第 十七話 狐と虚と草木妖(二)

 呼吸のたび、喉が貼り付くように痛んだ。焼けた空気を吸いすぎたせいだ。


 倒れ込むほど痛む中、それでも草木をかき分けた。

 暗がりの中、這うように斜面を駆け上った。体が、水の中をかくように重い。ひりつく喉を無視しけもの道を突っ切る。気力だけで動く足を、さらに前へ向けた。


 この先にある池へ、今すぐに行かなければならない。


 後ろに負った肉の塊が、私が動くたびに前後に揺れた。


 呼び寄せてしまった。

 私が、この何かを呼び寄せてしまったのだ。


 木に手をかけた瞬間、汗で手が滑った。新しく別の木を掴むも、足元がぬかるみで滑り握った木から手が離れた。


 致命的に、もう目の前には何もつかむものがなかった。


 足の先、もう地面がない中、何も踏ん張れず体をひねった。背から落ちるのだけは防がなければならない。苔と濡れた葉の積み重なる中へ肩から落ちた。木の根が出っ張る地面まで、滑るように転がり落ちた。


 鉢のような坂を下りきった後、痛みの中起き上がった。

 池の端へついていた。


 鬱蒼とした池の中央、木の隙間から、わずかに日が差し込んでいた。何一つ音のない中、水の上に、緩やかに曲がる真っ白な長髪をした若い女が、静かに湖面に立っていた。


 痛みの中、爆発するように拍動を生む心臓に手をあてた。呼吸を何度も繰り返す。


 私は、願わなければならない。この化物に。


 湖面の上、真っ白の髪をした女が、私を見た。





「あんちゃん、これなんだ?」


 鈍く重い曇り空の中、薪を背負った銀郎太ぎんろうたの後ろで、小さな女の子が声を上げていた。


 まだ七つにもならないほどの小さな子どもだった。道沿いの藪の中、木の根のあたりに、枯れた棒きれを突っ込んでいた。


 はっとした。すぐさま少女の手を掴み、藪から引き離すように引き寄せた。


うろだ、触るな」


 藪の中、かさと小さな音が聞こえた。

 しばらくの間、藪を睨んだ。

 銀郎太が再度目を凝らしたときにはもう、すでに小さな黒い蛇は藪の奥へ隠れ消えていた。


「虚?」

「人だけを食う生き物だ」


 銀郎太の声を聞いた少女が、つまらなそうな顔をした後、視線を追うように藪を見た。


 まだ、虚が残っているとは思っていなかった。昨年、都の方で、虚の来る風穴を封じたという話を聞いていた。そのかいあって、もう虚に襲われる心配はないと。だが、あれは間違いなく虚だった。

 あれから一年以上、潜んで生きていたのだろうか。


 どの道、あの大きさではもう何もできないだろう。小さな蛇と変わらない大きさだった。ゆっくりと、時間がたてば消えていくに違いない。


 座ったままの少女の手を、銀朗太がつなぐように握った。


「早く帰ろう」


 形の崩れた背負った薪を、再度腰を入れ背負いなおした。薮を見る少女の手をぐいと引く。


 銀郎太に手を引かれた少女が、黒い影が見えた藪をちらと見た。何も残ってはいなかった。

 兄の後ろを、遅れないように駆けていった。






 土壁で囲まれた風通しの悪い小屋の中で、銀郎太が勢いよく荷を降ろした。背負っていた大量の薪が、塊のまま音をたて壁に寄りかかるように倒れた。


 肩と首を、念入りに回した。凝り固まった肩に手を当て、しっかりと揉む。なで肩の、あまり体格の良いわけではない銀郎太の肩に、大量の薪を結んだ紐の跡が食い込むように残っていた。


 視界の先、小屋の中がおもむろに暗くなった。

 入り口で、体格の良い無精ひげの男が、無表情のまま銀郎太を見ていた。


 肩を揉む手を止めた。


「薪を、もらってきました」


 銀郎太の声に、男が無表情でうなずいた。


「他に、何かやることありますか」

「いや――」


 無表情の男が、どもったように一言だけを発し、小屋から離れていった。


 明るさを取り戻した小屋の中、銀郎太の額に、じっとりと汗がにじみ出ていた。

 もう秋も終わりに近い。明け方は霜が降りることもある。今でも羽織るものがなければ体温が奪われてしまうだろう。それでも額に汗が出たのは、労働のせいではなかった。慣れないあの男を前にした緊張が残っているからだ。


 何も言わず消えたあの男は、銀郎太の叔父だった。先月から、この小さな家で妹と共に世話になっていた。宮中に出仕していた星見ほしみの父が、この前の流行病であっけなく死んでしまった後、唯一の身よりとして銀郎太たちを引き取ってくれたのが、あの叔父だった。


 まだ何も慣れていなかった。叔父とはいえ、今までに接点は何一つなかった。都にいた使用人づてに、父に弟夫婦がいるというのは聞いたことがあったが、実際に妹とこの地に来るまで会ったことがなかった。何も語らなかった父は、詳しいことを聞く前に死んでしまった。


 引き取った理由はわかっている。

 長年宮中で務めた父による、まだ大人にならない自分たちへ支払われる恩給。ただそれだけのために、見も知らぬ自分たちをわざわざ引き取ったのだ。


 持ってきた薪を、元かある薪の山へさらに積み上げた。ほころびた袖で額をぬぐい、小屋から出た。


「銀郎太」


 母屋のほうから女の声がした。

 飾り気もなく髪を結った女が、布で手を拭いながら小走りで近寄ってきた。


 叔父の妻、義理の叔母だった。背の高い女の背に、首が座ったばかりの従兄弟が縛るように背負われていた。

 指をくわえた従兄弟と、叔母越しに視線が合った。小さく、銀郎太が眉を上げ笑った。指を口にくわえたまま、小さな生き物から笑い声が聞こえた。


 背に乗せた従兄弟を揺らしながら、叔母が口を開いた。


「さっき村長のほうから使いが来てさ。村の男連中集めてなんかやるっていうんだよ。悪いんだけどさ、うちの家から出す男出は、あんたにしたいんだよ」

「はい」

「多分、冬を越すための準備の話だろうからさ。あんた、今日も薪をもらってきたんだろ? だったらもう慣れたもんでさ。あとで村長から呼び出しがあると思うけど、そんときはもうあんたが直接頼むよ」


 一通り、一気に叔母がしゃべり終わると同時に、背に負われた従兄弟が声を上げて泣き出した。


「ああ、もう」


 叔母が背を揺らす。従兄弟が火がついたように泣いたまま、泣き止まない。

 叔母が、手をぬぐった布を小さく丸めて従兄弟に渡した。丸まった布を口に含み、火のついた従兄弟は静かに泣き止んだ。 


「じゃあ、そういうことで頼むからね」


 銀郎太の返事を待たず、叔母が背を揺らしながら家屋へ戻っていった。





「山は今、入れる状況じゃない」


 囲炉裏の火が爆ぜる中、額に包帯を巻いた中年の男が、あご髭の長いしなびた老人の前で酒を飲みながら言葉を続けた。


「都で、虚の来る風穴を閉じたとかいう話があったじゃないですか。あれから、本当に虚が出なくなった。あれで食い扶持をなくした虚狩りの連中が、そこらじゅうで山賊化してやがる」


 苦々しそうに吐き捨てた後、囲炉裏に差していた小さな干し魚を掴んだ。

 骨ごと頭からかぶり付き、噛み砕きながら中年の男が続けた。


「あいつらがどこに出てくるのか誰にもわからねえ。取り締まる人間すらいやしねえ。ただ、山道を通れば襲ってくるってだけだ。里に下りてわざわざ村を襲ってくるわけでもない。下手にあいつらの領域に踏み込んで、藪蛇つつくように刺激したんじゃ洒落にならんですよ」


「そうはいうが」


 しなびた老人が、囲炉裏の火にあたりながら口を開いた。


「冬を乗り切るのに、山に入らんでどうにかなるとはとても思えんしなぁ」

「あいつらは見境がねえ。金目のものがあろうがなかろうが、片っ端から襲って全部持っていこうとしやがる」


 困ったようなため息が、しなびた老人から出た。


「複数人、まとめて武装して入らんと、どうにもならんかな」


 中年の男が、怪訝そうに口を開いた。


「それでも山に入るんですかい?」

「山に入らなければ、飢えるか凍える。どの道どちらかで死んでしまう」


 老人が、火に当たる手を揉むようにこすり合わせた。


 小さく、薪がはじける音がした。

 囲炉裏の灯りだけの中、小さくため息をもらした後、老人が口を開いた。


「山に入るのは、家長とその跡継ぎではない男。それだけで山に入る。複数人集まって、笛を鈴、あとは武器。これでいいか」

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