は、眼下に宮中が広がる広場の中だった。地面までまだいくらか高さがある。このとげの中をそのまま落ちたのでは、死ぬかもしれない。


 遠い空に、照明弾がいくつも打ちあがっていた。夜空の中、至る場所で燃えるように光が点滅している。何度見ても、ろくでもない光景にしか見えない。


 先ほど、黒結晶全体に青白い稲光のようなものが走ったのを見た。あれが何の光だったのかはわからなかった。

 だがこの複雑に絡みつく黒いとげのようなものの外に出て、あの時何が起こったのかやっと今把握ができた。


 眼前の奥、宮中の内の内、天子の居住する光城に、馬鹿でかい真っ黒な大虚がのしかかっていた。


「ああ」


 となりで、へたりこむように座る法衣を着た男から、あきらめたような声が出た。


「やはり、こうなりましたか」


 望天が、自分の乗る黒い水晶のような塊をつかみ、軽くこぶしで叩いた。


「この黒結晶の馬鹿でかいのみたいなのは何なんだ?」


 足腰が立たないのか、縦横無尽に伸びる結晶の平たい場所で座り込んだ男が、つぶやくように口を開いた。


「黒結晶に何か異物が混ざりました。強引に結晶の形を保っていたものが、再度虚に戻ってしまった」


 異物。

 さっき見た、天井から何か落ちてきたように見えたあれのことか。


 望天が、自分の乗るそびえたつ樹木のような黒い塊を、先端まで仰ぎ見た。黒く、光を反射する水晶のようないばらが、あたり一面にそのとげを伸ばし、塔のように天までそびえたっている。


「虚というよりは、まだ黒結晶の形を保ってるように見えるんだが」

「わかりません。そもそもこのような状態は、私は今まで聞いたことがない」


 おもむろに、男が胃の中のものを吐き始めた。ほんのわずか、すえた嘔吐物の匂いが風に乗り望天の鼻に入る。僅かに眉をひそめた。


 袖で口を拭きながら、男が口を開いた。


「何にせよ、黒結晶からの魂魄が途切れてしまった。もうあの大虚を隔離する方法はありません」


 遠く、甲高い金切り声が夜空に響いた。


 視線の先、照明弾に強く照らしだされた、黒い巨大なナメクジを見た。

 ゆっくりと、そのひだのような裾を広げていた。何かの建築物が、飲み込まれるように崩れていく。


 天子はいち早く都を捨てて逃げた。そう聞いていたが、この様子を見る限りでは正解だったと思った。逃げもせずまだ光城に居すわられていたら、今この場で食われてしまっていただろう。


 足元で、複数の兵部の人間が走っていくのが見えた。遠く、追加の照明弾が連続で上がっている。


 ふと、まだ今回の方がましか、とも思った。少なくとも、今日は嵐ではない。


 十二年前に大虚が都を襲った時とほぼ変わらない光景――


「望天殿」


 胃の中のものを出し終えた男から、声が出た。


「これから我々は、自分自身に呪力を込め、我々自身を呪いの核としあの大虚と同化してまいります」


「まあ、ちょっと、待てよ」


 望天から、緊迫した男とは対照的に間延びした声が出た。


「今、あの大虚を黒結晶にするには色んなもんが足りない。あの時は天狐てんこの契約者がいた」

太白たいはくですか」

「ああ。でも今はいない。このまま命をかけても出目の悪いクソ勝負になるだけだ」


 突然、足元の黒いとげが酷く揺れた。複雑に絡み合う黒いとげが、砕けるようにいくつも折れて落ちていく。


 地面へ落ちてしまう。

 法衣の男を掴んだ。他のとげに望天がしがみつく中、頭上を青白い流れ星のような何かが走っていた。


 昴宿だった。照明弾が打ちあがる中、青白い狐が、空までそびえたった黒結晶の樹木へとんでもない速度で何度も体を打ち付けていた。


「天狐殿!」


 望天が叫んだ。聞こえないのかそれとも無視しているのか、一切声に反応することなく昴宿はただひたすらに体当たりを繰り返していた。


「望天殿」


 勢いよく頭上から黒いとげが砕け降ってくる中、法衣の男から小さく声が出た。


「虚が――」


 視線の先、はるか先の光城にいた大虚が、ゆっくりと方向を変え、移動し始めていた。


 目を疑った。

 黒いナメクジのような巨大な虚が、明らかにこちらに向かっていた。


「そうか——」


 はっとするような声が、望天から出た。


 虚にとっての本能。その身を人の魂魄で満たすため、人を食う。

 この場にある最大の人の魂魄――


 十二年前、都の人間を食い散らかし、大量の魂魄をため込んだこの黒結晶。

 これが最大の魂魄でないわけがない。


「あの大虚、この黒結晶を食いに来るぞ」


 空から、青白い光が、螺旋を描きながら落ちてきた。

 望天の頭上にある黒いとげに、白い何かが音もなく着地した。


 昴宿だった。


 頭上に降り立った昴宿の白い体に、赤い筋が滲んでいた。


「天狐殿」

「一つだけ質問をする」


 昴宿が静かに言葉を続けた。


「貴様、明星をどういった目的でここへ連れてきた」


 ひりついた空気が走った。

 突然飛んできた昴宿の言葉に、誰一人言葉を発しなかった。


 照明弾が打ちあがる中、望天の顔が、橙色の光でさらに強く照らし出された。


「天狐との契約者である明星には、ここ都で虚を殺してもらう必要があります」

「建前などいらん……!」


 昴宿が、強く望天を睨んだ。


「返答次第では貴様も殺す!」


 感情が、流れ込むような昴宿の言葉だった。望天の隣にいた法衣の男が、小さく声を上げてその身を退けた。


 望天が、まっすぐに昴宿を見た。

 軽く、困ったように笑ったあと、少しだけさみしげに口を開いた。


「誰一人、頼れるものがなくなった甥がただ一人生きていたら、何とかしてやろうと思うのは不自然な感情ではないでしょう」


「あれを、お前は甥だと言うのか」

「そうでなければ、何だというのですか」


 昴宿が、望天の言葉に一瞬ためらったように口を開いた。


「ならばお前は! この十二年前の黒結晶のあるこの地に、こうなることも覚悟の上で連れてきたのか……?!」


「こうなる?」


 にらみ続ける昴宿が、首を、樹木のようにそびえたった黒結晶の中心へ向けた。


 望天が視線の先を見た。

 複雑に絡まり合ったいばらのような黒いとげの中、塊のようなものが奥深くにあった。黒い塊の中で、青白く燃える小さな炎を見つめた。


 はっと、気が付いた。

 知っている魂魄の波動だった。


 さっき飲み込まれた異物――


「お前は……! 太白が命をかけて虚から引きずり出したことを無駄にする気か……!」


 黒いとげの塊の中、明星の魂魄が間違いなくそこで動いていた。

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